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2007年11月27日
師走といえば『芝浜』と『文七元結』 ~その1 三木助『芝浜』の功績~
「師走」という言葉が飛び交うようになると、東京の落語界は歳末の風物を描いた噺の季節に入る。
冬の落語には『富久』『鼠穴』など、名作が多いが、この20年程で頓に演者が増えたのは『芝浜』だろう。
昭和29年の三越落語会で三代目・桂三木助師匠が演じ、芸術祭奨励賞を授与されてから50年余り。今や若手真打からベテランまで数多くの人が『芝浜』を演じる。
特に今年は、12月の上野鈴本演芸場中席で、10日間、日替わりで主任8人(入船亭扇遊師匠だけが3日間演じられる)が『芝浜』を演じる企画がある。どういう個性が発揮されるか、これはちょいと楽しみだ。
私が生で『芝浜』を聞いた記憶があるのは、先代柳家小さん師匠・先代金原亭馬生師匠・三遊亭金馬師匠・先代橘家圓蔵師匠・立川談志家元・古今亭志ん朝師匠・三遊亭圓楽師匠・柳家小三治師匠・三遊亭圓窓師匠・三遊亭圓彌師匠・柳家小満ん師匠・五街道雲助師匠・鈴々舎馬桜師匠・柳家権太楼師匠・古今亭志ん輔師匠・林家正蔵師匠・・・ちょいと数えただけでも、これくらいの高座を拝聴している。
テープでしか聞いていない中では、三代目三木助師が亡くなった時、古今亭志ん生師匠が東横落語会で代演した『芝浜』が印象的である。
談志家元・志ん朝師匠から下の世代には非常に演者が多く、先代小さん師までの世代が非常に少ないのは、三代目三木助師への遠慮だろうか。我ながら意外だったのは、柳家さん喬師匠と春風亭小朝師匠の『芝浜』を聞いてないことかな。
寄席で聞いた『芝浜』も多い。寄席の主任でも出来る長さの噺なのである。
圓窓師など、12月28日、昔の池袋演芸場における下席最終日仲入りでの口演! 因みに、その日の主任の談志家元。高座に上がるなら、「一年の楽日だから『芝浜』を演ろうと思ってきたんだけど、先に演られちまったら仕方ない」とボヤきながら、「『芝浜』じゃないけど、金に因んだ噺を演る」といって『三軒長屋』を演じていた。
『芝浜』に関しては、談志家元の問題提起以降、三木助師匠の「文学的芝浜」に対する反対意見や、「あんな嫁さんじゃ息が詰まる」といった意見が増え、演者それぞれに工夫を凝らして対抗している。ある師匠から「明けて行く空の色を色々と描写するなんて落語じゃない」と直接、聞いたこともある。
私も三木助師の演出が特に素晴らしいとは思わない。だいたい、「文学的」というほどの描写ではない。「文学的」なんて小説に失礼である。せいぜいが「文芸調」くらいのところではあるまいか。尤も、私は談志家元の「飲んじゃえ!」というお神さんと、「この子がお腹にいて」と言い訳をした小三治師のお神さんも苦手なのであるが。
で、逆に私の印象に残っている『芝浜』は三遊亭圓楽師と林家正蔵師の2人。
圓楽師の『芝浜』では、神さんに「お前さん、芝の浜でお金を拾った夢をみたことがあったろう?」と言われた魚勝が「思い出したくねえ。嫌な夢だ」と吐き捨てたのが印象的。「これは圓楽師の性根だな」と感じいった。正蔵師の場合は初演時、「人間は真面目に働かなきゃいけねェ」と魚勝が言った途端、台所で洗い物をしていた手を止めて振り返り、「お前さん今、なんていったの?」と笑顔で言った神さんが印象的だ。可愛くて、抱きしめたいような神さんで、「正蔵師の理想の女性かな」と思った。
「よそう、また夢になるといけねえ」というサゲが、余りにも良く出来すぎているため、どうしてもサゲに向かって行く噺になりがちなのだが、この2人の高座には、「別にサゲなんかなくてもいいや」と思わせる料簡があった。
