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2007年04月05日
山谷堀の記憶
クイズ。
「夢金」「あくび指南」「小猿七之助」。
この三つの噺に共通するものはなにか?
船が出てくるという答えでももちろん正解ではあるが、もうちょっとマニアックな
回答としては「山谷堀が出てくる」というのはどうだろう。(「あくび指南」は
ちょっとわかりにくいかもしれないが、船で吉原に行くというのはつまり隅田川を
北上し、山谷堀に入るということである)
「山谷堀」。
隅田川の、言問橋のやや北側、待乳山聖天の小山を越した地点から、吉原、三ノ輪
に向けて斜めに走っている(いや、走っていた)水路である。
「夢金」の幕開きは山谷堀の船宿。雪の降りしきる晩、わけありの侍が年頃の娘を
連れて船宿の戸をたたく。「芝居見物の帰り、この雪で難渋している。永代まで船
を出してくれ」。もう寝床に入っていた船頭の熊が祝儀目当てでしぶしぶ船を出す。
山谷堀から大川へ、雪の中をすべり出す船の描写は三代目金馬から当代の談春が見
事に引き継いでいる。
「小猿七之助」は夏の噺。すばしっこいいところから小猿と仇名の七之助という船
頭が、当時全盛のお滝という芸者を乗せて山谷堀から船を出すのが噺のまくあき。
一人芸者に一人船頭は間違いがあってはいけないから御法度になっているのだが、
お滝は七之助に気があるので承知で乗り込んだ。そこへ身投げの騒ぎがあって・・
という長い因果物の発端。五代目神田伯龍の録音から自分のものにした立川談志の
傑作である。
私は生まれてから高校を出るまで、この山谷堀のすぐ近所に住んでいた。
山谷堀は私が物心ついたとき、再開発によってすでにほとんど埋め立てられていたが、
どうした理由か、最下流の聖天橋と今戸橋の間だけは、掘が残り、水をたたえてい
た。(Google Earthの画像の赤で囲んだ部分が水のあった部分。そしてかつては
青線の部分すべてが「山谷堀」だった)
それは上流も下流もない、四角形の「掘」で、いま考えてみれば奇妙な形である。
(ただし水脈そのものは地下水路で隅田川とつながっていたはずだ。時間帯に
よって水面の満ち引きもあった)
また「どこへも行きようのない船」が何艘かもやってあったがあれは何だったのだ
ろうか。この山谷堀の最後の「掘」の部分が埋め立てられたのは確か1986年頃
で、桜橋の開通(画像右側の橋)と前後していたかもしれない。
「山谷堀」はドブ川だった。たまに、なにかの気まぐれで聖天橋から水面を眺める
ことがあったけど、そこに何かがあったわけではない。
だが・・・今になって、山谷堀が跡形も無くなってしまったことに、私はとても大きな
喪失感を感じている。
台東区史によれば、山谷堀は吉原が移ってきた17世紀後半から遊び客が使う水路
として開け始め、両岸には船宿や料理屋が並んでいたという。
昭和にはいると(もう「船で吉原に行く」というスタイル自体がすでに旧時代的
だったので)寂れたという。
永井荷風は「墨東綺譚」(昭和12年)にこう書いている。
「裏道は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、
こなたは土管、地瓦、川土、材木などの問屋が人家の間にやや広い店口を示しているが、
堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気(まずしげ)な子家がちになって、夜は堀にかけ
られた正法寺橋、山谷橋、地方橋、髪洗橋などという橋の灯がわずかに道を照らすばか
り。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそ
くまで灯をつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう」
わたしが目にしていた山谷堀はこれからさらに半世紀後の眺めで、それは江戸の水路の
残滓のようなものだったのだろう。それにしても、掘り割りを埋め立てて公園にするこ
とにどんな意味があるのだろう。公園でちょっとした花見が出来たり散歩が出来る便利
さと引き替えに、取り返しの付かない「何か」を失ったのだと私は思う。
「夢金」や「小猿七之助」を聴くたびに、だから、私は複雑な気持ちになってしまう。
松本尚久
参考
江戸時代の山谷堀を含む絵地図
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-edo/edo-sanyabori1.html
水があった頃の山谷堀の写真がUPされている
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/sanyabori.html
投稿者 落語 : 2007年04月05日 01:48