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2008年05月20日
五代目柳家小さん:その脅威と孤高の芸
五代目柳家小さん師匠が亡くなって、5月16日で七回忌を迎えました。
そこで、6月下席の新宿末広亭をはじめとして、今年前半、東京の落語界では、「五代目柳家小さん七回忌追善」を冠につけた公演が多いようです。
その五代目小さん師が得意としたネタに関して遺された「小さん語録」とでもいうべき文言を、私は昨年からお弟子さんに伺い、「柳噺研究会」のプログラムに連載しているのですが、実に興味深い文言の連続なのであります。
また同時に、その語録の断片を組み合わせて行く中で、小さん師が東京落語の演じ手として作り上げた世界の驚異的な高さには、改めて驚かされてもおります。
お弟子さんの言葉の中で、特に印象的なのは、次のひと言でした。
お弟子さん 「黒門町の文楽師匠(八代目)や圓生師匠(六代目)と違って、小さん師匠の芸を分析して書いている人って、いまだに誰もいないでしょう。師匠の高座を普通に聞いるだけじゃ、どこが良いかも、どこが悪いかも書けない。まして、それをお客や読み手に分からせるのはもっと難しい」
近年の落語ブームのおかげで、古今亭志ん朝師匠に関する書物を中心に、あまた落語家さんに関する文章・出版物が氾濫する中、確かに小さん師の落語を、詳細に分析したものは見た記憶がありません。
小さん師の芸の評価にしても、「滑稽落語・与太郎物の名手」「顔立ちを活かした表情の巧さ」「トボケた味わいがある」といった程度の表現に留まる場合が多く、分析的な検証は極めて少ないのですね。
その原因としては、明治時代から現在に至るまで、落語に関する分析・評論の著者には作家系が多いため、評価が文学的、芸術的範疇に傾きすぎている、というマイナス面が挙げられると、私は思っております。
確かに、小さん師の速記を読んでも、「名人文楽」と称された文楽師匠の「四万六千日、お暑い盛りでございます」のように、極めて濃密に攻勢された描写のフレーズや、志ん生師匠の「火鉢と甚兵衛さんと一緒に買っちゃったみたいだ」という優れた諧謔のフレーズには乏しいでしょ。
速記としてみれば、ごく当たり前の日常的な言葉を使った、ごくありふれた会話が存在しているだけですから、字面からは芸の切れ味や、表現の奥行きが分かり難いため、文学的・芸術的な分析・評論の対象となりにくいのは、こりゃ確かですわ。
また、小さん師の高座映像を参照したとしても、「昭和の大名人」と立川談志家元が称する圓生師匠のように、踊りや邦楽の素養をふんだんに取り入れ、華麗に演じて見せるという面は殆どありません。
その上、奇声などの飛び道具が決して目立たないよう、繊細に計算され尽くした小さん師の高座は、論理的に見えない分、ますます評価がしにくい!
「笑芸」に対する歴史的な評価の低さもあって、『強情灸』で熱さを我慢すると顔が真っ赤になる小さん師の演技はまことに凄いのですけれど、歌舞伎役者の見せる腹芸や、文楽の大夫さんの音遣いによる表現などに比べると、芸術としては評価されにくいのでしょう。実際は、真っ赤になった主人公の表情から、相手の表情に変わると顔色が平気で普通に戻るという凄い技術なのにも関わらず・・であります。
正直、戦後日本の蝉丸千人的世の中で、小さん師がよくぞ重要無形文化財=人間国宝に選ばれたものだわいと、私などは思ってしまうのです。