さて、私の今シーズン最初の『芝浜』体験は10月の『讀賣GINZA落語会』の林家正蔵師匠。寄席では、11月の池袋演芸場夜席。主任で三遊亭金太郎師匠が演じた高座になる。正蔵師の高座は初演とは演出が違い、上記の神さんのセリフがないスタンダードな好演だった。一方、金太郎師匠の高座は寄席サイズで、マクラから30分くらいの口演だったが、久しぶりに聞く純三木助師型の『芝浜』だった。
その高座を聞きながら、私は三代目三木助師のことを思っていた。
『芝浜』はテープや記録の類で調べると、戦後でも八代目桂文治師匠、三代目春風亭柳好師匠、林家彦六師匠、先代三勝亭可楽師匠、先代三遊亭小圓朝師匠、四代目柳家つば女師匠と、演者のかなりいた噺だが、別に主任でなきゃ出来ない大ネタではなかった。
元々が三題噺から始まり、音曲師の演じる噺だったそうだから、サゲの良さだけを変われて気楽に演じられてきたのだろう。圓生師など、「初代の圓右師匠は、僅か12~3分で『芝浜』を演っていた」と、その著作に書かれていた筈である。
しかし、それを立派な大ネタ、主任ネタにしたのは、やはり三代目三木助師の功績である。どんなに文学的過ぎると言われても、初演当時の時代性や「落語」の社会的な扱われ方を考えれば仕方ない面もある。結果的に、賛否両論を呼んだことを含めて、ここまで論じられるネタにしたのは、三木助師一代の力ではあるまいか。
戦後の東京落語界で、演者一代で大ネタにグレードアップしたり、一寸他の演者や若手が手の出しにくい大ネタに変わった噺が幾つあるだろう。『芝浜』の他は、私が思うに、圓生師の『包丁』と、志ん生師の『お直し』『火焔太鼓』くらいではないだろうか。談志家元にも志ん朝師にも、そういう一代で作り上げたネタがあるだろうか?
私も『竃幽霊』や『宿屋の仇討』の方が、三木助師のネタとしてはレベルが上だとは思うけれど、『芝浜』以上の存在感を落語界に提示したネタはない。
歴史的にみて、やはり、「三木助芝浜、恐るべし」なのである。
妄言多謝
石井徹也 (放送作家)
投稿者 落語 : 16:16
2007年11月25日
第11回 「浜松町かもめ亭」は癒し系落語会でした。
第11回「ヤクルト 浜松町かもめ亭」が11月22日(木)、文化放送メディアプラスホールにて開催されました。
番組は以下の通りです。
立川吉幸 「家見舞い」
春風亭一之輔 「茶の湯」
柳亭市馬 「掛け取り」
~仲入り~
林家正蔵 「一文笛」
今回はとてもあたたか味のある落語家さん、演目がならびました。
「家見舞」は、兄貴分の新居を祝おうとする弟分二人の噺。ま、新居祝いの品がトンデモナイのですが。
「茶の湯」は、自己流の茶の湯を風流だ風流だと言って楽しむ?ご隠居と小僧さんの噺。
「掛け取り」は、年の暮れ、ツケ(借金)を払えない男が趣向尽くしでなんとか借金取りを追い返してしまう噺。活躍するのは亭主ですが、女房とのやりとりが実にいい。
この三席は、いずれも江戸庶民の日常生活を描いた落語らしい落語で、じつにほのぼのします。
「一文笛」だけはスリの世界を背景にした噺ですが、善意がおこした事件と救済がコンパクトに描かれ、人情味あふれる一席になっています。
演じてくださった皆さんも、今回は揃って癒しのある芸風。
冬場の落語は、かく暖かくあってほしいものだと思いました。
落語を聴いているときくらい、ほっとしたいではないですか。
(詳細なレポートは近く「浜松町かもめ亭」サイトに掲載いたします)
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恒例によりまして、終演後、ホール隣の会議室で打ち上げを開催いたしました。
