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2019年07月10日

第161回直木賞直前予想③ 『トリニティ』


窪美澄さんの『トリニティ』にまいりましょう。

先日、今回の直木賞の候補はすべて女性作家だと書きました。
小説の良し悪しに作家の性別は本来関係ありませんが、
もしも今回女性が揃ったことに何らかの意味を見出そうとするなら、
この窪さんの作品ほど象徴的な作品はないでしょう。
なぜならこの小説は、女性たちによる女性の生き方をめぐる物語だからです。

主人公は3人の女性です。
72歳で独り暮らしをしている鈴子のもとにある日、
かつて一世を風靡したイラストレーターの早川朔が
亡くなったことを知らせる電話がかかってきます。
早川朔こと藤田妙子は、亡くなったら連絡してほしい人のリストに
鈴子の名前を載せていたのでした。リストにはもうひとり、佐竹登紀子の
名前もありました。彼女はフリーライターのはしりとして出版界でその名を
知られていた存在で、鈴子は若かりし頃、朔や登紀子が関わっていた雑誌の
編集部で働いていたことがあるのです。
鈴子は登紀子に連絡し、斎場の場所や時間を伝えます。

鈴子の近所には娘の満奈美一家が住んでいます。
仕事を持つ満奈美に代わって、鈴子は孫の奈帆の世話をしてきました。
奈帆は就職難の中、ある中堅出版社に就職しましたが、
ブラックな職場環境のせいで心身のバランスを壊しています。
鈴子は家に閉じこもっていた奈帆を、一緒に斎場に行こうと誘います。
鈴子とともに斎場に向かった奈帆は、そこで出会った登紀子に突然、
フリーライターの仕事について話を聞かせて欲しいと頼み込みます。

一週間後、鈴子とともに訪ねてきた奈帆に対して、登紀子が昔話をはじめます。
それはこれまで語られることのなかった女性たちの歴史でした……。

3人が仕事をしていた出版社のモデルは平凡出版(のちのマガジンハウス)で、
雑誌は平凡パンチであることは読んでいればすぐにわかるでしょう。
ただこういった事実関係はさほど重要ではありません。
大切なのは、雑誌がもっとも輝きを放っていた時代を舞台に、
仕事をもつ3人の女性の、その後の三者三様の生き方を見事に描いてみせたことです。

高卒で事務職として会社に入り、その後は専業主婦の道を選んだ鈴子。
祖母、母、自分と三代続く物書きの道を選んだ登紀子。
若くして時代の寵児になるも、その後長く不遇の時代を送る朔こと妙子。

それぞれが置かれた環境で足掻き、その時々で女性としての選択を迫られ、
何が正解なのか答えもみえないままに、自らの人生を選びとっていきます。
そこに時代背景が重なり合い、この作品全体が、昭和から平成にかけての女性史にもなっています。

3人は1964年の東京オリンピックの年に編集部で出会い、親しく交わるようになるのですが、
その中でとても印象的なのが、新宿騒乱の場面です。

1968年10月21日、国際反戦デーの日に学生デモ隊が機動隊と激しく衝突し、
新宿駅構内に乱入した新宿騒乱事件。この現場に興味本位で出向いた3人は、
気がつけば取材者の立場から、自らも線路に散らばった石を投げる当事者に
なっていました。ガス弾を見舞われ、咳き込みながら、彼女たちは
「馬鹿にするな!」と叫びます。このシーンがとてもいい。


「馬鹿にするな!」ガス弾の煙に咳き込みながら、鈴子が言葉を続ける。
「私のことを鈴ちゃんなんて慣れ慣れしく呼ぶな!お茶くみなんて誰でも
できるって馬鹿にしないで!」
「ベトナム反戦にはなんにも関係なんじゃない」と登紀子が鈴子に叫ぶと、
そばにいたヘルメット姿の女子大生が登紀子の顔を見てにやりと笑った。
「女を馬鹿にするな!女は学生運動の飯炊き女じゃない!」
彼女はそう叫んだあと、手にした石を群衆のその先に向かって投げつけるが、
石は人の群れに届かない。さあ、と言うように、女子大生が登紀子に石を渡す。
登紀子はこんな騒ぎに巻き込まれるのなどまっぴらだったし、人前で大声で
叫んだこともない。けれど、女子大生の叫びに自分でも意識していなかった
心の蓋が吹っ飛んだような気がした。
「馬鹿な男どもの下で働くなんてもううんざり!」
石を投げながら叫んだ。声が掠れた。それでも叫んだ。
「ふざけるな!男どもふざけるな!女を下に置くな!」
(略)
鈴子が妙子の手に石を握らせる。どこかクールに二人が叫ぶのを見ていた
妙子だったが、鈴子に持たされた石をまるでピッチャーのようにポーズを
決めて投げた。鈴子より登紀子より、それは力強く飛び、はるか向こうにいる
機動隊の群れの中に落ちた。
「すごい!」鈴子が興奮して叫ぶ。
「もうこりごり!ライズの表紙なんて描きたくない!」妙子が叫んだ。
「男の絵なんて描きたくない!好きな絵を好きなだけ描きたい!」


この作品の中でもっとも心に残るシーンです。
男たちが借り物の言葉で革命を叫んでいる時、彼女たちが
自分の中から出てきた切実な言葉を叫んでいることに注目してください。
この違いはとても重要です。
なぜなら、戦いに敗れた男たちがその後、あっという間に宗旨替えして
体制に順応していったのに対して、女性たちはいまも戦い続けているからです。
そう、彼女たちの戦いは、現在も続いているのです。

3人の女性の歴史は、それぞれの戦いの歴史でもありました。
そして彼女たちの想いは、新しい世代の奈帆へと託されるのです。
この流れもとてもいい。男のぼくがこれだけ胸が熱くなるのだから、
女性たちが読んだらどれだけ感動するのだろうと思います。

窪美澄さんはもともと男女の間の機微や家族の関係などを書かせたら
抜群に上手い作家でしたが、この小説はこれまでにないスケールの大きな作品です。
間違いなくこれは、作家・窪美澄のターニングポイントとなる作品ではないでしょうか。

投稿者 yomehon : 2019年07月10日 07:00