ドコモ団塊倶楽部

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コラム:町田忍の団塊コレクション 23回 2009年04月06日

『学生服』

 思えば昭和40年代までは、
全国どこへ行っても
学生は学生服(制服)を着ていた。

 ではなぜ、このような、
特に男子において学生服が
着られるようになったのであろうか。

school_uniform.jpg
学生服

 実は、この学生服のルーツは、
軍服の影響を受けたものであった。

 したがって戦前においては、学生服に
ゲートルが常用にもなったという。

 一方、女子はというと、
大正時代頃より
濃紺や黒のセーラー服を着るようになった。

 戦前の一時期、また戦局の悪化した頃には
男子はカーキ色、女子はもんぺ姿に
変わったこともある。
 
 学生服の思い出としては、
エリの白いカラーと呼ばれるものが
割れると、首にあたって痛かったとか、
卒業時に、
女子が第2ボタンを貰いに来るとか、
つめ襟部分を内側にたたんで
「ブレザー」などといって
妙な遊びをしたことを思い出した。

 当時、学生服は あまり好きでもなかったが
今でもふと、
たまに着てみたくなってしまうのだった。

(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 22回 2009年03月19日

『家庭用マッチ』

 「燐寸」と書いて、かつては「マッチ」と読んだ。
いつごろだろうか、台所などから
マッチが姿を消したのは。

ここでいうマッチとは、家庭用マッチとか
徳用マッチと呼ばれるものである。

 徳用マッチは昭和40年頃を境にして
急激に姿を消してしまったのであった。
その原因は、100円ライターの出現で、
その結果、マッチの居場所は
なくなってしまったのであった。

 これら徳用マッチのデザインは
ユニークなものが多い。
しかしライターが主流となった現在でも
しっかりと徳用マッチは
活躍をしているようで、
それを物語るように、
コンビニでも販売されている。

match.jpg
徳用マッチの箱のデザインもさまざま

 今回、写真で紹介している徳用マッチも
ほとんどが 近年 収集したものである。
これらは、
かつて明治から大正時代にかけて
日本が全世界に向けて
マッチを輸出していた時代のものと
ほとんど変わらないデザインを
使用しているのだった。

 頑固に変えない点が
私は気に入っている。

(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 21回 2009年02月09日

『木造校舎の思い出』

 かつての学校――とくに
小学校の校舎といえば、
木造板張りのイメージが強い。

 事実、私の小学校時代を
思い起こしてみても、
木造二階建て、廊下や教室も板張りで、
上級生となると、モップに油をつけて
塗ったことも記憶にある。

 当然、エアコンなどはなく、
夏は暑いし、冬は寒い。
冬の暖房は、コークス使用の
ダルマストーブで、
週番が朝、校舎裏手にある
コークス置き場から、黒いバケツに
入れて教室に運んでおくのだった。

このストーブは、
周辺が かなり高温になるため、
近くの席の生徒は暑くたいへんである。

schoolhouse_built_of_wood.jpg
懐かしい木造校舎

 また、廊下はギシギシと音はするし、
トイレは暗くて、特に個室に入った時は
いやだった。

 そして、たいてい校舎の一番奥の方にある
資料室には 人体模型が、
廊下のロッカーの中には、
ヘビや魚や小動物のアルコール漬け標本、
センザンコウなどの剥製が置かれており
何か妙にオドロオドロしい
雰囲気が漂っていた。