写真1 芸の話を交わす正蔵さんと市馬さん。正蔵さんはいま「淀五郎」に取り組んでいる
とのことで、「淀五郎」と「中村仲蔵」のポイントの置き方の違いなどをお話しています。左端に小さく写っているのがお囃子担当の笹木美きえ師匠です。
写真2 右から何かを企む立川こはる、録音監修の草柳俊一氏、寄席文字の春亭右乃香さん(女子高生バージョン)。
写真3 くたびれて着席飲みに移行する皆さん。左から一之輔さん、正蔵さん、右乃香さん(妙にいろっぽい)、吉幸さん。
写真4 同じような写真。一之輔さんは落語界のキアヌ・リーブスと言われています。左端、松本(私)。たいして働いていないのに草臥れているかも。
さて次回、第12回公演は12月19日(水)開催。立川流忘年会として談春、文都、談笑、志ら乃の出演です。
そして新年は一周年記念会を1月23日(水)に開催。出演は喬太郎、小満ん、栄助、弥助、こはるです。
皆様のご来場をお待ちしています。
浜松町かもめ亭http://www.joqr.co.jp/kamome/
松本尚久 放送作家
投稿者 落語 : 23:07
2007年11月21日
火焔太鼓 リハーサル☆
いよいよ、今週金曜日!午後7時から!!ラジオ生ドラマ『火焔太鼓』
セリフも、音楽も、そして効果音も、全てが生!
全てが文化放送12Fのメディアプラスホールでリアルタイムに作り出されます。
まさにスリルと笑い!!
ゼヒお聴き下さい!
で。
ドラマの進行と効果音のタイミングをチェックするためのリハーサルが、つい先ほどメディアプラスホールで行われました。
リハーサルに参加した、”自称”風間杜夫さんと”偽称”観月ありささんが、こちら↓。
・・・・みなまで言うな・・・・分かってますって。ブーイングは飲み込んで下さいな。
・・・楽しかった~!!ナイスドラマ!
つーか、普段当たり前に思っている音を作り出すって、スゴイです。
”音”に敏感に生活してないと、作り出せないす。
びっくりしますよ、だってドラマの舞台である現代と江戸の音全部を作ってる場所、こんなっすよ↓。
・・・・・・意味わからん・・・・。
”アノ音”が、コレで出るんすよ↓。
コレなんて・・・見た目ではもうさっぱり。でも音聞いたらナットク↓。
これら全てを作り出した”音の匠”、玉井さんが、こちら↓。
お客さんの前での生ドラマつーことで、小判をリアルに用意して下さってます。
いやぁ~、至らぬ私の演技にも、この音が加わったら素晴らしい作品となりました。
だから!!
本物の風間さんと観月さん、そして生演奏だったらもう・・・・こりゃぁ~聴かなくちゃ!!
あなたもゼヒ、お聴き下さいね!!
金曜日の夜7時からでっす!!!
これ、本物の火焔太鼓に描いてある唐獅子↓。
・・・・・・・・この柄でのスカジャン、欲しい・・・・。
余計なことを考えた 文化放送 吉田涙子でしたん☆
投稿者 落語 : 14:03
2007年11月13日
11月23日は火焔太鼓!その前に、火焔太鼓を☆
11月23日、勤労感謝の日。
文化放送でまたまた、生ラジオドラマが放送されます。今回は「火焔太鼓」!!
台本、読ませていただきました・・・・面白い!!
どんな放送となるのか、私も個人的にとっても楽しみです。
・・・・・・・・・・・ん??
こんな方もいらっしゃるはず・・・・・・。
「”火焔太鼓”って、何よ。」と。
雅楽で使われる大太鼓のことです。
いやいや、そうでなくて・・・・落語の演目で・・・・ストーリーは・・・・。
放送の前に、予習はいかがですか?
落語の蔵で、ダウンロード可能です!
