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2018年07月17日
直木賞受賞作予想と、芥川賞候補作をめぐる騒動について
では、第159回直木賞の受賞作予想にまいりましょう。
今回はずばり、島本理生さんの『ファーストラヴ』と予想します。
恋愛小説かと思いきや、リーガルサスペンスという意外性。
またそれだけでなく、家族小説でもあり、魂を深く傷つけられた人間が
もういちど立ち上がる物語でもあるという、多様な読み方ができる作品であること。
なにより全世界に拡がりをみせる「♯Me Too」の動きにも連なっているところが、
いまこの作品が広く読まれるべきいちばんの理由と言えるかもしれません。
湊かなえさんの『未来』がデビュー10周年記念作品ということで注目を
集めていますが、デビューでいえば島本さんはもう17年になります。
キャリアも申し分なし、まさに機は熟したと言っていいでしょう。
さて、いつもならここで、さらっと芥川賞の予想もするのですが、今回はやめておきます。
今回、候補作が発表された後に起きた2件のトラブルのためです。
ひとつは直接、候補作が関係しているもの。
もうひとつは、候補作はまったく関係ありませんが、
発表媒体のイメージが著しくダウンしたものです。
候補作が直接関係したトラブルは、
東日本大震災をテーマとして前評判が抜群に高かった
北条裕子氏の『美しい顔』が、いつくかのノンフィクションから
被災者の証言や取材者の文章の一部を
「剽窃」したのではないか、と指摘されている問題。
もうひとつ、候補作がとばっちりを受けてしまったトラブルは、
早稲田大学文学学術院の教授・渡部直己氏が、
大学院生の女性にセクハラを行っていたという問題です。
渡部氏は『早稲田文学』の編集にも深く関わっていた上、
渡部氏と親しく、同様に『早稲田文学』の制作に関係している教員も、
セクハラの隠ぺい工作ともとれる動きをしていたとされています。
候補作となった古谷田奈月さんの『風下の朱』は、
皮肉なことにジェンダーの問題を扱っていて、完成度も非常に高い作品なのですが、
発表媒体の『早稲田文学』がこんな風に残念なかたちで脚光を浴びたことで、
気の毒なことにすっかりケチがついてしまった格好です。
前者の「剽窃」疑惑については、ノンフィクションライターの石戸諭さんが
説得力のある記事を書いています。石戸さんは個人的に、
いまウェブでもっとも信頼できる記事を書く書き手だと注目している人で、
ぼくもほとんどここに書かれていることに同意します。(記事はこちらからどうぞ)
一方、後者については、この問題を明るみに出した
プレジデント・オンラインの記事がさすがの情報量です。
(記事はこちらとこちらからどうぞ)
簡単ではありますが、これらの問題についての考えを述べさせてください。
両者はまったく違う問題ですが、重なる部分もあると考えています。
北条氏は、この作品を被災地に行かずに書いたことを公表していて、
その行為について「罪深い」と述べています。
これにはいろいろな意見があろうかと思いますが、
ぼくは、作家の唯一の武器は想像力なのだから、
想像力でもって体験したことのないこと(たとえば災害や戦争)を描こうとするのは、
「あり」だと考えます(もちろんその結果出来上がったものは、当事者の厳しい目に
さらされて当然です)。
ただ、北条氏はそこまで、自らの表現について自覚していることを
(言葉を換えれば、覚悟を持っていることを)表明しておきながら、
参考文献の中の文章や表現を、安易に作品に反映させたりしています。
このような、真摯な言葉とは裏腹の、ある意味、ゆるい現状を見るにつけ、
ぼくは、北条氏の「罪深い」という言葉は、むしろ小説家である自分に
ちょっと酔って発せされたものなのではないか、という印象を持ってしまうのです。
かたや渡部直己氏のほうは、わかりやすくダメです。
被害女性は「俺の女になれ」と言われたと証言しているようですが、
事実であれば完全にアウトです。
若い頃に渡部氏の著作(素晴らしい本もあります)に学んだ者からすると、
渡部氏の言動から感じるのは、文学を特別なものと捉える特権意識です。
一般の感覚(教師と生徒の関係とか、孫ほどに離れた年齢差とか)からすれば、
「ないよそれ、ありえない!」と即判断できるようなセリフを、
てらいもなくぶつけることができてしまうというのは、
渡部氏がかなりの自信家であることを裏付けています。
その自信がどこから来るかと言えば、
「文芸評論家として有名な自分」という自己イメージからだと思うのです。
つまり、今回のふたつの問題に共通するのは、
牽強付会の謗りも覚悟で敢えて申し上げると、
どちらも文学を特別なものと考えている点にあるのではないか、と思うのです。
でも、はたしてそうでしょうか。
文学は何か特別なものでしょうか。
もちろんぼく自身、魂が震えるような作品を読んだことは何度もありますし、
神様からのギフトとしか思えない才能を持つ作家がいることも知っています。