(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 20回 2009年01月09日

『赤チン』

 赤チン。実に懐かしい言葉である。
そういえば最近、
トンとお目にかからなくなっている。

赤チンといえば、かつては
子供達がひざなどにケガをすると
日の丸のように塗ったものである。

 あの、塗った後の
赤くギラギラと輝いたのを見ると
いかにも「消毒しました」と
言わんばかりで
元気な子供の証でも
あったのである。

Mercurochrome.jpg
  赤チン

 しかし昭和30年代には すでに
黄色いヨードチンキや
黄色いリバノールも登場していた。

 さらにそのうちに、オキシフルという
透明な液体消毒薬が登場した。
これは、傷口に使用すると
モワモワと泡が発生するもので、
それを見るのが楽しかった。

 現在でも数社より
赤チンは発売されてはいるが
薬品名は
「マーキュロクロム液」となっており、
原料は海外から輸入している。

ただ、赤い色が目立つことから、
現在は、透明消毒液が
主流となっている。

(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 19回 2008年12月08日

『冬やすみ』
 
 今、私の手もとに、ガリ版刷りの
「ふゆやすみのおけいこ」という しおりがある。
おそらく当時は、
学校の先生の手作りだったのだろう。

fuyu-yasumi.jpg
ふゆやすみのしおり

 写真は、私が昭和33年(1558年)に
使用していたものである。
内容は
日記冬休みの宿題となっている。

 これにより、この頃の 冬休みの
子供の生活を知ることができるのと
思うので 簡単に紹介したい。

 お正月に、「お年玉」をもらうと
1月2日には、近所の神社に初詣に出かけ、
縁日にて「はりがね鉄砲」20円で、
5日には、駄菓子屋さんにて、
ガム10円で、5円で買っている。

しおりには ほかにも
「りか、あぶりだし」のページがあり、

 「みかんのしるで
  かみに えや じを かいて、
 かわいたら あぶってみましょう」

と 絵入りで やり方が解説してある。

 そのほか「はりえ」では
“クリスマスツリー”をやって、
花マルをもらっている。

絵日記は、近所の多摩川遊園地に
サーカスを見に行った時の
象の絵が描いてある。

 まだ我が家が、練炭のこたつを
使っていた時代のことである。
 
(町田忍) 

コラム:町田忍の団塊コレクション 18回 2008年11月08日

『蒸気機関車』
 
 今でこそ蒸気機関車(SL)といえば
主に観光用列車として注目されている。
 通常運転の旅客列車としては
北海道の室蘭本線において活躍していた
C57型が、1975年12月14日に最後の運行を終えた。
 
 ここに紹介した写真は1969年の2月に
北海道の函館本線を走っていた
D52型というSLで、その前に立っているのは
実は、私自身ということになる。
 当時、私は鉄道研究会に所属しており、
全国のSLを記録していた時の一枚である。
 
SL.jpg
39年前の函館にて…D52型と私
 
 戦前から昭和30年代にかけて
全国津々浦々で、ひたすら頑張り続けていた姿は
「人間に最も近い機械」とまで
表現されていたほどであった。

特に有名なD51型(デコイチまたはデゴイチ)は
戦前から昭和30年までになんと
1115両も生産された日本一多いSLだった。
その理由は、保守点検が容易だったことや
運転台からの見通しがいいことなどの
利便性の高さ、
それから「力」があったためであった。
 
 トンネルに入るときに
窓をいっせいに閉めたことは
今は昔となってしまった。
 
(町田忍)
 

コラム:町田忍の団塊コレクション 17回 2008年10月08日

『三色サインポール』
 
 さて、理髪店・理容室でまず頭に浮かぶのは、
店頭に置かれている、青・赤・白の三色の
「サインポール」というものだろう。
 
 最近はこのサインポールもデザイン化が進み
モダンな形のものが多くなってきたものの、
全体的には男性も美容院へ行くことが
日常的となりつつもあり、三色サインポール
自体の数は減りつつあるのが現状のようだ。
 
sign-pole.jpg
昭和30年代のサインポールも今となっては貴重
 
 この三色の意味は、
白が包帯、青が静脈、赤が動脈ということは
よく知られていることのようだが、
ではそれはなぜかというと、かつての
ヨーロッパにおいて、髪を切る仕事は
理髪外科医という医師が行っていたからだ。
同時に、手首を切って悪い血を出す
「瀉血(しゃけつ)という治療もしていた。
 
 この時使用した包帯を洗って干す時に
棒に巻いて窓から出したものが、いつの間にか
理髪外科医の看板となってしまったからだという。
 
 江戸から明治になった時に
ヨーロッパから日本に伝わって、
その後、理髪店の看板として広まったのであった。
 
(町田忍)
 

コラム:町田忍の団塊コレクション 16回 2008年09月09日

『カキ氷』
 
 夏の風物詩ともいえる「カキ氷」の暖簾を
街中で見かけると「夏が来た!」という気分になれる。
特に波しぶきと千鳥が飛んで、真っ赤のな大きな字で
「氷」と入った旗が一般的である。
 
