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2009年03月17日
志ん生二元論
「我々のしてることは、芸術と水商売を一緒にしてるようなもんですよ」
これは10年以上前、取材の最中、舞台役者・加藤健一氏から直接聞いた名言です。加藤健一事務所を率いて「舞台」という演劇芸術を実行しながら、同時に「興行」を満員にする、というサービス業をしなければならない。
この二つを両立出来なければ、「演劇界」という狭い世界でしか役者としても、興行者(プロデューサー)としても成り立って行かない。
そこで語られる「二元性」には「落語」だろうが「歌舞伎」だろうが「能」だろうが「サーカス」だろうが変わらない、「芸」という「非生産的行為」の持っている宿命と意味があると、わたくしは感心しました。
そこから私が思うに、各個人の持つ「芸」も本質的に「二元論」なのではありますまいか。
たとえば、「落語」で考えれば「演劇的話術」という芸術性と、「笑芸」というサービス業を並立させるもの、またはこの二つの矛盾する要素・エレメントの間を行きつ戻りつしながら、成り立つものなのではないでしょうか。
それを最も強く感じさせてくれるのが五代目古今亭志ん生師匠の芸です。
これまでに幾つもの志ん生論が語られ、綴られてきましたが、私にはどうしても納得が行かないものばかりでした。
「貧乏」「センス」「三語楼」「満州体験」「名人圓喬への傾倒」「非常識な個性」・・・それぞれは確かに志ん生師の一部分なのですが、あくまでも一部分でしかありません。無理にひつの理論の中へ志ん生師を押し込めているようで、『火焔太鼓』の楽しさと『富久』の哀れをいっしょくたに語れるものにはなっていないと思うのです。
私が考えるに、志ん生師は「演劇的話術」と「笑芸」の両立という「二元論」を分離しなかった、分離しても意味がないことを感じていたという意味で、まさしく本質的な落語家だったのではないでしょうか。
おそらくは無意識のまま、志ん生師は理論的に組み立てられて表現される「演劇的話術」と、直感で反射的に表現される「笑芸」(理屈で考えると何だか分からない表現)を使い分けられる、稀有な資質(おそらく、明治中期までの落語家なら当然の資質)の持ち主だった戸私は考えます。
一方、戦後を彩った落語家のうち、八代目桂文楽師匠・六代目三遊亭圓生師匠は「演劇的話術」という「一元」に自分を帰着・集約させようとした落語家さんではないかと思います。それは、明治以降、落語を擁護した文化人・作家の求める「芸術としての落語」に即したものでした。
「演劇的話術」という「一元」は、明治時代の圓朝以降、明治新政府の掲げた「欧米と列する近代国家日本」という筋道にあったものであり、明治38年の落語研究会発足から始まる「演劇的話術」の研磨研鑽は、歌舞伎界で九代目市川團十郎丈らの「演劇改良」などと呼応する「明治落語のあるへき姿」だったのかもしれません。
これに対して、「笑芸」として優れた落語を強調的に演じて、大衆の人気を博してきたのが、明治の鼻の三遊亭圓遊であり、柳家禽語楼、初代三遊亭遊三。大正~昭和の柳家三語楼、五代目三升家小勝、柳家金語楼、初代柳家権太楼、スカタンの桂春團治。戦後の三代目春風亭柳好、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌といった「人気者の系譜」に入る落語家さんたちでしょう。
彼らは「笑芸」を強調した表現の持ち主であり、「笑芸」として優れているがゆえに、「演劇的話術」しか分からない「一元論」派の文化人・作家からは「下らない芸」と、謂れなき差別を受けてきました。現実に明確な音源の残っている三代目春風亭柳好師匠、三代目三遊亭金馬師匠を聞けば、「笑芸」として優れているだけでなく、「話芸」としても優れているのが分ります。にも関わらず、それの分かる文化人・作家などがいなかった。これは今に至るまで、日本の文化人・作家の芸に対する教養レベル・笑いに対するセンスの低下を表すものでしかありません。
五代目古今亭志ん生師も昭和30年代当時までは、決して他界評価を受けた落語家さんではありません。当時としても「演劇的話術」と「笑芸」を使い分けられる「落語家」が、既に特異なものとなっていたのでしょう。