しかし、これほどまでに小説が売れない、文学が見向きもされなくなった時代に、
そんな古き良き文学の黄金期の感覚のままでいても……と思ってしまうのです。
芸術家をきどるのもいいですが、芸術というのは、
誰かに受け止められてこそ、成立するのではないでしょうか。
今回のふたつのトラブルは、昔であれば、もっと大騒動になっていたでしょう。
でも残念ながら騒ぎになっているのは、狭い文学界隈だけで、
一般にはそれほど話題になっているとはいえません。
純文学というのは、それほどまでにマイナーな存在になってしまいました。
いま必要なのは、心の底からの危機感ではないでしょうか。
文学者はなんら特別な存在ではありません。
だって世の中から文学なんてなくなっても、気にしない人が大半なのですから。
作品の細部にまで神経を張り巡らし、表現を研ぎ澄ますこと。
血反吐を吐くような苦しい思いをしながら、借り物ではない言葉を生み出すこと。
性別や年齢に関係なくフラットに文学について学びあえる関係をつくること。
いまやらなければならないことは、いくらでもあげられます。
以上のように、今回の芥川賞では、正直「なに、やってるんだ」と萎えてしまうような
出来事がありましたので、とてもじゃないですが、冷静に予想できません。
そんなわけで今回はスルーさせていただきます。
少し長くなってしまいましたが、文学を偏愛する人間の繰り言として、
みなさんのご寛恕を請う次第です。
芥川・直木両賞の選考会はそれぞれ、7月18日(水)午後5時から行われます。
投稿者 yomehon : 00:00
2018年07月16日
第159回直木賞直前予想(6) 『未来』
いよいよ最後になりました。
湊かなえさんの『未来』にまいりましょう。
著者のデビュー10周年の記念作品ということで話題になっています。
父を病気で亡くし、心が壊れてしまった母とふたりで暮らすことになった
10歳の章子のもとに、ある日、20年後の自分から手紙が届きます。
母が時々人形のようになってしまうために、
なんでも自分でやらなければならない章子の生活は、過酷なものでした。
そこに追い討ちをかけるように、同級生からのいじめや、
祖母に打ち明けられた両親の過去などが、心の重りとして加わります。
とても10歳では立ち向かえないような絶望的な生活の中で、
章子は30歳の自分に向けて、未来の章子に向けて、
手紙の返事を書き続けるのでした……。
物語は、この章子の未来への手紙と、章子の友人と担任の告白、
そして章子の父親の秘密で構成されているのですが、
実はすべての候補作の中で、この作品を読むのにもっとも時間がかかりました。
それは、章子が未来への自分へと書き始めた手紙のせいです。
10歳の小学生が書く手紙のわりには、あまりにも上手すぎるのです。
この手紙を書いている章子は、まるで成熟した大人のような目でまわりを見ている。
もちろん子どもの目には、大人の濁った目では見えない物事の真実が
見えていることもあるでしょう。でもそれを差し引いても、この手紙は上手すぎます。
ここで言う上手さというのは、何かを見て感じた、あるいは心に浮かんだ、
かたちのないモヤモヤとした気持ちや感覚を、言葉に落とし込む能力のことです。
表現力や語彙力なども含めた言語化能力が、
とても子どもとは思えないレベルにある、といったらいいでしょうか。
ただ、あまりにも上手すぎることから、最初は、
これは意図されたものはないか?と疑ってもいたのです。
なにしろ湊さんの作品にはいろんな仕掛けが施されていますから、
「もしかしたらこれは10歳の章子が書いたように見せかけて、
実は誰か他の人が書いた手紙なのだろうか?」と怪しんでみたりもしました。
ところが読み進むうちに、どうやら仕掛けなどはなく、
10歳の少女が書いたという設定だということが判明。そこからが大変でした。
「こんなレベルの高い手紙、10歳に書けるかなぁ」という疑問が頭を占めてしまい、
なかなか物語の中に入っていけなかったのです。
もちろんこれは、個人的な嗜好にすぎません。
小説において、リアリティをどうとらえるかというのは、
読者の趣味のようなものですので、読む人が違えば、
ぼくが引っかかったところがまったく気にならないということもあるでしょう。
ぼく自身に関して言えば、小説というよりも、途中からはむしろ
舞台のお芝居を観ているような感覚で、この作品を読みました。
たとえば、登場人物の中に、あるお金持ちの息子が出てくるのですが、
自分の父親のことをパパンと呼んだり、アデューと別れの挨拶をしたり、
なかなかリアリティを感じづらいキャラクターなのです。
でもそんな芝居がかった台詞やふるまいも、
いっそ舞台上で演じられているものだと思えば、違和感もありません。
そんなわけで、小説として書かれたものを、
芝居を観るように読むという、これまで味わったことのない体験となりました。
湊かなえさんは、エンターテイメント小説の世界ではすでに
揺るぎないブランドですが、選考委員はこの作品をどう読むのでしょうか?
