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2008年07月25日

大当たり「勧進帳」

大銀座落語祭の落語家「勧進帳」が予想以上の大出来、大当たりでとにかく面白かった。

正蔵、いっ平、小米朝というとにもかくにも知られている落語家三人で「勧進帳」を、という企画がまず大成功。「安宅新関」ではなく、長唄の「勧進帳」を大マジにやるというところがよかった。

一番よかったのは小米朝の富樫で、落語以上の?好成績。台詞回しがよかったし、読み上げで勧進帳をのぞき込むキマリなどが過剰なほどに「芝居がかって」いるのが面白く大喝采。 このひと、往年の市川崑「細雪」の若ボン役もよかったが、つまり役者体質なのであろう。

対する正蔵の弁慶は顔形がいい。眉も黒々と、男らしく、立派な弁慶役者。むろん玄人による化粧がされているとはいえ、それが顔にのるのも才能のひとつである。
花道の登場からカッチリと固くシリアスな弁慶をつくっているがどこか愛嬌があるところもいい。勧進帳の読み上げの後、客席から笑い声が起きたのはギャグではなく、ほっと息をついた弁慶につりこまれてのもので、体にある愛嬌のたまものと言えよう。台詞はやや難調ではあったが、男舞も幕切れの六法もしっかりしていた。

いっ平の義経は品があるところが長所。四天王や番卒もみなよかったが、なかでは一之輔がよかった。 これも小米朝と同様、芝居っけがプラスに作用している。

今回の勧進帳は長唄、三味線、囃子、舞台装置すべて歌舞伎と同じの特別版。
いわゆる鹿芝居と違って当て込みは無い。
だが、読み上げでのキマリや、義経を金剛杖で打擲するくだりは「結果的」に面白く大爆笑。狙った笑いよりも無論面白い。 詰めよりはで本当にギクシャク詰め寄ったので予想外の迫力があった。 (舞踊家ではない面々なのでとかく舞りになりがちな本職の勧進帳とはべつの「実」があったのも収穫である)
何よりも出演者の皆々の真剣さが、義経一行・関守一同の(物語に於ける)真剣さとダブり、感動を呼んだのだった。

以前、ある落語家さんから「鹿芝居は本来、誰でも知っている名人か売れっ子がやってこそ面白い」と言われたがその意味が今回よくわかった。「三津五郎の弁慶」を観に行くのと同じ意味で「正蔵の弁慶」を観に行くのだから(これが日本の芸能の特徴でもあるのだが)、それがたとえ巧い人でも見も知らぬ人ではこんなに盛り上がるはずもなかった。大向こうも大出来で、観客と舞台の気の交流がこれだけあったケースもめずらしい。

今回の「勧進帳」は過去5年間で見た大銀座落語祭の番組で一番面白かった。
それはなぜだろうか?

第一に、落語は演劇とは違って一人でやるものだから、たとえば「寺子屋」を播磨屋と高麗屋の顔合わせで、というような「顔合わせの面白さ」がじつは成立しにくい。

さらに、どんなにイベント性を高めても、落語は落語なので、たとえば落語家個人の独演会の高座よりも大銀座の高座のほうが必ずしも上質というふうにはなりにくい。

第二には「落語」の内容そのものが「祭り」と相反しているということ。ほかの先行芸能と違って落語には信仰(超越的な出来事を再現するという意味での信仰)の名残りがほとんど無いので、近代小説や近代劇と同じく、「祝祭的」にはなりにくい。落語をイベント化すればするほどどこか空しいのはそのためである。(唯一、襲名披露がお祭りになるのは故人の名前を継ぐという行為が、現代社会にはない呪術性、神秘性を持っているからである。二世落語家の存在が、技巧を越えて「なにか」があるように見えるのもここに関係している)

二世落語家三人による一世一代(再演はないという本来の意味で)の「勧進帳」が落語以上に面白かったのは快挙であり、その一方で「落語と祭り」の関係をはからずも照射してしまったとも言えるだろう。

松本尚久(放送作家)


http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080721-OYT1T00553.htm?from=navr

投稿者 落語 : 2008年07月25日 16:19