「演劇的話術」を発揮すれば『富久』『お直し』となり、「笑芸」を発揮すれば『火焔太鼓』『町内の若い衆』『寝床』となる。さらに、「演劇的話術」と「笑芸」の折衷部分で発揮されると、『黄金餅』『三枚起請』『らくだ』となる。センスのある人間が聞けば「演劇的話術」の凄さも分かり、普通のお客が聞いても「笑芸」として楽しめる。だから、大衆的な人気も得られる。
さらに、「日本の芸事」全般に言える事と私は考えますが、「芸は結局、演じる者の人格と観客の会話」であり、「演劇的話術」にも「笑芸」にも惹かれる「志ん生という人物」に接する事も出来るのですから、おそらくは「笑芸」の面から溢れ出てくる“人間としての志ん生師の不可思議さ”に惹きつけられもする。それが、現在に至るまで人気の頂点に立つ「古今亭志ん生という落語」になっていたのではないでしょうか。
ただ、志ん生師の場合も、落語研究会発足以降に落語家として育った経緯から、「演劇的話術」を「芸」、「笑芸」を「商売」として捉えていた気味はあります。志ん生師の名言として伝えられる「芸と商売は別のもの」や「一年中、芸を演っていたら体がもたない」がそれに当たると私は考えます。
こうした「演劇的話術」と「笑芸」を両立させる、という、戦後の落語家としては稀有な志ん生師の「落語家本来のセンス」を志ん生師以後、最も顕著に受け継いで見せたのは、子息の十代目金原亭馬生師匠でした。
馬生師も若い頃は意識的に「志ん生的二元論」とは違うスタイル、理屈で組み立てるメソッドで落語を語ろうとしていたようですが、我々の知る昭和50年代の馬生師は、完全に「志ん生の血の赴くままに落語を自在に演じている」落語家さんへと成長・成熟していました。
「演劇的話術」を発揮すれば『文違い』『お初徳兵衛』『千両蜜柑』『白ざつま』『富久』(志ん生師・馬生師が親子で残した最高傑作でしょう)となり、「笑芸」を発揮すれば『笊屋』『目黒の秋刀魚』『紀州』『抜け雀』『そば清』『花見の仇討』『親子酒』『替わり目』となる。二つの要素が折衷されて発揮されると『らくだ』『碁泥』『たがや』『王子の狐』『干物箱』となる。この事実は、昭和50年代に落語を体感した我々昭和30年前後生まれ世代に共通する「至高の体験」として、今も心深く残っています。
また、八代目文楽師的な「演劇的話術」一元論の信奉者と思われがちな古今亭志ん朝師匠にも、志ん生師的な「笑芸」の要素は発揮されていました。
それは『近江八景』『野晒し』『酢豆腐』『錦の袈裟』『幇間腹』『鮑熨斗』といった、演劇的ドラマを発揮しようのない噺にしばしば現れ、実に楽しい高座を生み出したものですが、そうした小ネタだけでなく、志ん朝師の最高傑作と私の思う『愛宕山』でも、「ここへ、ここへ」と両腕で丸い囲いを作って小判を投げて欲しいと訴える一八や、「狼はいけねェ、洒落がきかないから」なんてセリフのマンガ的な楽しさは「笑芸」としての超一級品でした。
馬生師・志ん朝師の脳内には、志ん生師の血脈として、落語の本質的感覚が強く息づいていたのです。
もちろん、志ん生師の持っていた「演劇的話術」と「笑芸」という、アンビバレンツな世界の両立を、他の血統の落語家さんが全く持っていなかった訳でもなく、また、志向していなかった訳でもありません。
たとえば、五代目柳家小さん師匠はお弟子さんに、こんな事をしばしば言っていたそうです。
「落語は通のもんだ。大衆には分からねェ」
「落語マニアに受けるだけじゃダメだ。落語は大衆に受けなきゃダメなんだ」
お弟子さんたちは、この相反する言葉をとう受け取ってよいのかと、混乱しちゃったそうですが、それは落語を「一元論」で考えるから混乱するだけで、二つの要素を両立させられなければ落語にはならない、と考えれば良いのではないでしょうか。矢張り、お弟子さんに小さん師が語ったという「落語はマンガだ」という言葉には「笑芸」としての落語への明確な示唆があります。
同様に、小さん師が良く言われた「人物の料簡になれ。狸の料簡になれ」も「演劇的話術」の鍛錬を指す言葉ではなく、「笑芸」としての話術の鍛錬、スタンスの取り方として考えると、実に真っ当なものである事が分かります。
ある意味、立川談志家元と柳家小三治師匠という、五代目小さん師の高弟二人は「人物の料簡になれ。狸の料簡になれ」を、「一元論的」に「演劇的話術」の課題として捉えてしまったのではないでしょうか。その結果、従順・反発両面で、非常に「演劇的話術」へと傾く芸風になっているのかもしれません。