個人的に今回もっとも興味があるのは、その点かもしれません。
投稿者 yomehon : 00:00
2018年07月13日
第159回直木賞直前予想(5) 『傍流の記者』
次は、本城雅人さんの『傍流の記者』にまいりましょう。
元スポーツ記者の経歴を活かし、デビュー以来、野球や競馬などを題材にした小説を数多く
発表してきましたが、児童連続誘拐事件に挑む事件記者を描いた『ミッドナイト・ジャーナル』が
評判を呼んでからは、ジャーナリズムの世界を舞台にした小説を手掛けて注目を集めています。
『傍流の記者』は、大手新聞社の社会部を舞台に、個性あふれる記者たちの姿を描いた
連作短編集。東都新聞社会部では、黄金世代と呼ばれる敏腕記者たちがしのぎを削っていました。
記者にとって、名前の上に「○○といえば」というニュアンスで得意分野の冠がつくのは
誇らしいことだと思いますが、東都新聞社会部にも、「警察の植島」、「検察の図師」、
「調査報道の名雲」、「遊軍の城所」、「(官公庁の)人事情報の土肥」と、それぞれに異名を持つ
スペシャリストが揃っていました。みな同期で、それぞれに出世を意識しています。
ここにもうひとり、彼ら全員が一目を置く北川という同期が加わります。
ただし彼は記者ではありません。かつては若手のエース記者として将来を嘱望されながら、
栄転といっていい特派員への異動話をなぜか断り、記者職から人事・総務系へと移った人間です。
もともと記者としての能力がずば抜けていたことから一目置かれているところもありますが、
人事部長として次の社会部を率いる人間を決める立場でもあるため、同期は北川の動きを
意識せざるを得ないのでした。この作品では北川は、影の主人公といってもいい存在です。
本作は、この6名が織りなす人間ドラマから、いまの新聞ジャーナリズムの抱える問題や、
もっと普遍的な組織の問題などが浮かび上がってくるという仕掛けになっています。
それぞれの記者のエピソードはよく練りあげられていて読ませますが、個人的には、
若手記者の配属先を選ぶ顛末を描いた「選抜の基準」がお気に入り。
人を見抜く眼力について描かれたこの一編は、「良い人材がいない」が口ぐせになっている
管理職のみなさんには示唆に富んでいることでしょう。
ところでタイトルにある「傍流」とは何を指すのでしょうか。
どの新聞社でも、出世コースといえば政治部出身、と相場が決まっていることから、
政治部に対する社会部を傍流と呼んでいるのでしょうか。
あるいは、他部署に異動してもジャーナリストとしての矜持を失わない北川のような人物を指して、
「傍流の記者」と呼んでいるのでしょうか。
たぶんそのどれもが当てはまるのでしょう。
この小説は冒頭のプロローグで、2021年の東都新聞の社内の光景が描かれています。
読者は「いったい何のスキャンダルの話をしているんだろう?」と疑問に思うはずですが、
その謎は、それぞれの記者のエピソードが語られた後のエピローグでようやく明かされます。
そこで描かれるのは、著者が理想とするジャーナリズムのあるべき姿です。
詳しくは明かせませんが、ごく簡単にいえば、居場所が変わろうとも記者としての自覚を
持ち続けている者の姿、あるいは誰かの勇気に呼応して立ち上がることのできる人々の姿でしょう。
このシーンに心を動かされる人は多いと思います。
ぼくもその一人ですが、ただその一方で、「かつてならもっと感動していただろうな」と思ったことも、
正直に告白しておかなければなりません。
そんなふうに思ってしまった背景には、いまジャーナリズム自体が、
社会の傍流に置かれてしまっているのではないか、という疑問があるからです。
時の権力の息の根を止めるような渾身のスクープを目にする機会はいまやありません。
政府が発表する内容をただ垂れ流すだけの発表ジャーナリズムが当たり前になってしまいました。
