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2020年07月07日
第163回直木賞直前予想① 『雲を紡ぐ』
トップバッターは伊吹有喜(いぶき・ゆき)さんの『雲を紡ぐ』です。
これ、ハートウォーミングな素晴らしい作品でした。
主人公の山崎美緒は高校生。教育熱心な母親の望み通り、中高一貫の私立女子校に入学したものの、
クラスメイトの「いじり」が原因で、不登校になってしまいます。
美緒の母親は高校の英語教師、父親は家電メーカーの技術者。
ふたりともひとり娘の美緒を心配していますが、お互い仕事でいっぱいいっぱいで、
娘とちゃんと向き合う心の余裕がありません。夫婦仲もぎくしゃくしています。
家には横浜に住む母方の祖母が頻繁に訪ねてきますが、岩手出身の父方の祖父母は、
美緒の初宮参りの日に来てくれたきり、会っていません。その後、祖母は事故で亡くなり、
現在は祖父がひとり盛岡市で「山崎工藝舎」という工房を営んでいます。
美緒は初宮参りの時に祖父母が持って来てくれた赤いショールをとても大切にしています。
辛いことがあると、ショールを頭からかぶってしまう。
すると守られているような安心感を覚えるのです。
美緒にとってこのショールは「ライナスの毛布」というわけです。
この赤いショールは、山崎工藝舎でつくられたものでした。
美緒はある日、辛さに耐えられなくなり、衝動的に盛岡の祖父のもとに向かいます。
実は祖父の山崎紘治郎は、ホームスパンの職人として有名な人物でした。
ホームスパンというのは、手作業で羊毛から糸を紡ぎ、染め、織り上げられた美しい布のことです。
ウィリアム・モリスという人を知っているでしょうか。
19世紀のイギリスで活躍した詩人であり思想家ですが、
「モダンデザインの父」とも呼ばれています(ネットで検索すると、モリスのデザインが
たくさん出てくるのでぜひ見てください。「いちご泥棒」とか有名な柄がいくつもあります)。
産業革命を経て工業製品が世に溢れ始めた時に、モリスが提唱したのが
「アーツ&クラフト運動」でした。ひとことでいえば、
「毎日の生活に美しいものを使いましょう」ということ。
この運動を受けて、大正時代の日本で盛んになったのが柳宗悦が始めた民藝運動です。
民藝運動は、アーツ&クラフト運動よりももう少し手仕事寄りというか、
「職人の手仕事の中に美を見出す」という側面がありました。
岩手のホームスパンは、この民藝運動の中で盛んになったものなのです。
着の身着のまま家を飛び出した美緒は、祖父のもとでホームスパンを学び始めます。
この職人の手仕事を学ぶ過程と、美緒の成長、そしてバラバラだった家族が再び結びつくまでが、
それこそ一枚の布のように見事に織り合わされた作品になっています。
都会の学校で不登校になった子どもが自然の中で体を動かすことで立ち直っていく、
という骨格だけを取り出してみれば、特に珍しい話ではないかもしれません。
でもこの作品はその骨格に、一枚の布が織り上げられるまでの大変な工程や、
そこに宿る豊かな時間を丁寧に肉付けすることで、実に読み応えのある物語に仕上げています。
物語の中には、実在する盛岡のお店もたくさん出てきます。
あまり知られていませんが、盛岡は珈琲の街でもあるんです。
東京で珈琲の店といえば、今風のカフェか昭和レトロな純喫茶という感じですが、
盛岡には木のぬくもりを感じるシンプルでハイセンスな喫茶店がたくさんあります。
そうした実在する店がこの作品の随所に登場します。
それに岩手といえば、なんといっても宮沢賢治はかかせません。
もちろんこの作品の中でも宮沢賢治の作品(『水仙月の四日』)が印象的に使われています。
本書を読み終えた時、盛岡に行きたくてたまらなくなりました。
街を歩き、職人たちの美しい手仕事を見て、美緒や紘治郎の行きつけの喫茶店に寄って
「さわや書店」で買った本を読みたい。なんと贅沢な時間でしょう。
人を行動に駆り立てる力を持った本というのは滅多にありませんが、この作品にはその力があります。
いやー、トップバッターからこんな素晴らしい作品と出合えるとは。
前回のエントリーで「抜きん出た作品がない、というのが第一印象」などと
言っておきながらなんですが、幸先のいいスタートです。
投稿者 yomehon : 2020年07月07日 07:00