三遊亭圓生師匠は晩年こそ、圓朝物をはじめ、「演劇的話術」に強く傾倒していましたが、子供の頃からの落語家で、様々なタイプの落語家を散見してきた体験があり、しかも「笑芸」中心の典型的落語家だったと思われる四代目橘家圓蔵の弟子だったことから、『湯屋番』『悔み』『浮世床』『弥次郎』『三十石の船中話』などには「笑芸」の要素がタップリとありました。
また、『包丁』『なめる』などの十八番物でも、「演じる者の人格」が「演劇的話術」を上回る魅力を発揮していたのは印象的です。圓生師と同じタイプの落語家さんだったのが、三代目桂三木助師匠ではないかと私は考えています。
八代目桂文楽師匠は「演劇的話術」一元論の最も忠実な体現者でしょう。
ただ、文楽師の「演劇的話術」は、小三治師やちょっと前までの談志家元のように、「演劇的」に噺や登場人物を演じるだけではなく、おそらくは文楽師の個人的小心さから来ると思われますが、「人格全体を演じる」「落語の登場人物の中に我が身を隠す」という、徹底した演劇的構造で生涯を通した落語家さんではないかと私には思われます。
おそらく、文楽師が一番恐れたのは「演じる者の人格」が噺に露呈する事だったのではないでしょうか。文楽師は「話術家」としても恐ろしくドライな芸風で、「自分が噺の中に身を隠すには邪魔な表現」を全て切り払って落語を構成しています。そこから、『よかちょろ』や『酢豆腐』といった、「笑芸」を指呼にも捉える「小奇麗なおかしさ」が表現として生まれてもいます。
ただ、そんな文楽師にも「演じる者の人格」が露骨に出てしまう作品はありました。それが『星野屋』です。
文楽師の身近にいた人たちの大半が「文楽師は “真打になるために無理に人情噺がかった『星野屋』を覚えさせられたから、どうしてもこの噺は好きになれなかった”と常々言っていた。つまり、『星野屋』は桂文楽にとって未完の作品である」という言葉や文章を残しています。
しかし、あれだけドライに噺を整理し、演目を絞った文楽師がなぜ『星野屋』を捨てられなかったのか、言及した文章や言葉を私は知りません。「信者」はまず大抵の場合、「師」を分析は出来ないのだから仕方ありませんが・・。
私には、文楽師の『星野屋』は決して出来の悪い作品だと思えません。
小三治師がまだ素人の時代、ラジオ番組「素人名人会」に出演して『星野屋』を演じた際、審査員だった文楽師が仕科の一部を見せてくれた。その仕科の余りの見事さに若き小三治師は驚かされた、というエピソードもあります。
事実、音源で聞いても、星野屋の旦那も重吉も妾お花も、輪郭クツキリと描かれています。ただ、お花をたばかって髪を切らせた後、自分は死んだと思わせていた星野屋の旦那がヌッとお花の妾宅へ現れる件が、まさに「色悪」の登場なのですね。文楽師の他の演目には登場してこないキャラクターです。
対外的、文化人向けには小奇麗にまとめられていた実生活でも、実際は女性に関して、かなり「色悪」だったという文楽師。その「演じる者の人格」が強く出てしまう『星野屋』という噺が文楽師には許せなかった。だから「好きになれない」と周囲に告げ、自分でも滅多に演じようとはしなかった。しかし、そこには「自分の本質」があり、「人格を曝け出して客と会話する」という「芸」の本質と魅力も感じてしまい、どうしても捨てきれない。それが文楽師と『星野屋』の関係なのではないでしょうか。
志ん生師の話から文楽師の話へと、あちらこちらしてしまいましたが、志ん生師の「落語」が持っていた「二元論は、」先代馬生師を一つの区切りとして、失われているように私には思えます。
先代馬生師の次の世代から、落語は「一元論」となり、それぞれの落語家さんが「自分の理論で自分を束縛する」ようになっているのではないでしょうか。そして、一元論的な落語家さんが「カリスマ」となり、弟子世代がそれを見習うようにして「自分の一元論」を確立しようとしている。
現在の東京の落語界は、私にはそう見えて仕方ありません。
もちろん、単純に「笑芸」を演じている落語家さんも多くいらっしゃいますから、寄席で暢気に落語を聞く楽しみは失われていないのですが・・・「落語ブーム」と呼ばれる状況下でありながら、「二元論」(多元論でもよいのです)を体現する「本当の意味でのリーダー的存在(巨匠)」が東京の落語界にいないのは惜しまれます。
妄言多謝 石井徹也(放送作家)
投稿者 落語 : 2009年03月17日 11:08