では、小さん師匠は落語家として、文楽師匠・志ん生師匠・圓生師匠と比べて、何が傑出しているのでしょうか? お弟子さんと、何回か話して得た一つの結論は、「最大のポイントは会話のリアクションにある」ということでした。
石井 「小さん師匠の落語って、クスグリが目立つ訳ではないのに面白い。リアクションの呼吸が凄いんですね。何でもないことを言っているのに、受け方が抜群に巧いんで実にオカシイ。良~く聞き返してみると、登場人物がお互いの言うことをちゃんと聞いているのが分かります」
お弟子さん 「その人物の料簡になってんですよ。たとえば、小さん一門で最初に習う『道灌』でいえば、師匠は隠居さんと八っつぁんの料簡で、ちゃんと八っつぁんらしい受け答えをしてるんです」
「人物の料簡になる」。
この言葉は、小さん師匠の芸談にしばしば登場します。
しかし、これは「料簡」から連想される「一個人の考え方」を表す言葉でもなきゃ、西洋演劇のスタニスラフスキー・システムに則った、「ある個人の人格の設定」に基づく、心理のリアルな表現形式でもありません。
むしろ、「一個人の人格」という狭い範囲を超えちゃって、「人間の普遍的なおかしさ」に繋がって行く点に、最大の特徴がありましたね。
極端に言うと、「集合的無意識」などに近い意識のあり方であります。
十八番の一つ『お化け長屋』を例に挙げてみましょう。
噺の中盤、古狸の杢兵衛が「怪談噺で長屋を借りにきた男を追い返した」と、長屋の仲間に語る件があります。その途中から、杢兵衛の話は怪談調を帯びてきます。
杢兵衛 「ふいと見るてェと枕元に殺されたお神さんが。緑の黒髪をおどろに乱してこれからこれが血みどろ血まみれ。越してきた人の顔を下からこのズーッと・・・」
仲間 「(怯えた表情で)やだなァおい、分かったよ、もう! ウン、そいで?」
「分かったよ、もう!」までは、どの落語家さんでも当たり前に出来るリアクションでしょうが、ほとんど間を置かずに語られる、「ウン、そいで?」という鋭いリアクションは小さん師独自の表現であり、ここで表現される心理の内容こそが、小さん師の芸の根幹となる「料簡」であると私は思います。
「ウン、そいで?」のひと言で、怪談噺に思わず引き込まれた長屋の仲間=個人の気持ちが表現されるだけでなく、引き込まれた結果、「その怪談、後はどうなるのだろう?」と、誰もが思ってしまうに違いない、という普遍的な心理(感情を伴った心理)が見事に表現されているのですね。実に自然で、しかも、普通の価値観の人なら、誰でも共感出来るリアクションなのであります。
それは同時に、“人間がなぜか表してしまうおかしさ(いわば業ですわ)”の表現として、落語ならではの奥行きある人間観を作っちゃう。
しかもこの時、心理的な状況において、観客もまた長屋の仲間と同一化するのです。仏教用語で言う「自他不二」みたいな世界が小さん師にはあるんだなァ!
私の知る限り、他の落語家さんに、この強烈な普遍性はは殆ど見られません。申し訳ないけれど、お弟子さんでも継承されている方は一人もいないと私は思います。
(お弟子さんではないけれど、橘家文左衛門師匠の『道灌』は、現在の演者の中では、小さん師の考えた「料簡」にかなり即していると思う。独得の不良っぽい個性の影に小さん師的世界を隠している辺りは、如何にも落語家さんらしいテレなのだが)
演劇の場合ならば、相手の言葉や行動へのリアクションだから、呼吸を詰めて相手の言葉を聞けば、そのように表現が出来るのも分かりますよ。
でも、完全な一人芸である落語で、相手役の言葉を完璧に聞き、一瞬にして他人格の奥行きあるリアクションとして表現されるのだから、これは凄い!