 私がカキ氷で思い出すことは、昭和30年頃、
自宅前にあった小さな甘味屋で、親にカキ氷や
サイダー、ラムネなどをよく買ってもらったことだ。
ラムネは直接ビンでラッパ飲みだったが
サイダーはコップに入れてもらってものだ。
その時のストローは麦わら製だった。
サイダーの泡が麦わらストローの
表面にいくつも出ていたことを
今でもはっきり覚えている。
 
shaved ice.jpg
夏の風物詩「氷」の暖簾
 
 ところで、カキ氷は独特の手回し氷削機が
使用されていた。こうのような氷削機には
富士山などの絵も入っていた。
この機械は明治20年頃に登場したようだが
それ以前は、大工さんが使用する
カンナのような道具で氷を削っていたというから
実にのんびりとしていた時代だったようだ。
 
(町田忍)
 

コラム:町田忍の団塊コレクション 15回 2008年08月08日

『オリンピック観戦記』
 
 今年は北京オリンピック・イヤー。
アジア地区では2回目の開催である。
昭和39年(1964年)10月10日が
東京オリンピックの開会日。
「世界は一つ」の標語のもとに
94カ国から約6千人ほどの
選手・役員らが参加したのであった。
 
 午後2時、古関裕而作曲の軽やかな
「オリンピック・マーチ」に合わせて
各国選手団が入場行進をする。
 
 我が家は白黒テレビだったので、
日本選手団が着用していた
深紅のブレザーに純白のズボンを
カラーで見ることはできなかった。
 
 当時、中学2年生の私は、サッカーの決勝戦
ハンガリー対チェコスロバキアを学校ごと
総動員されて観戦に行ったのだった。
 
 しかし最前列での観戦もかかわらず、
何をしているのかが全くわからないまま試合は終了した。
当時のサッカーは現在ほどの人気はなかった。
それよりも本物の外国人を見られたことに
感激したのだった。
それまではテレビなどでしか
外国人を目にすることがなかったからである。
 
Olympics.jpg
10月23日サッカー決勝戦の入場券は100円
 
ちなみに、日本の成績は
金16、銀5、銅8であった。
 
(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 14回 2008年07月12日

『お化け屋敷』
 
 「お化け屋敷」はかつてよく神社などの
お祭りのときに見かけたものであるが、
最近はその数もめっきりと減ってきているようだ。
 
 何が子供に乗って“怖い”かというと
まず、その“巨大な絵”である。
 
 そこには、ろくろっ首や、
それはおどろおどろしいリアルな絵が描かれている。
もう、この絵を見ただけで、恐怖心はアップするのだ!
 
 さらに、入り口でお客さんをいれるための
“口上”をする人、お化け屋敷に限らず、
見世物小屋の呼び込みの口上も
どちらも独特の“クセ”のあるダミ声で
言うのがお決まりのようだ。
 
 どちらもの口上とも、
中の様子をうまく説明している。
チラリと一瞬、中を見せたり、
またお化け屋敷の場合は中の「キャーっ!!」
という声が外にまで聞こえるのだ。
 
 ほとんどの場合、一人で入ることが出来ない。
 
Obake-Yashiki.jpg
見るからに“怖い”入り口 一人で入れますか?
 
 お化け屋敷に限っては、常設として
「浅草花やしき」などにも残っているが
見世物小屋は本格的なものは
全国でひとつしか残っていないという。
 
(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 13回 2008年06月17日

『デパートが元気だったころ』
 
 昭和30年代のデパートを思い出してみた。
当時「デパートに行く」ということは子供にとって
年に何回もない“大イベント”だった。
 その日は朝からワクワクして、
七五三の時に着たような服を着せられた。
母親も外出用の着物を引っ張り出して、
子供にとっては“妙”な香水の匂いを
プンプンさせていたのだ。
 
 子供にとって、デパートにおける
楽しみはいろいろとある。 
エスカレーターやエレベーターに乗ることも
非日常的な体験だった。
 親の“たいくつ”な買い物に付き合わされた後は
楽しい「おもちゃ売り場」から「大食堂」へ行く。
私は好きなチキンライスに
(どういうわけかいつもお子様ランチではなかった)
デザートはチョコレートパフェ。
 