ジャーナリズムが輝きを失ってしまった中、記者たちの人間ドラマを目にしても、
かつてのように(たとえばジャーナリズムの可能性を無邪気に信じていた学生の頃のように)
胸が熱くなるような感覚には、なかなかなれませんでした。
この作品は、いま社会の傍流に置かれている記者たちへの応援歌なのでしょうか。
作者は新聞社OBですから、おそらくそうなのでしょう。
だとするならば、ぼくも現役の記者たちに心からのエールを送りたい。
この作品を応援歌ではなく、挽歌のような感覚をもって読んでしまった者として。
ジャーリズムはまだ死んでいないと心の片隅で期待しているひとりとして。
投稿者 yomehon : 00:00
2018年07月11日
第159回直木賞直前予想(4) 『ファーストラヴ』
続いて島本理生さんの『ファーストラヴ』にまいりましょう。
発端は、22歳の女子大生が父親殺しの容疑で逮捕された事件でした。
アナウンサー志望だった聖山環菜は、2次試験を終えた後に父親の勤務先の美術学校に立ち寄り、
あらかじめ購入していた包丁で父親を刺殺。いったん自宅に戻るも、母親と口論して家を飛出し、
その後、多摩川沿いを血まみれで歩いているところを逮捕されました。
容疑者の美貌も相まって、事件は世間の注目を浴びます。
報道では、環菜は「動機はそちらで見つけてください」との謎めいた言葉を残したとされていました。
事件に関する本の執筆を依頼された臨床心理士の真壁由紀は、
なぜ環菜が父親を殺さなければならなかったか、その謎に迫っていきます。
関係者が「虚言癖があった」と語る環菜の証言はどこまで信じられるのか。
由紀は粘り強く、その証言の裏をとっていきます。
環菜が人知れず抱えてきたものが何かを知るとき、
由紀自身もまた自らの過去と向き合うことになるのでした……。
環菜の凶行の真相探しが物語のひとつの軸だとすれば、
もう一方の軸は由紀と、環菜の弁護人となった義弟の迦葉との関係です。
由紀と迦葉との間に何があったのかという謎も、読みどころのひとつでしょう。
著者は“恋愛小説の名手”などと評されることが多いため、
本書のタイトルも一見すると恋愛小説であるかのようにみえますが、
内容はまったく違います。
ネタバレになるのであまり書けませんが、
本書は家族の病理について書かれた家族小説であり、
心に深い傷を負った人間が回復する物語、
トラウマからのレジリエンスを描いた作品でもあります。
由紀も迦葉も環菜も、それぞれが家族にまつわる痛みの記憶を
抱えていて、それが本書の大きな核になっている。
いったい過去に何があったのか。その謎の力でぐいぐい読ませます。
臨床心理士である由紀が、環菜の言葉に対する疑問を投げかけ、
それを受けて環菜もまた、自分でも気がつかなかった心の奥にあるものを
言葉にしようとする。
しかも終盤では、この物語は法廷劇になります。
言うまでもなく、法廷とは、言葉を戦わせることで、真相の究明がなされる場です。
言葉のやりとりの中で、言語化されなかったものの輪郭が、
次第に現れてくるというプロセスは、まさに小説でしか表現できないものです。
その意味で本書は、小説の王道を行く作品と言えるでしょう。
また本作で扱われているテーマは、
世界的な潮流となっている「Me Too」の動きにも連なるものでもあります。
そうした面から見れば、非常にタイムリーな作品とも言えます。
おそらくこの作品は、作者のキャリアの中でも、
記念碑的な作品となるのではないでしょうか。
まさに“勝負作”という言葉がふさわしい作品です。
投稿者 yomehon : 00:00
2018年07月10日
第159回直木賞直前予想(3) 『じっと手を見る』
次は窪美澄さんの『じっと手を見る』。
富士山が見える小さな町を舞台にした7つの物語からなる連作短編集です。
この町で介護士として働く日奈と海斗は元恋人の関係でした。
