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2007年09月01日

寄席通いの名脇役が消えた日

友達が急にいなくなったような気がした。

上野広小路の仲通りから、ちょっと入った辺りにあった、蕎麦の『さら科』と、中華の『二三太楼』。この2名店が揃って、「後を継ぐ者がいない」って理由で、今年7月一杯で店を閉めたと知った時である。呆然、いや唖然というしかなかった。
『さら科』も『二三太楼』も小体な店だったが、東京の噺家さん、そして寄席ファン、上野鈴本演芸場や、かつての本牧亭に足繁く通った経験のある人にとっては、どちらも数多くの思い出があったろう店だ。

『さら科』は夕方5時から深夜までの営業だったから、鈴本や本牧亭が打ち出した後に行くにはもってこい。昼間、本牧亭の若手花形落語会を聞いて、それから夜は鈴本か、また本牧亭の『三人ばなし』の会を聞く、なんて時に小腹を塞ぐには最適だった。私も最初に行ったのは『三人ばなし』の後だったかな。もちろん、鈴本や本牧亭が打ち出してから、「ちょいと一杯」と仲間と連れ立って行くにも最適。酒の肴に、蕎麦を待つ間に、聞いてきたばかりの高座の噺、落語界のとりとめもない話を友人知人とする。
私の知り合いには、「吉原の帰りにゃ必ず寄るよ」というスケベもいたな。
まあ私も、本牧亭の公演とはいっても、先代馬生師匠の『馬生十八番』の始まる前だけは、馬生師お馴染みの『池の端・薮』へ行っちゃったけどね。

で、『さら科』は、グルメ雑誌を賑わすような、「どこそこの蕎麦粉を使い」「ここでしか飲めない吟醸酒を飲ませる」という能書き沢山の蕎麦屋ではない。
でも寄席帰りや、夕景、上野広小路で小腹が減ると『さら科』に足が向いた。
寄席の後、1人か、せいぜい2~3人で入り、軽く飲んで蕎麦。いつも温顔のご主人が椅子に座っていて、「おや、いらっしゃい」と声をかけてくれた。

もちろん、鈴本や本牧亭の出番前後の噺家さんもご定連である。私が一番最近見かけたのは、林家正雀師匠だったか・・・前座として鈴本に入った若手は「名題の親子丼(大好きだった)にもり1枚」ってのが、先輩に奢ってもらう際の定番だったらしい。
柳家小満ん師匠が若手時代から親しくされていた店で、以前の本牧亭で「小満んの会」があった時は、終演後、小満ん師もご家族とよく挨拶に来られていた。『三人ばなし』の前に蕎麦を手繰ろうと飛び込んだら、柳家小三治師匠が空いた蒸籠を前にムッツリと腕組みをしてェた事もある。「ネタ卸しの前になんか、楽屋にいられるかい」と、誰に言うとでもなく小三治師が呟いていたのが、昨日の事のようだ。

一時期、私はちょっとご縁が遠くなっていたが、この2年程、毎月1回は通っていた。私ゃ1合上戸だから、肴代わりに鍋焼きをとって(誠に野暮で申し訳ない)、冬は燗酒、夏はコップの冷かビール。それからもりを2枚が定番。昨年から今年にかけては、ご主人相手に、お江戸日本橋亭に移った『小満んの会』の話を何度かしたっけ。

『二三太楼』は『さら科』の通りを黒門町方向に歩き、右にちょっと曲がった路地にある。
夜6時から9時までの店だから、夜席を聞く前には開いてないし、夜席が打ち出してからだと、もう閉まってる。行きたいけど、高座を聞いてると行けないという不思議な店で、「行きたい」と思ってから、実際、営業時間に出くわすまで、1年以上かかったのを覚えている。『さら科』と違い数える程しか通えなかったのが悔しいし、鈴本や本牧亭の出番の行き帰り、気楽に立ち寄れる噺家さんが、ちょいと羨ましかった。

三遊亭圓龍師匠が著書の下町美味案内本に書かれていたが、柔らかい焼きソバや焼売が名物。これまた、最近のグルメラーメン屋の出す品とは全然違う、「如何にも東京らしい、ほどのよい店の、ほどのよい味」。

店の入り口もすだれとガラスの格子戸(正式には何というんだろう)1枚で、少しのテーブルとカウンターに扇風機、江戸前の小料理屋みたいである。
夏の宵、テーブルに座り、焼売とピータンでビールなんか飲んでると、小津安二郎作品に出てくる人物になったような気取りを感じたものだ。近所の旦那が一杯やった後、中華弁当なんか食べてたりする姿を見るのも、私は好きだったねェ。

『さら科』も『二三太楼』も、寄席の行き帰りを彩ってくれる大切な名脇役だった。
弱った・・私ゃこれから、鈴本の帰り、どの店に行きゃいいんだろう。

酒飲めば 歌えば酔えば 君の顔     三代目・桂三木助詠


                                          石井徹也 (放送作家)

投稿者 落語 : 2007年09月01日 00:57