 最後の締めくくりはなんといっても屋上遊園地である。
最近のデパート屋上は、少子化もあり、
あまり遊具は置いていないのが現状である。
 
Department.jpg
かつて多くのデパートの屋上はミニ遊園地だった

 ちなみに昨今、デパートで人気があるのは
地下食料品売り場だ。
そこはまさに、昭和30年代に
どこにでもあった「商店街」と
“元気”な点が共通している。
 
(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 12回 2008年05月10日

『チンチン電車』
 
 昭和40年代に入り、モータリゼーションの波の中で
全国的に多くの路面電車がその姿を消してしまった。
 
当時、車体が大きく、ノロノロとゆっくり走る
チンチン電車は自動車のドライバーから
邪魔者扱いをされていたのである。
 
 戦後における都電を例に挙げてみると、
最盛期は昭和35年頃で、40系統ほどが
都内を網の目のように走り回っており、
都民の足として大活躍していたのである。
 
 当時の主力車両は(写真1)の
『6000型』で、正面が三つ窓だった。
Toden_6000-kei.JPG
渋谷を走る6000型車両(昭和44年)
 
 昭和30年代の思い出としては、
車掌さんが革製カバンを前にぶらさげて
車内で切符を販売していた記憶がある。
 
 都電は現在、主に専用軌道を走る、
「荒川線」として残っている。
ほかにかつて「玉電」(写真2)と呼ばれた
「世田谷線」も専用軌道部分が残り
三軒茶屋と下高井戸の間を走っている。
Tamaden_200-kei.jpg
三軒茶屋付近にて 人気のあった200型
 
ともに民家の軒先すれすれに走るところもあり、
のんびりとした風情を漂わせている。
 
 むしろこれからの時代こそ
もっと活躍してほしい乗り物だと思う。
 
(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 11回 2008年04月10日

『映画館』
 
 昭和30年代において、テレビが一般家庭に普及するまでは、映画はいわば娯楽の王様といっても過言ではない、庶民の楽しみの場でもあった。
 ちょっとした駅ならば、映画館の1つや2つはあたりまえのようにあり、最盛期は、昭和35(1960年)、全国でその数 7,457館
 観客動員数は、同年、年間11億2749万人だった。
 
 個人的な思い出を述べると、近所の武蔵小山には、なんと5館もの映画館があり、そこで「モスラ対ゴジラ」を観た記憶がある。昭和39年のことだった。
 現在でも地方に行って映画館に出会うことがあるが、中には戦前のもので、かつての芝居小屋の舞台にスクリーンを付けて、映画館として再利用しているところもあったのが印象深い。
 
 どんなにテレビが発達しても、劇場の大きな銀幕に映る迫力ある映像は、魅力あるものに違いないだろう。映画黄金時代は過去のものとなってしまったものの、人々の心の中には、それぞれの黄金時代が生き続けているに違いない。
 
kamome-za.jpg
横浜の「かもめ座」も閉館してしまった
 
町田忍

コラム:町田忍の団塊コレクション 10回 2008年03月08日

『ケロリンのおけ』
 
 全国の先頭や温泉などでよく見かける、
黄色い「ケロリン」と 文字の入った桶は有名だ。
 ではいったいこの桶はいつ、どこで、なぜ
置かれるようになったのであろうか。
 それにはまず、ケロリンとは何ぞや?から
説明する必要がある。
 
kerorin-kusuri.jpg
「のんでよくきく頭痛薬」/錠剤のケロリン
 
 ケロリンは富山に本社のある内外薬品より、
大正14年から発売されている、頭痛、生理痛、
歯痛用の解熱鎮静剤の薬品である。
 パッケージのデザインも大正時代と基本的には
変わっていないレトロな絵である。、
 さて、桶の出現はというと、昭和38年、
東京駅前・八重洲口の『東京温泉』において
誰もが目にする場所ということで、
桶の底に広告として入れられたのが
初めである。
 現在でも、年間に約4~5万個が
出回っているという。 
 
 ちなみに東京型より関西型の方が
桶の大きさが ひと回り小さいのだが、これは、
湯を無駄にしないように、というところからと聞く。
 
kerorin-oke.jpg
銭湯の桶 その底には「ケロリン」のロゴが
 
  
(町田忍)

