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2018年07月13日

第159回直木賞直前予想(5) 『傍流の記者』


次は、本城雅人さんの『傍流の記者』にまいりましょう。

元スポーツ記者の経歴を活かし、デビュー以来、野球や競馬などを題材にした小説を数多く
発表してきましたが、児童連続誘拐事件に挑む事件記者を描いた『ミッドナイト・ジャーナル』
評判を呼んでからは、ジャーナリズムの世界を舞台にした小説を手掛けて注目を集めています。

『傍流の記者』は、大手新聞社の社会部を舞台に、個性あふれる記者たちの姿を描いた
連作短編集。東都新聞社会部では、黄金世代と呼ばれる敏腕記者たちがしのぎを削っていました。
記者にとって、名前の上に「○○といえば」というニュアンスで得意分野の冠がつくのは
誇らしいことだと思いますが、東都新聞社会部にも、「警察の植島」、「検察の図師」、
「調査報道の名雲」、「遊軍の城所」、「(官公庁の)人事情報の土肥」と、それぞれに異名を持つ
スペシャリストが揃っていました。みな同期で、それぞれに出世を意識しています。

ここにもうひとり、彼ら全員が一目を置く北川という同期が加わります。
ただし彼は記者ではありません。かつては若手のエース記者として将来を嘱望されながら、
栄転といっていい特派員への異動話をなぜか断り、記者職から人事・総務系へと移った人間です。
もともと記者としての能力がずば抜けていたことから一目置かれているところもありますが、
人事部長として次の社会部を率いる人間を決める立場でもあるため、同期は北川の動きを
意識せざるを得ないのでした。この作品では北川は、影の主人公といってもいい存在です。

本作は、この6名が織りなす人間ドラマから、いまの新聞ジャーナリズムの抱える問題や、
もっと普遍的な組織の問題などが浮かび上がってくるという仕掛けになっています。
それぞれの記者のエピソードはよく練りあげられていて読ませますが、個人的には、
若手記者の配属先を選ぶ顛末を描いた「選抜の基準」がお気に入り。
人を見抜く眼力について描かれたこの一編は、「良い人材がいない」が口ぐせになっている
管理職のみなさんには示唆に富んでいることでしょう。

ところでタイトルにある「傍流」とは何を指すのでしょうか。
どの新聞社でも、出世コースといえば政治部出身、と相場が決まっていることから、
政治部に対する社会部を傍流と呼んでいるのでしょうか。
あるいは、他部署に異動してもジャーナリストとしての矜持を失わない北川のような人物を指して、
「傍流の記者」と呼んでいるのでしょうか。
たぶんそのどれもが当てはまるのでしょう。

この小説は冒頭のプロローグで、2021年の東都新聞の社内の光景が描かれています。
読者は「いったい何のスキャンダルの話をしているんだろう?」と疑問に思うはずですが、
その謎は、それぞれの記者のエピソードが語られた後のエピローグでようやく明かされます。

そこで描かれるのは、著者が理想とするジャーナリズムのあるべき姿です。
詳しくは明かせませんが、ごく簡単にいえば、居場所が変わろうとも記者としての自覚を
持ち続けている者の姿、あるいは誰かの勇気に呼応して立ち上がることのできる人々の姿でしょう。

このシーンに心を動かされる人は多いと思います。
ぼくもその一人ですが、ただその一方で、「かつてならもっと感動していただろうな」と思ったことも、
正直に告白しておかなければなりません。

そんなふうに思ってしまった背景には、いまジャーナリズム自体が、
社会の傍流に置かれてしまっているのではないか、という疑問があるからです。

時の権力の息の根を止めるような渾身のスクープを目にする機会はいまやありません。
政府が発表する内容をただ垂れ流すだけの発表ジャーナリズムが当たり前になってしまいました。
ジャーナリズムが輝きを失ってしまった中、記者たちの人間ドラマを目にしても、
かつてのように(たとえばジャーナリズムの可能性を無邪気に信じていた学生の頃のように)
胸が熱くなるような感覚には、なかなかなれませんでした。

この作品は、いま社会の傍流に置かれている記者たちへの応援歌なのでしょうか。
作者は新聞社OBですから、おそらくそうなのでしょう。
だとするならば、ぼくも現役の記者たちに心からのエールを送りたい。

この作品を応援歌ではなく、挽歌のような感覚をもって読んでしまった者として。
ジャーリズムはまだ死んでいないと心の片隅で期待しているひとりとして。

投稿者 yomehon : 2018年07月13日 00:00