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2018年07月17日

直木賞受賞作予想と、芥川賞候補作をめぐる騒動について


では、第159回直木賞の受賞作予想にまいりましょう。

今回はずばり、島本理生さんの『ファーストラヴ』と予想します。

恋愛小説かと思いきや、リーガルサスペンスという意外性。
またそれだけでなく、家族小説でもあり、魂を深く傷つけられた人間が
もういちど立ち上がる物語でもあるという、多様な読み方ができる作品であること。
なにより全世界に拡がりをみせる「♯Me Too」の動きにも連なっているところが、
いまこの作品が広く読まれるべきいちばんの理由と言えるかもしれません。

湊かなえさんの『未来』がデビュー10周年記念作品ということで注目を
集めていますが、デビューでいえば島本さんはもう17年になります。
キャリアも申し分なし、まさに機は熟したと言っていいでしょう。


さて、いつもならここで、さらっと芥川賞の予想もするのですが、今回はやめておきます。
今回、候補作が発表された後に起きた2件のトラブルのためです。

ひとつは直接、候補作が関係しているもの。
もうひとつは、候補作はまったく関係ありませんが、
発表媒体のイメージが著しくダウンしたものです。

候補作が直接関係したトラブルは、
東日本大震災をテーマとして前評判が抜群に高かった
北条裕子氏の『美しい顔』が、いつくかのノンフィクションから
被災者の証言や取材者の文章の一部を
「剽窃」したのではないか、と指摘されている問題。

もうひとつ、候補作がとばっちりを受けてしまったトラブルは、
早稲田大学文学学術院の教授・渡部直己氏が、
大学院生の女性にセクハラを行っていたという問題です。
渡部氏は『早稲田文学』の編集にも深く関わっていた上、
渡部氏と親しく、同様に『早稲田文学』の制作に関係している教員も、
セクハラの隠ぺい工作ともとれる動きをしていたとされています。

候補作となった古谷田奈月さんの『風下の朱』は、
皮肉なことにジェンダーの問題を扱っていて、完成度も非常に高い作品なのですが、
発表媒体の『早稲田文学』がこんな風に残念なかたちで脚光を浴びたことで、
気の毒なことにすっかりケチがついてしまった格好です。

前者の「剽窃」疑惑については、ノンフィクションライターの石戸諭さんが
説得力のある記事を書いています。石戸さんは個人的に、
いまウェブでもっとも信頼できる記事を書く書き手だと注目している人で、
ぼくもほとんどここに書かれていることに同意します。(記事はこちらからどうぞ)

一方、後者については、この問題を明るみに出した
プレジデント・オンラインの記事がさすがの情報量です。
(記事はこちらこちらからどうぞ)


簡単ではありますが、これらの問題についての考えを述べさせてください。
両者はまったく違う問題ですが、重なる部分もあると考えています。

北条氏は、この作品を被災地に行かずに書いたことを公表していて、
その行為について「罪深い」と述べています。
これにはいろいろな意見があろうかと思いますが、
ぼくは、作家の唯一の武器は想像力なのだから、
想像力でもって体験したことのないこと(たとえば災害や戦争)を描こうとするのは、
「あり」だと考えます(もちろんその結果出来上がったものは、当事者の厳しい目に
さらされて当然です)。

ただ、北条氏はそこまで、自らの表現について自覚していることを
(言葉を換えれば、覚悟を持っていることを)表明しておきながら、
参考文献の中の文章や表現を、安易に作品に反映させたりしています。

このような、真摯な言葉とは裏腹の、ある意味、ゆるい現状を見るにつけ、
ぼくは、北条氏の「罪深い」という言葉は、むしろ小説家である自分に
ちょっと酔って発せされたものなのではないか、という印象を持ってしまうのです。

かたや渡部直己氏のほうは、わかりやすくダメです。
被害女性は「俺の女になれ」と言われたと証言しているようですが、
事実であれば完全にアウトです。
若い頃に渡部氏の著作(素晴らしい本もあります)に学んだ者からすると、
渡部氏の言動から感じるのは、文学を特別なものと捉える特権意識です。

一般の感覚(教師と生徒の関係とか、孫ほどに離れた年齢差とか)からすれば、
「ないよそれ、ありえない!」と即判断できるようなセリフを、
てらいもなくぶつけることができてしまうというのは、
渡部氏がかなりの自信家であることを裏付けています。
その自信がどこから来るかと言えば、
「文芸評論家として有名な自分」という自己イメージからだと思うのです。

つまり、今回のふたつの問題に共通するのは、
牽強付会の謗りも覚悟で敢えて申し上げると、
どちらも文学を特別なものと考えている点にあるのではないか、と思うのです。

でも、はたしてそうでしょうか。
文学は何か特別なものでしょうか。
もちろんぼく自身、魂が震えるような作品を読んだことは何度もありますし、
神様からのギフトとしか思えない才能を持つ作家がいることも知っています。

しかし、これほどまでに小説が売れない、文学が見向きもされなくなった時代に、
そんな古き良き文学の黄金期の感覚のままでいても……と思ってしまうのです。

芸術家をきどるのもいいですが、芸術というのは、
誰かに受け止められてこそ、成立するのではないでしょうか。

今回のふたつのトラブルは、昔であれば、もっと大騒動になっていたでしょう。
でも残念ながら騒ぎになっているのは、狭い文学界隈だけで、
一般にはそれほど話題になっているとはいえません。
純文学というのは、それほどまでにマイナーな存在になってしまいました。

いま必要なのは、心の底からの危機感ではないでしょうか。
文学者はなんら特別な存在ではありません。
だって世の中から文学なんてなくなっても、気にしない人が大半なのですから。

作品の細部にまで神経を張り巡らし、表現を研ぎ澄ますこと。
血反吐を吐くような苦しい思いをしながら、借り物ではない言葉を生み出すこと。
性別や年齢に関係なくフラットに文学について学びあえる関係をつくること。
いまやらなければならないことは、いくらでもあげられます。

以上のように、今回の芥川賞では、正直「なに、やってるんだ」と萎えてしまうような
出来事がありましたので、とてもじゃないですが、冷静に予想できません。
そんなわけで今回はスルーさせていただきます。

少し長くなってしまいましたが、文学を偏愛する人間の繰り言として、
みなさんのご寛恕を請う次第です。

芥川・直木両賞の選考会はそれぞれ、7月18日(水)午後5時から行われます。

投稿者 yomehon : 2018年07月17日 00:00