◆ ◆ 町田忍さんの新著のお知らせ ◆ ◆
 
○ 『銭湯遺産』 町田忍/写真・文
 
Machida-book_sento.jpg
 
【 出版社 】 戎光祥出版
【税込価格】 6,090円
【 内  容 】 第1章 全国選りすぐりの銭湯10選
         第2章 東京都の銭湯遺産
         第3章 東日本の銭湯遺産
         第4章 西日本の銭湯遺産
 
○ 『昭和レトロ商店街 帰ってきた!』  町田忍/著
 
Machida-book_srs.jpg
 
【 出版社 】 早川書房
【税込価格】 1,680円
【 内  容 】 缶入り味の素などのレトロな商品~ボンネットバス…
         知られざる誕生秘話、トリビアが満載。
         やくみつる氏との対談もあります。

コラム:町田忍の団塊コレクション 9回 2008年02月08日

『実用自転車』
 
 冒頭より問題をひとつ。
昭和23年当時の 自転車1台 の値段はいくら?
 
bicycle.jpg
「昭和」を感じさせる懐かしい自転車 
 
答えは 6300円。
ちなみにこの頃の一般的サラリーマンの月給が
約1000円~1500円の時代であるから、
自転車がいかに高価なものだったかがわかる。
 それも自転車の生産が間に合わず、
1万円でも入荷したその日に売れたという。
 昭和30年代は街中でも 自転車の荷台に箱を乗せて、納豆、アサリを売って回ったり、紙芝居屋さんや材木屋さんなどが自転車の横にリヤカーを付けて 側車にし、長い材木を運ぶ場面をよく目にした。
 そうした自転車には必ず 前輪泥よけ付き の上に、かっこいいスマートな風切りマスコットが さん然 と輝いて取り付けられていた。それはまさに、自転車のステイタスのように、私には見えた。
 戦後における復興期において、この「実用自転車」の果たしてきた役割は実に大きかった。
 ママチャリのない時代である。
 
bicycle_Fuji.jpg
日米富士自転車 株式会社 のマーク
 
(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 8回 2008年01月07日

『懐かしの暖房』
 
 昨今こそ、冬となればエアコンや石油ファンヒーターを使うことが一般的になったものの、昭和30年代においての「暖房」とは、一体どのようなものだったのだろう。
 私の記憶によると、四畳半の部屋には「掘りごたつ」で、燃料は練炭だった。
 ある時、近所の友人と二人でこたつの中で遊んでいたら、気分が悪くなってしまったことがあった。今から思うと危険なことだったのだ。
 夜は布団には、湯タンポを入れたが、たまにカバーの袋の紐が緩んで足にやけどを負ったこともあったっけ。
 父親は、朝、出勤時に靴の中に唐辛子を一本入れていたのを見たことがある。
また、金属製のカイロをよくポケットに入れていた。
これは昔は木炭の粉を固めた棒状だったが、後にはアルコール系の燃料を使用するものが一般的に広まった。
最近このカイロに再び人気が出てきたと聞く。

kairo01.jpg
お父さん必携のカイロ
  
(町田忍)
 
 ◆◆ お知らせ ◆◆ 
町田忍さんが協力しているイベントをご紹介します。
 
   ~ 心ふれあう憩いの広場 ~
 下 町 と 銭 湯 の  物 語

 
昭和40年代のなつかしい銭湯、町空間を
思い起こさせる品々が展示されています
 
◎主な内容
・「銭湯めぐり」写真展
・銭湯の歴史紹介
・地図で見る台東区内銭湯の推移
・入浴料金の変遷

・昭和の銭湯 1/25模型 で
 ペンキ絵・タイル絵の制作:町田忍
・銭湯広告看板 展示
 (町田忍コレクションより出展)
  
【開催期間】 2007年11月14日(水)~2008年1月30日(水)
【 会場 】 テプコ浅草館 1階 下町ギャラリー
【営業時間】 午前10:00~午後6:00
【 休館日 】 毎週月曜日[祝日の場合は翌日]・年末年始
 ※ 入館無料

