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2021年07月12日

直木賞候補作⑤『高瀬庄左衛門御留書』

最後は砂原浩太朗さんの『高瀬庄左衛門御留書』です。
この本は、今回の候補作の中ではもっとも早く、今年の1月に出たのですが、
読み終えた瞬間に「直木賞はこれで決まりかも」と思ったのをおぼえています。
(もっともその後『おれたちの歌をうたえ』や『テスカポリトカ』も読んで
判断保留になるわけですが)

まるで清冽な湧水でのどを潤したような読後感が味わえる作品です。
神山藩で郡方(村々をまわり米の出来具合などを調べる役人)を務める
高瀬庄左衛門は、妻に続き、一人息子も不慮の事故で喪ってしまいます。
息子の啓一郎は、子どもの頃から俊才として知られ、立身出世を夢みて
藩校の助教の座をかけた試験に臨むのですが、神童に破れ、次席に終わります。
このため、心ならずも父の跡を継いで小役人になり、
時に妻の志穂に手をあげるなど、鬱々とした日々を送っていました。

そんな折、啓一郎は仕事の途中、崖から転落し亡くなってしまうのです。
息子を亡くし、志穂も実家に返した庄左衛門は独り暮らしとなります。
ふたたび郡方の仕事に戻ったものの、独居の侘しさをひととき慰めるのは、
独学ではじめた絵筆を執るときだけでした。そんな舅を慕って、
志穂は時折、弟の俊次郎を連れて、絵を習いにやって来ます。

寂しさはあるものの、穏やかに毎日を送っていたある日、
志穂が相談を持ちかけてきます。もうひとりの弟、宗太郎の様子が
おかしいというのです。宗太郎を調べ始めた庄左衛門は、
気づかぬうちに藩を揺るがす陰謀へと巻き込まれて行くのでした……。

若き日に仲間と結んだ友誼、淡い恋情、組織に対する諦観、
忍び寄る老いと過ぎ去った日々……。丁寧に描きこまれた細部が、
高瀬庄左衛門のキャラクターをくっきりと浮かび上がらせています。

なにより素晴らしいのは、
庄左衛門がごく普通の人物として描かれているところでしょう。
小役人だけど実は抜群に剣の腕が立つとか、
藩主や家老から直々に裏の役目を仰せつかっているとか、
庄左衛門はそういうスーパーマンではありません。
物静かな初老の男に過ぎない。
でも、いざという時の肚の座り方は、尋常ではないところがある。
この胆力がどこから生まれてくるかといえば、それは庄左衛門が
自分自身をよく知っているというところから来ているのだと思うのです。

自分をよく知っている人間は強い。
対して、己を過信している人間は往々にして失敗するものです。

ある人物と数十年の時を経て再会するする場面があるのですが、
「おすこやかでおられましたか……あれから」と問われた庄左衛門は
こう答えるのです。「……悔いばかり重ねてまいりました」
その後のセリフがいい。「つまり、ふつうということでござろう」

頭が抜群に切れるわけではないし、腕っ節が強いわけでもない。
役人としての地位も高いわけではない。
にもかかわらず、高瀬庄左衛門という人物は、
誰もが一目置かざるを得ないような実質を備えている。

自分がどういう人間かをよく知っているからこそ、
見栄を張ることもなく、上役にこびへつらうこともなく、いざという時に
自らの命を投げ出すような覚悟をみせることができるのでしょう。
高瀬庄左衛門は、すぐれたハードボイルド小説の主人公にも似た、
実に魅力的なキャラクターです。

物語とリンクした装丁も素晴らしい。
この本を読み終えた人はきっと、
表紙に描かれた画を感慨深く眺めることでしょう。

本作は発表されるやいなや「すごい作品が出た」と本好きの間で
大評判となりました。山本周五郎や藤沢周平といった時代小説の大家が
世に出た時もまたこんな感じだったのだろうかと想像します。
いずれにしても、藤沢周平の海坂藩のように、
今後も「神山藩シリーズ」が続くことを願っています。

投稿者 yomehon : 2021年07月12日 05:00