是非!
そして前日、22日は浜松町かもめ亭ですよ~☆
林家正蔵さん・柳亭市馬さん・春風亭一之輔さん・立川吉幸さんが登場!
市馬さんの歌声、聴けるかな??(笑)。こちらもお楽しみに☆
♪ど~ん、ど~ん♪、文化放送 吉田涙子でしたん☆ど~ん、ど~ん♪
投稿者 落語 : 14:14
2007年11月12日
東西芝居噺というエンタテインメント ~東のブラック、西の吉坊~
先月、2日続けて東西の噺家さんによる、芝居掛かりの高座を聞きましたが、これがどちらも東西芝居噺の神髄を感じさせる口演でありました。
最初に聞いたのが快楽亭ブラック師匠の『英国密航』。浜松町かもめ亭での口演。
『英国密航』は元来、浪曲で故・廣澤瓢右衛門老の十八番で、立川談志家元が絶賛していたネタで、私も東横劇場などで瓢右衛門先生の口演を聞いています。それを現在の国本武春先生が復活継承した後、台本を小佐田定雄氏に依頼してブラック師匠が落語化したとか。
井上聞太(後の井上馨)や伊藤俊輔(後の博文)ら、長州藩の若い武士5人が藩主から命じられ、幕府の御禁制を破って、英国密航を企てる幕末青春ストーリー。途中で村田蔵六(後の大村益次郎)に金策を頼んだり、英国商人に密航を頼んだりと、テンヤワンヤの挙句、日本を出港して英国ロンドンに着きます。特に、横浜を出港してから、遠州灘・上海・大西洋・ドーバー海峡・ロンドンまでの航路が英語混じりの道中付けになり、これが珍無類で楽しく、瓢右衛門先生のいわば聞かせ所になっておりました。
ブラック師は序盤から快調に、5人の若い武士のテンヤワンヤを、ブラック師ならではの諧謔を入れて、熱くおかしく語ってくれましたが、今回は節になっていた最後の導中付けをやめ、今回はまず5人の後の人生を紹介するパートを新たに挿入。いわば、映画の『アメリカン・グラフィティ』や『フロント・ページ』のラストみたいなものをプラスしています。
そこから再び小佐田氏の台本に戻ると、これがラスト、ロンドンに着いた5人がテムズ川河畔に立つ場面に置き換えられているという具合。しかも歌舞伎の『白浪五人男』の「稲瀬川勢揃い」の場のパロディになる大胆な改作!で、5人の武士が名乗りを上げる。これが無茶苦茶に面白かった!更に今回は、かもめ亭の松本尚久氏の提案もあり、ラストのツラネが「下座入り・完全版」のスタイルになっていました。このラストの下座入り「稲瀬川勢揃い」の場のパロディが、近年の東京型芝居噺の傑作!