【  駅  】
●つくばエクスプレス:浅草駅出口徒歩約1分
●東京メトロ銀座線: 田原町駅 徒歩約7分
          浅草駅出口1
          (雷門方面)徒歩約10分
●東武地下鉄伊勢崎線: 浅草駅 徒歩約10分
●都営地下鉄浅草線: 浅草駅出口A5徒歩約12分

詳しくはこちらをご覧ください
(テプコ浅草館のサイトへジャンプします)

コラム:町田忍の団塊コレクション 7回 2007年12月10日

『ボンナイフのこと』
 
 昭和30年代の筆箱の中には、小さなナイフが入っていたという人も多いと思う。それが「肥後の守」かボンナイフかで、時代も異なってくるようだ。
 ちょうど私(昭和25年生まれ)くらいのときがその分かれ目あたりだったのだろう。クラスの仲間の中にはまだ、この「肥後の守」を使用していた子もいた。
 当時、教室には備え付けの鉛筆削りが1台あった記憶があるが、もっぱらボンナイフを使用していた。
もっとも鉛筆を削るというよりも机の角とか、消しゴム、鉛筆の上の方を一部削って名前を入れる部分を作るときなどに使った。
 ボンナイフには2種類あり、
二つ折りのデラックス型(※写真①/10円)、
普及型(※写真②/5円)があった。
ボンナイフは昭和20年代初め安全カミソリの刃に柄をつけた「学生ナイフ」として登場したのが発祥だといわれている。
 関西地方では「ミッキーナイフ」(※写真③)と
呼ばれていた。 
bon-knife.jpg
▲①デラックス型 ②普及型 ③ミッキーナイフ
 
(町田忍)
 
 ◆◆ お知らせ ◆◆ 
町田忍さんが協力しているイベントをご紹介します。
 
   ~ 心ふれあう憩いの広場 ~
 下 町 と 銭 湯 の  物 語

 
昭和40年代のなつかしい銭湯、町空間を
思い起こさせる品々が展示されています
 
◎主な内容
・「銭湯めぐり」写真展
・銭湯の歴史紹介
・地図で見る台東区内銭湯の推移
・入浴料金の変遷

・昭和の銭湯 1/25模型 で
 ペンキ絵・タイル絵の制作:町田忍
・銭湯広告看板 展示
 (町田忍コレクションより出展)
  
【開催期間】 2007年11月14日(水)~2008年1月30日(水)
【 会場 】 テプコ浅草館 1階 下町ギャラリー
【営業時間】 午前10:00~午後6:00
【 休館日 】 毎週月曜日[祝日の場合は翌日]・年末年始
 ※ 入館無料

【  駅  】
●つくばエクスプレス:浅草駅出口徒歩約1分
●東京メトロ銀座線: 田原町駅 徒歩約7分
          浅草駅出口1
          (雷門方面)徒歩約10分
●東武地下鉄伊勢崎線: 浅草駅 徒歩約10分
●都営地下鉄浅草線: 浅草駅出口A5徒歩約12分

詳しくはこちらをご覧ください
(テプコ浅草館のサイトへジャンプします)

コラム:町田忍の団塊コレクション 6回 2007年11月05日

『プラモデル』
 
 昭和30年代初めに国産プラモデルが登場した。
もっとも当時の国産プラモデルの程度はというと、けっして現在のそれとは異なるものだった。
  
P-38.jpg Bartl.jpg
(左)アメリカ陸軍航空隊の戦闘機 ロッキード社のP-38
(右)アメリカ・バートル社のヘリコプター

 
 今回ここに紹介したのはその頃のもので、私が小学校の4~5年の時に購入したものである。ちなみに値段は30円。チューブ入りの小さな接着剤付きだが、5分もあれば完成してしまうというシンプルなものだった。
 もっとも当時の30円は現在にしてみれば300円ほどだからけっこう割高だった。
 
 この頃は近所にもプラモデル専門店が三軒ほどあったが、どれもおばさんが片手間にしていた。いわば駄菓子屋のような雰囲気の店だった。
また塗装をすることがあまり一般的ではなく、プラモデル専用ラッカーはないので、近所の雑貨屋で豆ラッカーという日曜大工用の小さなラッカーを買って代用していた。ツヤ消し(マット)剤も歯磨き粉をラッカーに混ぜたて代用した。
 