「この人、いったいどういう頭の構造になってるの?」と私などは思っちゃいます。
小さん師匠の落語がしばしば、「職人芸の極み」といった程度の、安易な理解による安易な形容で称されてしまうのも、こうした落語でしかありえないリアクション、つまりは、「料簡」の在り方によるものなのではないでしょうか。
この「料簡」のあり方は十八番中の十八番『睨み返し』でも効果を発揮しています。
終盤に出てくる壮士風の借金掛合い屋(那須正勝という役名で知られている)は、非常に居丈高な言葉や態度で、睨み屋を散々威嚇します。
しかし、その威嚇に決してひるまない、睨み屋の強硬にして不屈の表情に不安を感じるや、次の瞬間、「いや、あ~、そういえばことが穏やかでないけどもねェ」と借金掛合い屋一気に言葉の調子を変えて引くのです。このリアクションも、一門の皆さんをはじめ、誰にも表現出来ない、小さん師ならではの妙技ですゾ。
お弟子さん 「睨み屋で息をグッグッと詰めてたのが、瞬時に切り替えし、那須正勝で一気に引くんですからねェ。凄い計算に裏打ちされてますよ。小さん師匠に教えて貰ったように、そういう料簡にはボクもなれますけれど、それを客に分かるようにリアクションとして表現出来ちゃうのが師匠の凄さだな。料簡を表現まで芸として高めるのは本当に難しい」
石井「そういう緻密な計算や鍛錬が、ちょっと聞いただけでは分からないように演出されているのが、小さん師匠の凄い所ですよね」
お弟子さん 「談志師匠の言う“落語は人間の業の肯定だ”なんてのより、小さん師匠が普通に淡々と演ってる落語の中の業の方が凄いんじゃないかと思いますね。しかも、ウチの師匠はそういう難しいとこ、必ず受けてましたからねェ。それが味になってるから、クスグリを取っ払っても師匠の噺は面白いんですよ」
『睨み返し』のこの件に関しては、後日、立川談志家元にも伺いましたが、「あれは完璧。あんな凄いこと、オレには出来ない」と、絶賛をされておりました。
さて、五代目小さん師の芸系を甚だ大雑把に現すと、夏目漱石をして「名人である」と言わせしめた訥弁の名人・三代目小さん師匠の芸と、逆に能弁で名高い四代目小さんの芸を受け継いでいることになりますね。
また、四代目の能弁・警句百出の芸風には「気違い馬楽」と称される三代目蝶花楼馬楽師匠の芸が大きく影響しているようです。
つまり、五代目小さん師の芸は、三代目小さん・四代目小さん・三代目馬楽の芸がミックスされて育まれた芸だと考えられます。
また一方、小さん師は二ツ目から真打時代、目にし、耳にした、どちらかといえば「落語家として一流とはいえなかった先輩たち」の長所や、優れた演出も、自分の身の丈に仕立て直して、細かく取り入れられています。 具体的に言えば、『禁酒番屋』で酒屋の手代が言う「どっこいしょ」や、『笠碁』で首を振りながら歩く演出などは、晩年は落語界から遠ざかり、困窮死をされたと伝えられる三代目柳亭燕枝師匠譲りです。
けれど、それはあくまでも芸の系譜や伝承の話で、小さん師個人の芸は様々な形で受け継ぎ、取り入れた芸を徹底的に自己流の鍛錬で磨き上げ、「孤高」と呼べるほどに高く、奥行きのある落語的表現として精製したものといえるでしょう。
高弟である立川談志家元や柳家小三治師匠は、どちらも優れた落語家さんだと思いますが、この二人をはじめとして、志ん朝師匠など落語協会の後輩ばかりでなく、文楽師匠や圓生師匠、三代目金馬師匠、三代目三木助師匠ら先輩をしても、小さん師の「孤高」には到達しえていないと、私には思えてならないのです。
それほどまでに、「料簡を表現まで高める」鍛錬としては、小さん師が長年修練された剣道の呼吸法が知らず知らずのうちに活かされているのではないか?と私は考えているのですが、これはまだあくまでも私見であります。
(剣道の呼吸が、自分の表現を自由自在に律するだけでなく、聞き手の側の感覚すら鍛錬することは十分にありえます。実は、剣道の呼吸法で多数の人間の能力を高める技法を、某予備校が英語の授業で使って成功を収めているのです。
また、小さん師のお弟子さんの中では、柳家さん喬師匠・柳亭市馬師匠の話術に、剣道の呼吸法を私は最近感じることがあります。芸能における、武道の呼吸や自他の間合いの取り方の導入は、結構面白い研究課題じゃないかしらん?)。
お弟子さん 「若い時、随分稽古したんだと思いますよ。演ってやろう!じゃなく、人物が自然と出るじゃないですか。話芸やテクニックを見せようなんてんじゃなく、出てくる人たちがみんな生きてるのが師匠の噺です。落語の好きな人は、小さん師匠を好きになりますよ」
現在の東京の落語界にも、八代目文楽、六代目圓生両師匠の芸に到達出来るレベルの芸を持つ方はいると私は思っておりますが、同時に、五代目小さんの芸には誰も到達出来ないのではないか!とも思います。
「東京の落語でしか表わせない世界」は、小さん師の中にこそ、あったのではないでしょうか(あと、あるとしたら、志ん生師匠の中かな)。
妄言多謝
石井徹也(放送作家)
投稿者 落語 : 2008年05月20日 10:12