だいたい、東京の芝居噺や芝居掛かりを使う噺は、ネタの切れ場(ラストシーン)で、下座が入り、それまでの噺口調から、歌舞伎の七五調科白に変わるのが特徴です。
演劇史的な歴史考証でいうと、「値段の高い歌舞伎を見られない庶民に、歌舞伎の雰囲気を味合わせることで人気を集めた」という事になりますが、それはあくまでも歴史考証。演者の心得はちょいと違うと思います。
東京の芝居噺の場合、芝居そのものを見せるのではなく、あくまでもパロディ。
そこで後ろ幕を落として遠見の背景を出したり、七五調科白を演者の特異な役者の声色で言ったりしたものであります。つまり、大切なのは「おとなの遊び心」なのですね。
だから、下座の音はあくまでも寄席の三味線や太鼓で構わないし(幕末に三遊亭圓朝師匠は、高座脇に長唄の三味線を数人置くという演出をしたこともありますが、それはまた別のイベント)、下座の音が多少ズレでも平気。あくまでもお客が楽しめればよいのです。
故・三遊亭圓生師匠は、そりゃあ決めの形などは実に綺麗でござんしたが、音が真面目な方だったため、本格的な芝居の三味線や鳴り物を使おうとしたり、下座のキッカケにもうるさかったそうです。それじゃ芝居噺の本道であるパロディが後ろに隠れてしまうというか、寄席の芸としては「ヤ~ボ」ってもん。あくまでも「ご趣向」なんですから。
近年、東京で芝居噺を演る方は、どうも圓生師型の「芝居を本格的に見せなきゃいけない病」に罹るようで、生真面目で洒落っ気に乏しいのが難。稽古段階で、キチンと覚えるのはいいけれど、それはあくまでも稽古の芸。実際の高座では「自分の噺」をしなきゃいけません。
だいたい、悪いけど歌舞伎の役者さんと噺家さんではご面相が違いましょ。「そこまで本格が好きなら、いっそ歌舞伎の化粧でもすりゃいいのに」と私などは思ってしまうのですね。そこは下座でキッカケがズレても平気で、自分がズレた下座に合わせていた林家彦六師匠の方が「落語の芝居噺」としては本道であります。
で、今回のブラック師は銅鑼の音、波音、鳴り物を背景に、出港後、ロンドンまでの船旅の場面で5人の武士の明治以降の姿を語るとロンドン到着。
そしていよいよ最後のテームズ河畔へ。5人の武士がロンドンブリッジに立つと、スコットランドヤード(笑)が取り囲み「フリーズ!」と声を掛ける!という大パロディで笑わせる。この小佐田台本の抜群のパロディ精神は凄い!三谷幸喜氏の傑作に匹敵します。
そこに太鼓が入り、「ホワット・ユア・ネーム?」(笑)と、捕り方に問われた5人が、「稲瀬川の場」と同じ鳴り物で(当り鉦も入る)、歌舞伎をパロったツラネを語り、それぞれが見得をするとツケ打ちも入る!最後に5人全員の「ならば手柄に、捕らえてみよ」の科白で再び太鼓を打ち、ツケ打ちで立ち回り。最後にトンカランと決まると、拍子木をチョンチョンで、「英国密航まずこれまで」という幕切れ。
ブラック師は落語界NO.1の歌舞伎通として有名ですが、噺家が「マジで芝居する」ことにテレちゃうという「正しい東京人感覚」の持ち主。であるからして、己の歌舞伎知識に縛られず、形はあくまでも歌舞伎風にとどめ、悠々と嬉しそうにツラネを語り、楽しげに見得をして、ツケ打ち主導で立ち回りを演じるといった具合なんです。
かくして、大仕掛けながらテンポのよい、軽い洒落っ気が溢れた芝居噺を演じて、彦六師系の正しいパロディぶりを発揮!という絶妙のセンスをみせてくれましたし、その「おとなの遊び心」の楽しさが客席にも伝わってくるのが、「落語」として素晴らしかった!これぞ、落語ならではの超エンタテインメント!