(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 5回 2007年10月05日

『スクーターのある風景』
 
終戦直後の復興期であった昭和20年代は、まだ自転車が活躍していたものの、
20年代中頃になると、戦前からのメーカーや新しく登場したメーカーにより、
多くの二輪車が製造されるようになった。
 
 街中、バタバタと走り回っていたのである。
そんなころ、近所の金融業のおじさんが、妙な自転車に乗っているのを発見した。
自転車に何やら小さなエンジンがついて走る自転車だった。
それは後に判明したが、鈴木式織機株式会社(その後鈴木自動車工業株式会社、現在スズキ株式会社)製造の「スズキ パワーフリー号」という36㏄エンジンつきの自転車であった。当時ホンダも同様の自転車を販売していた。
 
 昭和27年まではガソリンも配給統制がされており、入手も自由ではなかった。
 
 その後、スクーターやオートバイが各種登場して、街中を元気に走り回り、戦後の復興に大いに役立ったのであった。
 
scooter.jpg
人気のあったラビットスクーター
 
(町田忍)

 ◆◆ お知らせ ◆◆ 
町田忍さんが出演されるイベントをご紹介します。
 「 東 京 銭 湯 ナ イ ト 」
~銭湯トークショーイベントが行われます~
  
【出演】町田忍、下北沢つかさ、サイトウカツミ他
【日時】 2007年10月10日(水) (銭湯の日)
     19:30-22:30
【場所】 ロフトプラスワン(東京・新宿区歌舞伎町)
【入場料】1010円(飲食別)
※詳しくはこちら  

コラム:町田忍の団塊コレクション 4回 2007年09月10日

『電話機』
  
 昭和30年代における電話機事情を知る上での、よい資料があった。幼稚園から中学校までの卒業アルバムにある住所録だ。
 
昭和25年生まれの私の幼稚園卒園時で、家に電話機がある人はクラス31名中3名、
小学校は48名中23名、中学校が45名中28名となっている。
 
 我が家が電話を購入したのが昭和37年と記憶している。
それ以前はというと、急用で我が家に連絡がある時は、近所の電話がある家にかかってくるのだった。
そうすると、その家の人がわざわざ私の家まで呼びに来てくれたのだった。
これを逆にすることもある。電話を借りにに行くということだ。
しかし当時はそれが当然のごとく行われていた。
テレビと同様、早く購入した家は近所の、それがない家のためにいわばボランティアで提供してくれたのである。
実におおらかな時代だった。
 
denwa01.jpg
我が家で使用していた電話機  受話器にはカバーもついている
 
(町田忍)

 ◆◆ お知らせ ◆◆ 
町田忍さんが出演されるイベントをご紹介します。
 「 東 京 銭 湯 ナ イ ト 」
~銭湯トークショーイベントが行われます~
  
【出演】町田忍、下北沢つかさ、サイトウカツミ他
【日時】 2007年10月10日(水) (銭湯の日)
     19:30-22:30
【場所】 ロフトプラスワン(東京・新宿区歌舞伎町)
【入場料】1010円(飲食別)
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コラム:町田忍の団塊コレクション 3回 2007年08月06日

 
『カメラ』 
 
 昨今はカメラといえば、デジタルカメラが主流となってしまった。
もっとも10年ほど前を考えるとフィルム式がまだ頑張っていた時代でもあった。
 
camera.jpg

時代を感じるなつかしのデザイン

 さて、カメラが庶民生活の中において日常的に使用されるようになったのは、つい最近のことである。戦前においてはライカカメラ1台で小さな家が建ったといわれている。参考までに昭和32年の新聞広告におけるカメラの価格をいくつか見ると、3万円~10万円前後となっている。たとえ3万円としても、この頃のテレビが約6万円(現在の約100万円弱)なので、かなり高価なものということが理解できる。
 
shinbun.jpg

価格に注目! これが当時の新聞広告
 
 したがって、松島トモコさんを広告に起用してヒットした「フジペット」というカメラは、32年当時で1950円という価格で子供たちにもどうにか買ってもらえるカメラとして好評だった。
 この頃はまだモノクロフィルムが主流で町の商店街には必ず写真屋さんがあり、その奥でご主人が現像などの作業としていた。
そんな風景も今は昔のものとなってしまった。
 
