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2021年07月09日

直木賞候補作④『星落ちて、なお』

次は澤田瞳子さんの『星落ちて、なお』です。
幕末から明治にかけて活躍した絵師・河鍋暁斎の娘、
河鍋暁翠こと、とよを主人公にした作品です。

まずタイトルがいいですね。
河鍋暁斎は不世出の絵師でした。その偉大な父が亡くなった後、
なお絵師として生きていかなければならない娘の物語です。
その道のりが平坦なわけがなく、ストーリーを知らずとも、
イメージが湧いてくる良いタイトルです。

絵師とその娘を題材にした作品というと、
葛飾北斎の娘、葛飾応為こと、栄を主人公にした
朝井まかてさんの『眩』や、杉浦日向子さんの『百日紅』のような
素晴らしい先行作品があります。

美術評論の名著に辻惟雄さんの『奇想の系譜』という本があります。
「奇想」というコンセプトで日本美術史を再解釈した本で、
今ではすっかり有名になった伊藤若冲の再評価は、この本から始まりました。
(ちなみに澤田さんには『若沖』という作品もあります)
辻さんは本の中で、長らく美術史の中で異端とされてきた奇想の画家こそが、
日本美術を牽引してきた前衛に他ならないと述べています。

河鍋暁斎もこの「奇想の系譜」に位置付けられる絵師です。
かたや暁斎は、葛飾北斎ばりに描きまくる人でもありました。

昨年から今年にかけて東京ステーションギャラリーで開催された
「河鍋暁斎の底力」という展覧会は、本画(完成品の絵のこと)ではなく、
暁斎が戯れに描いた素描や下絵などを集めたもので話題になりましたが、
このようなささっと描いたスケッチの類だけでも展覧会が開けるほど
暁斎は膨大な作品を遺しました。それは言葉を換えれば、
絵を描くことにそれだけ取り憑かれていたということでもあります。
そんな暁斎を世の人々は「画鬼」と呼びました。

偉大すぎる親を持った子どもというのは、苦労すると言われますが、
とよもまた例外ではありませんでした。
なにしろ父・暁斎は「最後の浮世絵師」とも呼ばれたような偉大な絵師です。
とよも5歳の頃から父に絵を仕込まれたものの、同じ絵師として比べた場合、
暁斎の背中はあまりに大きすぎました。

しかも折悪しく日本は近代国家への道を歩み始めており、
江戸の伝統を受け継ぐ絵は古臭いと相手にされなくなっていました。
西洋絵画の技法をパクった絵が持て囃されるような風潮の中、とよは
河鍋暁斎の血を引く絵師として、どう生きていけばいいか足掻き続けます。

女性の生きづらさも描かれていますし、時代が変化する中で、
クリエイターはどんなスタンスであるべきか、といったようなことにも
作者の目は向いています。

派手さはありませんが、通好みの良い小説だと思います。
澤田さんは大学院で、奈良仏教史を学んだ方で、
他の作家があまり手がけない奈良時代を舞台にした作品も多いのですが、
案外、賞をとるのは、こうした専門ではない分野だったりするかもしれません。

投稿者 yomehon : 2021年07月09日 05:00