声色が得意な人なら、5人のツラネを役者(今なら有名人でも構わない)の声色で演じるという展開も考えられ、また東京の芝居噺では下座さんの弾く曲はあくまでもBGMで、上方版『立切れ』で使われる地唄の「雪」のように、作品内容と絡まないのが惜しいとも思いますけれど、まずは近年、この『英国密航』以上に面白い東京型芝居噺はありませんでしたね。
江戸から伝わる東京落語の洒落っ気、パロディ精神、エッセンスがタップリで、50分の長丁場にも大満足!であります
さて、その翌日聞いたのが上方の桂吉坊さん。浅草見番寄席「吉坊の会」での『蛸芝居』。
実は前日の『英国密航』でツケを打ってくれたのが吉坊さん。さすが米朝一門!踊りや鳴り物に関する修練が違います。
で、『蛸芝居』の話。『七段目』などに近い、芝居好き(というより芝居オタク)が集まった商人の家で、登場人物ほぼ全員が次から次へと芝居掛かりで遊び始めちゃう。遂には、魚屋の持ってきた蛸までが芝居を始めるという、これはまた落語でないと出来ないという、バ~カバカしさに溢れた、上方落語ならではの怪作、いや快作。たしか、ブラック師の『英国密航』の台本を書かれた小佐田定雄氏も、「一番好きな上方落語」に挙げていらした筈です。
ただし、正式にいうと上方の芝居噺は“ある芝居を一幕、30分ほどで演じてみせるネタで、ギャグは非常に少ない”もの。『蛸芝居』はあくまでも「芝居掛りになる落語」というべきかな。とはいえ、芝居掛りになる場面の豊富さは東京の芝居噺より遥かに多く、多彩なネタです。
この『蛸芝居』、近年では故・六代目笑福亭松鶴師匠の十八番でしたが、私は残念ながら直接拝見する事は出来ず、これも亡くなった桂文枝師匠が落語研究会で東上された際、拝見しおります。そして、吉坊さんの師匠である故・桂吉朝師匠も得意にしていたネタでした。
因みに東京の圓生師も子供時代、上方出身の三代目圓馬師匠から習って、この噺を演じられており、文枝師が研究会で口演された際、「子供の頃に演ってたんだ。懐かしいな」と、彦六師を誘い、揃って高座の袖から文枝師の口演を聞いていたというエピソードも残ってます。
吉坊さんの『蛸芝居』は多分、吉朝師譲りでしょうが(すみません。吉坊さんに確かめるのを忘れました)、科白や鳴り物に関しては、松鶴師や文枝師と殆ど違いません。
たとえば、芝居好きの魚屋が手に持った手拭いをクルクルと回しながら、派手に登場する辺りは二代目実川延若の芸風を取り入れた松鶴師系の演出でしょう。
また、店の小僧が赤ん坊を抱きながら芝居の真似を始め、見得をした瞬間、赤ん坊を放り投げる演出は、なんと明治時代の三友派の演出を殆ど引き継いでいます(元々の演出は赤ん坊をおぶっていたのではなかったかな)。米朝師は三友派の流れを引く方ですから、これはいわば直系の演出ですわ。
演出の話はさておき、童顔という持ち味もあって、店の小僧から蛸に至るまで、芝居オタクたちが「いい気持ち」になって芝居に興じる様子が如何にも可愛らしく楽しいのが、吉坊さんの『蛸芝居』の特徴。私が聞いた印象では、文枝師匠より吉坊さんの方が面白かったです。
吉坊さんの方が面白かった訳の一つには、上方の芝居噺の特性があると思います。
元来、上方の芝居噺は明治時代、初代桂文我師匠が始めたものですけれど、その後は、声変わりの時期に子役の噺家が「声を整え、形を覚えるために演じるもの」になりました。
米朝師も書かれていましたが、確かに戦後、東西で上方の芝居噺を演じた先代桂小文治師匠、笑福亭福松師匠、四代目桂文枝師匠、先代三遊亭圓馬師匠、花柳芳兵衛師匠(元先々代・桂小春團治)は、子役からの噺家さんばかりです。
つまり、先ほどのブラック師の『英国密航』が示してくれた、東京の芝居噺の「おとなの遊び」とは真逆の、「子供ならではの出し物」という点に、上方の芝居噺は展開したのですね。
この「芝居噺は子役が演じるもの」というスタイルをさらに遡ると、上方歌舞伎の古い「ちんこ芝居」にたどりつくのかな?と、私などは思います。「ちんこ芝居」も声変わりの時期の子供がするものですが、こちらはチョボの太夫さんに任せて科白は全く言わず、身振りだけをして「義太夫物」の基本を覚えるための芝居です。でも、その可憐さが、ちゃんと観客を集められる一つの興行ジャンルになっていたようです。
吉坊さんの「ニコニコ」という言葉がピッタリの童顔を彩る表情と(『サザエさん』のカツオみたいな顔してはりますねん)、小柄な体を一杯に使って決まる形の良さには、まさしく「ちんこ芝居」を思わせる可憐さ、可愛さ、楽しさがありました。
その可愛さが醸し出す楽しさは文枝師の『蛸芝居』や、林家染丸師匠の『昆布巻芝居』にはなかったもので、上方の芝居噺をこんなに楽しんだのは、私にとっては初めてであります!