(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 2回 2007年07月07日

『アイロンのある風景』
 
 ここに紹介したアイロンは我家で使用していたもので
昭和30年頃に購入したものだ。
 
iron.jpg
 
 メーカーは「ナショナル」で、木製の箱に入っていて、
アルミダイキャスト製、フードは布の織ったものとなっている。
 デザイン的にはシンプルで機能的である。
よく見ると実に美しいフォルムで実際手にとってみると
うまくなじんで使いやすい。
 当時のアイロンの思い出といえば、母親が舌に指をつけ
ツバをアイロンにあててその温度をチェックしていた姿である。
何かのミスで白いワイシャツに三角のアイロンのコゲ跡を
つけてしまったことも思い出した。
 
 昭和30年代中頃の新聞広告から当時のアイロンの
価格を知ることができた。安いものだと580円、
高いものは1240円で、どれも木箱付きとなっているが、
これを現在の価格に置き換えると5千円から1万円強と
いうことになるので、決して安いものではなかった。
 
三種の神器(テレビ、洗濯機、電気冷蔵庫)の登場以前より
おそらく一般家庭に普及していた電化製品としては
先輩格のもの、ということになるだろう。
 
ちなみにこのアイロンは現在でも使用できる。
 
(町田忍)

コラム:町田忍の団塊コレクション 1回 2007年06月07日

『僕らはラジオで育った!』
 
昭和30年代にテレビが一般家庭に普及するまでは、ラジオは家庭-において娯楽の王様だった。日本においてラジオの一般放送が開始されたのは大正14年(1925年)であり、当然のことながら高額で庶民にはとても手の出ないものだった。昭和20年代においてさえも、一般サラリーマンの初任給の約二倍ほどだった。
 
shinkukan.jpg
 ズラリと並んだ真空管 
 
我が家がラジオを購入したのは昭和20年代後半のこと。真空管のズラリと並んだ木製のものであった。大きさも50×30cmで、約10kgほどの重くて大きなラジオは、タンスの上に置かれていたのを記憶している。そんなラジオを倉庫から取り出してみたものの、ホコリだらけで、すでに聴くことはできない状態になってしまっていたのが残念である。(写真参照)
 
昭和36年10月22日(日)のおける、文化放送の番組欄を参考までに紹介すると、林家三平さんの「朝からどうもすみません」、「オヤカマシとオイソガシ」、昼には落語、「立体放送、これがステレオだ」。夜は「名犬ドン・久里千春」、「素人ものまねコンクール・ゲスト春日八郎」、浪曲、そして午後10時30分から日曜終了までは、全て英語講座となっているのが現在と異なっている。
 
その後、東京通信工業(現ソニー)がトランジスタラジオを本格的に発売し、瞬く間にラジオは広まったのであった。
 
(町田忍)
  
 
radio1.jpg
 木製でシンプルなデザイン。 スイッチはベークライト 
 
radio2.jpg

 1964年 ヤング7の愛称で親しまれたヒット商品
  
 
町田忍プロフィール
 
町田 忍(まちだ しのぶ)
1950年 東京都目黒区生まれ
 
和光大学人文学部芸術学科卒業。卒業後、警視庁警察官勤務を経て、庶民文化における見落とされがちな風俗意匠を研究。
小学校時代から各種パッケージ等の収集を継続。
エッセイスト、写真家、庶民文化研究家として活躍中

ホームページ 町田忍博物館 はこちら

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「ドコモ団塊倶楽部」は熱い青春時代からラジオを お聞きいただいている団塊世代の皆様に、心地よい 音楽と話題にのせてエールを送り続けている番組です。 番組は毎月1回の放送で、2005年1月よりスタート、 あの頃も、そして今も輝き続ける団塊仲間の方のお話 を伺ったり、懐かしい時代を紐解いてみたり・・・・。 レトロに浸る心地よさと同時に、今をそしてこれからを 楽しんで生きる気分をお届けしています。 番組のスーパーバイザーは1947年生まれ団塊ド真ん中・ 漫画家の弘兼憲史さんと団塊ジュニアを代表して石川真紀アナウンサー。

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