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2019年07月08日
第161回直木賞直前予想① 『平場の月』
それでは朝倉かすみさんの『平場の月』からまいりましょう。
山本周五郎賞を受賞している話題の作品です。
この小説のストーリーはとてもシンプルな構造をしています。
「中学生の頃、意識しあっていた同級生の男女が、50歳で再会してつきあい始めるものの、女性が病で亡くなってしまう」
まとめるとこんな感じ。
「ネタバレじゃん!ひどい」と思った人もいるかもしれませんが、二人の関係の結末は冒頭で明かされているので大丈夫。
それにこの小説の魅力は、お話の筋を追うことにはありません。
主人公の青砥健将は、一人暮らしの母親の面倒をみるために都内から地元の埼玉に移り住んだ50歳の男です。
妻子とも別れ、地元の小さな会社に転職し、地味な生活を送っています。
ある時、身体の不調をおぼえて検査に訪れた病院の売店で、中学時代の同級生、須藤葉子と偶然再会するのですが、
彼女もまたいろいろな事情を抱えて今に至っているのでした。
この小説の魅力は、中年男女のリアルな描写にあります。
青砥や須藤と年齢が近い読者には、特にこの作品は沁みるはず(ぼくがそうでした)。
恋愛小説を読むときに、いつもぼくが気になるのはセックスシーンです。いや、その、そういう趣味とかじゃなくて、
セックスシーンの描き方に作家の姿勢というか、誠実さというものが垣間見えると思うからです。
たとえば(大御所の名前をあげてしまいますが)渡辺淳一さんの小説のセックスシーンなんかはツッコミどころ満載です。
そこで描かれるのは、若い女性が年上の男性によって悦びを知るという、なんともおじさん本位のセックスだからです。
スケベなオヤジの願望を投影した描写というか。こういう著しくリアリティに乏しい描写を目にしてしまうと、
読み進めるのが苦痛になってしまいます。そしてこの作家は、果たして女性という性について真面目に
考えたことがあるのだろうかと疑問に感じてしまうのです。
その点、『平場の月』はパーフェクトです。
実はこの作品でセックスシーンというのはほんのわずかしか出てきません。きわめてあっさりとした描写です。
でもこの「あっさり」がリアルなんです。人生もとうに半ばを過ぎ、脛にもそれなりの傷を持つ身になると、
恋愛におけるセックスのプライオリティというのは下がってきます(と思います。知らんけど)。
若い頃のように会えばしたいみたいな関係から、いたわり合いに近い関係になってくる。
そこがこの小説は実によく描けているのです。
若い頃は情熱にまかせてぶつかりあって、浮気しただのされただの泣いたりわめいたりまぁ騒々しいものですが、
年をとってくると、お互いの性はどちらかといえば後景に退いて、男と女というより、
人間どうしの向き合いという感じが強くなってきます。この小説で描かれるのは、それぞれの孤独を抱えながら、
互いをいたわりあう関係です。しかも読者はやがて別れがくることを知っている。だからこそ胸に沁みるのです。
須藤が亡くなった後、青砥が思い出す光景には胸を衝かれます。
それは他人にはどうということもない見慣れた日常の光景です。
でも青砥にとっていかにかけがえのないものか。
何の変哲もないスーパーの駐車場でさえ、彼女と一緒にいた時間が思い出される場所なのです。
川内倫子さんという写真家がいます。
彼女が木村伊兵衛賞を受賞した『うたたね』(リトルモア)という写真集が大好きなのですが、
帯に「死んでしまうということ」とあるように、この写真集には、死んでしまったら見ることができなくなってしまう
日常の光景がたくさんおさめられています。それは台所のシンクであったり、シャボン玉であったり、手の甲に浮き上がる
血管であったり、どれもありふれたものです(その中に時折、鳩や魚の死骸の写真が挟まれたりするのですが)。
この写真集を開くたびに、死ぬときに頭に浮かぶのがこういう光景であればいいなぁといつも思うのです。
朝倉かすみさんは独特のセンスを持つ作家で、
タイトルがいつもユニークです(特に初期の『肝、焼ける』とか『田村はまだか』とか)。
この小説のタイトルにある「平場」というのは、金持ちのような高みではなく、
ごく普通の人々が暮らす地べたという意味でもあるし、平凡な日常という意味でもあるでしょう。
「ちょうどよくしあわせなんだ」という登場人物の言葉は、この作品の精神をよく現していると思います。
誰もがみな一度しかない生を生きています。人生でそんなにドラマチックなことは起きないけれど、
ごく普通の毎日を生きているということがいかに幸せか。そしてそんな平凡な人生の中で、
もしあなたが共に歩いてくれる人と出会えたならば、それはとてつもなく幸運なことなのではないでしょうか。
山本周五郎賞と直木賞のダブル受賞はとてもハードルが高いので、おそらく受賞はないと思いますが、
たくさんの人に読んでほしい素晴らしい作品であることには変わりありません。
投稿者 yomehon : 2019年07月08日 07:00