いえば、上方の芝居噺や芝居掛の落語は「童心」を楽しむ、伝統のエンタテインメントなのかもしれません。その意味では、吉坊さんの『蛸芝居』、まさにピッタリでした!
ブラック師の『英国密航』も、吉坊さんの『蛸芝居』も、東西を通じて芝居噺の楽しさとは、科白や踊りの精巧なテクニックを楽しむのではなく(テクニックはあくまでもベースです)、「おとなの遊び心」や「童心」の描き出す無邪気さから生まれるものなのかも・・・そんな思いを感じている今日この頃の私なのであります。
長々と妄言多謝
石井徹也 (放送作家)
投稿者 落語 : 14:28
2007年11月04日
稽古の芸と、本番の芸 ~ 正統ってなに? ~
最近、本業で狂言師・野村万作さんのインタヴュー番組に携わる機会があり、その資料として万作さんの著書を読み、それから実際にインタヴューを録った。その際、最も印象に残ったのは、万作さんが狂言という芸を好きになるキッカケだった。
狂言師の家に生まれた万作は、父君(六世・野村万蔵)の手で子供時代から稽古場で狂言の基礎訓練を叩き込まれる。しかし、幼かった万作さんは基礎の平板さに「狂言というのは何てつまらない、古めかしい芸だろう」と感じて、狂言よりも十五代目羽左衛門や六代目菊五郎、初代吉右衛門のいた歌舞伎に魅了されていた。
「父親のやっている狂言と比べて、歌舞伎の役者さんたちは何て楽しそうに、自由に演じているのだろう」と感じていたのだそうである。
しかし、高校から大学へと進む頃、万作さんは父君の舞台を見ていて、稽古場で自分に教えている狂言とは、違う狂言を演じているのを感じた。それは羽左衛門や菊五郎、吉右衛門の歌舞伎のように、「楽しそうに」「自由に」演じられている芸だった。
ここで万作さんは初めて気づく。「そうか、稽古で学ぶ基礎の芸と、自分が演じる応用の芸は違うんだ」。父君が舞台で演じていたのは、稽古場゛教えている、堅苦しく詰まらない基礎の芸ではなく、自分の芸風を十二分に活かした、面白くて、古めかしさなどと無縁の狂言だった。そこから万作さんは狂言という芸そのものを見直して、狂言に生きる事を決意した、というのである。「稽古で学ぶ芸と、自分が演じる芸は違う」。
これは狂言だけでなく、落語も含めた、全ての芸能に共通する真実だろう。
「芸の楽しさ」は、最終的には「個性」=「オリジナリティの発揮」なんである。
寄席でいうと、話芸としては凄くシッカリしているのに、全然受けない、聞いていて楽しくない、「地味」としか言いようのない芸を演じている中堅からベテランの噺家さんを、昔から目にする事がある。それが大抵は、不思議なくらい大看板・名人上手のお弟子さんで、「師匠の影法師」みたいな芸になっている。
つまり、この人たちは折角、師匠から基礎を教わり、落語の基本的な考え方を教わったのに、それを「かくあらねばならない」という風に信奉して縛られてしまい、「自分の個性やオリジナリティの発揮」を抑え込んでいるのだね。しかも、厄介な事に大看板のお弟子さんだから、「たとえ、お客に受けなくても自分は噺家として正統派である」というプライドが捨てられないらしい(そういう妄執を、極めて客観的に見ていると、落語の登場人物みたいで面白いのも事実だ)。
たとえば、四代目小さん譲りで、先代小さん師匠が言われたという、「登場人物の料簡になれ」というのは、落語の基礎的な考え方として優れたものだとは思う。
ただ、小さん師匠がこの基礎的な考えだけで落語を演っていたとは到底思えない。
