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2007年11月04日

稽古の芸と、本番の芸 ~ 正統ってなに? ~

 最近、本業で狂言師・野村万作さんのインタヴュー番組に携わる機会があり、その資料として万作さんの著書を読み、それから実際にインタヴューを録った。その際、最も印象に残ったのは、万作さんが狂言という芸を好きになるキッカケだった。
 狂言師の家に生まれた万作は、父君(六世・野村万蔵)の手で子供時代から稽古場で狂言の基礎訓練を叩き込まれる。しかし、幼かった万作さんは基礎の平板さに「狂言というのは何てつまらない、古めかしい芸だろう」と感じて、狂言よりも十五代目羽左衛門や六代目菊五郎、初代吉右衛門のいた歌舞伎に魅了されていた。
 「父親のやっている狂言と比べて、歌舞伎の役者さんたちは何て楽しそうに、自由に演じているのだろう」と感じていたのだそうである。

 しかし、高校から大学へと進む頃、万作さんは父君の舞台を見ていて、稽古場で自分に教えている狂言とは、違う狂言を演じているのを感じた。それは羽左衛門や菊五郎、吉右衛門の歌舞伎のように、「楽しそうに」「自由に」演じられている芸だった。
 ここで万作さんは初めて気づく。「そうか、稽古で学ぶ基礎の芸と、自分が演じる応用の芸は違うんだ」。父君が舞台で演じていたのは、稽古場゛教えている、堅苦しく詰まらない基礎の芸ではなく、自分の芸風を十二分に活かした、面白くて、古めかしさなどと無縁の狂言だった。そこから万作さんは狂言という芸そのものを見直して、狂言に生きる事を決意した、というのである。「稽古で学ぶ芸と、自分が演じる芸は違う」。
 これは狂言だけでなく、落語も含めた、全ての芸能に共通する真実だろう。
 「芸の楽しさ」は、最終的には「個性」=「オリジナリティの発揮」なんである。

 寄席でいうと、話芸としては凄くシッカリしているのに、全然受けない、聞いていて楽しくない、「地味」としか言いようのない芸を演じている中堅からベテランの噺家さんを、昔から目にする事がある。それが大抵は、不思議なくらい大看板・名人上手のお弟子さんで、「師匠の影法師」みたいな芸になっている。
 つまり、この人たちは折角、師匠から基礎を教わり、落語の基本的な考え方を教わったのに、それを「かくあらねばならない」という風に信奉して縛られてしまい、「自分の個性やオリジナリティの発揮」を抑え込んでいるのだね。しかも、厄介な事に大看板のお弟子さんだから、「たとえ、お客に受けなくても自分は噺家として正統派である」というプライドが捨てられないらしい(そういう妄執を、極めて客観的に見ていると、落語の登場人物みたいで面白いのも事実だ)。

 たとえば、四代目小さん譲りで、先代小さん師匠が言われたという、「登場人物の料簡になれ」というのは、落語の基礎的な考え方として優れたものだとは思う。
 ただ、小さん師匠がこの基礎的な考えだけで落語を演っていたとは到底思えない。
 小さん師匠が『長短』のマクラで「顔の丸い方は心がおだやかで」と言いながら、あの丸い顔でニマーッと笑ってドッと受ける、なんてのは「料簡」とは無縁な芸だ。『うどん屋』で風邪っ引きがうどんをズルズルと食う仕科や、『花見の仇討』で突然、「キキキキィッ」という奇声を発するのも同様である。
 それは私の単なる幻想ではなく、小さん師匠のある高弟の方が「うちの師匠は、分からないようにクサく演るという、ズルさもありましたね」と苦笑しつつ語っていたくらいである。因みにこのお弟子さんは、ちゃんと「受ける自分の芸」をされている。

 また、先代の三代目小圓朝師匠は矢鱈と地味で、全く受けない噺家さんとして伝わっているが、稽古に通った当時の東大落語研究会の人たちが差し向かいで聞くと、小圓朝師匠の表情が実に豊かで面白いのに驚いた、というエピソードがある。
 これは「芸が小味」というより、二代目小圓朝師匠の子息として三遊亭圓朝師匠以来の“正統派落語”を自負していた三代目小圓朝師が、そこから勘違いした結果、「稽古で教える芸だけを高座でもしてしまった」って事ではあるまいか。
 文庫本化されている『三遊亭小圓朝集』の中で東大落語研究会の顧問だった飯島友治氏と話している芸談を読んでも、「観客不在のプライド」を感じてしまう。キツい言い方をすると、話術の技は持っていたけれど、落語を演じるセンスに欠けていた、というべきかもしれない。相手をしている飯島氏が、自分が見た明治大正昭和の名人芸だけを“正しい落語”と見て、リアリティのみにこだわり楽しさを省みない「落語原理主義者系」みたいな芸観の、いわば高等遊民だから、それに合わせたのかもしれないけれど。

 同様に、噺の仕科や声調を整える稽古の一貫として、歌舞音曲や歌舞伎を学んだり、落語の背景にある歴史的考証を学ぶのは構わないけれど、「正しく稽古された歌舞音曲」や「学者レベルの歴史公証的知識」を、「これが正しい」と奉じて、そのまま高座で演じるのも、どうかと思う。寄席は学校の先生が講義をする場所じゃないもん。
 歌舞音曲も歴史的考証も、極端にいえば話術さえも落語を演じる素材でしかない。
 落語で演じられる歌舞音曲や芝居は所詮ホンモノのパロディで構わないし、歴史的考証より、「嘘も方便」の楽しさの方が落語には大事ではあるまいか。
 「自分のオリジナリティを発揮して、自分も楽しみ、お客も楽しませる」ことに芸事の目標があるのではないか?と私には思えてならない。「芸術はエンタテインメントのしもべである」が私の持論でもある。

 落語に限らず、「正統派」とか「伝統」とか言い出すのは、大抵の場合、世の中に受け入れられない人間の憂さばらしみたいなものである。
 たかだか百年か千年で「古典芸能」っていう事自体が変なのだ。たとえば、ルネッサンスの絵画や彫刻を「古典芸術」なんて、一般的にいうかい?クラシックには「古典音楽」って言い方はあるが、あれも敦煌の莫嵩窟から出てきた琵琶の楽譜に残る音楽からすりゃ、「古典」と称するのがちゃんちゃらおかしい。

 現在の落語を大衆芸能だとは私も思いにくいけれど、たとえ人間国宝が二人も出たからといって、それはお役所の判断基準。観客として古典芸能だとは思っていない。
 まァ、人間てェのは弱いもんで、「正統派」や「古典芸能」に身を置いている方が、たとえお客にうけなくても、自分の芸に衷心では自信がなくても、「受けないのは正統派の芸の分からない客が悪い」という言い訳でプライドが保てるからなァ。
 でもね、そうやって、自分の心をガードしている芸ってのは、どうやっても面白く感じられないのでありますね。

 妄言多謝

                                            石井徹也 (放送作家)

投稿者 落語 : 2007年11月04日 10:50