小さん師匠が『長短』のマクラで「顔の丸い方は心がおだやかで」と言いながら、あの丸い顔でニマーッと笑ってドッと受ける、なんてのは「料簡」とは無縁な芸だ。『うどん屋』で風邪っ引きがうどんをズルズルと食う仕科や、『花見の仇討』で突然、「キキキキィッ」という奇声を発するのも同様である。
それは私の単なる幻想ではなく、小さん師匠のある高弟の方が「うちの師匠は、分からないようにクサく演るという、ズルさもありましたね」と苦笑しつつ語っていたくらいである。因みにこのお弟子さんは、ちゃんと「受ける自分の芸」をされている。
また、先代の三代目小圓朝師匠は矢鱈と地味で、全く受けない噺家さんとして伝わっているが、稽古に通った当時の東大落語研究会の人たちが差し向かいで聞くと、小圓朝師匠の表情が実に豊かで面白いのに驚いた、というエピソードがある。
これは「芸が小味」というより、二代目小圓朝師匠の子息として三遊亭圓朝師匠以来の“正統派落語”を自負していた三代目小圓朝師が、そこから勘違いした結果、「稽古で教える芸だけを高座でもしてしまった」って事ではあるまいか。
文庫本化されている『三遊亭小圓朝集』の中で東大落語研究会の顧問だった飯島友治氏と話している芸談を読んでも、「観客不在のプライド」を感じてしまう。キツい言い方をすると、話術の技は持っていたけれど、落語を演じるセンスに欠けていた、というべきかもしれない。相手をしている飯島氏が、自分が見た明治大正昭和の名人芸だけを“正しい落語”と見て、リアリティのみにこだわり楽しさを省みない「落語原理主義者系」みたいな芸観の、いわば高等遊民だから、それに合わせたのかもしれないけれど。
同様に、噺の仕科や声調を整える稽古の一貫として、歌舞音曲や歌舞伎を学んだり、落語の背景にある歴史的考証を学ぶのは構わないけれど、「正しく稽古された歌舞音曲」や「学者レベルの歴史公証的知識」を、「これが正しい」と奉じて、そのまま高座で演じるのも、どうかと思う。寄席は学校の先生が講義をする場所じゃないもん。
歌舞音曲も歴史的考証も、極端にいえば話術さえも落語を演じる素材でしかない。
落語で演じられる歌舞音曲や芝居は所詮ホンモノのパロディで構わないし、歴史的考証より、「嘘も方便」の楽しさの方が落語には大事ではあるまいか。
「自分のオリジナリティを発揮して、自分も楽しみ、お客も楽しませる」ことに芸事の目標があるのではないか?と私には思えてならない。「芸術はエンタテインメントのしもべである」が私の持論でもある。
落語に限らず、「正統派」とか「伝統」とか言い出すのは、大抵の場合、世の中に受け入れられない人間の憂さばらしみたいなものである。
たかだか百年か千年で「古典芸能」っていう事自体が変なのだ。たとえば、ルネッサンスの絵画や彫刻を「古典芸術」なんて、一般的にいうかい?クラシックには「古典音楽」って言い方はあるが、あれも敦煌の莫嵩窟から出てきた琵琶の楽譜に残る音楽からすりゃ、「古典」と称するのがちゃんちゃらおかしい。
現在の落語を大衆芸能だとは私も思いにくいけれど、たとえ人間国宝が二人も出たからといって、それはお役所の判断基準。観客として古典芸能だとは思っていない。
まァ、人間てェのは弱いもんで、「正統派」や「古典芸能」に身を置いている方が、たとえお客にうけなくても、自分の芸に衷心では自信がなくても、「受けないのは正統派の芸の分からない客が悪い」という言い訳でプライドが保てるからなァ。
でもね、そうやって、自分の心をガードしている芸ってのは、どうやっても面白く感じられないのでありますね。
妄言多謝
石井徹也 (放送作家)
投稿者 落語 : 10:50