ある日、介護施設のパンフレットをつくるために、東京から編集プロダクションの人間が取材に
やってきます。この時に出会った宮澤は、日奈にとって、まだ見ぬ世界、ここではないどこかを
見せてくれるような憧れを抱かせる存在でした。ほどなくふたりは関係をもつようになります。
ふたりの関係に嫉妬する海斗。やがて日奈は宮澤を追って町を出ます。
一方、地元に残った海斗は、後輩介護士でバツイチ子持ちの畑中と関係を持ち……。
物語は日奈、海斗、宮澤、畑中それぞれの視点から語られます。
帯に「恋愛小説」とあったので、そのつもりで読み始めましたが、いやいや、この作品は、
そんな枠におさまるような小説ではありません。
すべての登場人物が何らかの問題を抱えていて、迷い、求め、あがいています。
そして、それぞれに苦しみを抱えながら、それでも他者と関わりあっている。
この作品で描かれているのは、恋愛よりももっと広い意味での、他者との関わりではないでしょうか。
そうした点から見ると、物語の中心に介護を持ってきたのは効果的でした。
介護というのは、否が応でも他者と関わらなければなりませんし、しかも常に死と隣り合わせの世界。
介護を通じて、登場人物の人生にさまざまな角度から光を当てることができます。ある時は、
登場人物の生を照らし出し、またある時は、彼らが置かれている経済的な現実を映し出すというふうに。
もうひとつ、この作品を成熟した大人の小説にしているのは、作者の繊細な感性によるところも
大きいということも指摘しておかなくてはなりません。相手の視線のわずかな揺らぎであるとか、
ふっと息をついた仕草であるとか、この作者は、どんな些細な変化も見逃さない眼を持っている。
そうした敏感なセンサーでとらえられたモノやコトは、文章の細やかなディテールとなってあらわれます。
例えば、日奈がもはや自分の知っている彼女ではなくなってしまったことを、海斗が述懐するくだり。
「宮澤と会う前と後では、日奈の体はぜんぜん違う。
思い出すのは子供の頃、寒さで硬くなった練り消しだ。手の中で温め、もてあそんでいるうちに、
手の熱がうつったように、やわらかく、ぐにゃぐにゃになるあれ。今の日奈の体はそれと同じだ。
やわらかくしたのは宮澤で、俺はそのやわらかいものに執着している。」(「森のゼラチン」)
あるいは、父親が潰してしまった居酒屋の前で、酔った海斗が畑中に語る場面。
「『二人で店やらない?ここで』
『やらない。やるわけない』
笑ってそう言いながら、タンクトップの上に着ていたシャツを脱いだ。酔いのせいか暑くて
たまらなかった。黙ったままの先輩の視線が私の胸の谷間を辿る。
『……親父たちにはまだ夢見られたよな、ぎりぎり。俺たちには、それすら許されない。失敗したら
絶対に浮き上がれない。そういうめぐりあわせで生まれてきたんだ』
そう言いながら、火のついた煙草をシャッターに押しつけた。煙草の先端のオレンジ色の火の玉が
つぶれる。男の人の、こういう話、嫌い。」(「水曜の夜のサバラン」)
最後の「男の人の、こういう話、嫌い」という一文なんて、特に上手いですね。
バカなようでいて、冷めた目で男をみている畑中のキャラクターを、この一文だけで
的確に示してみせる。窪さんの小説を読んでいつも「凄いなぁ」と感心するところです。
ただ、こういう繊細なセンサーの持ち主だと、日常生活を送るのは大変かも、と勝手に心配します。
窪さんを直接存じ上げているわけではありませんが、「見えすぎる眼」を持っていると、
気がつかなくてもいいようなことにまで気がついてしまうのではないかと。
でも、そういう能力を持った人間だからこそ、作家になれたのかも。
「じっと手を見る」といえば、誰もが石川啄木の句を思い浮かべることでしょう。
啄木が貧しい暮らしから抜け出せないことになすすべもなくじっと手を見たのに対し、
現代に生きるわれわれは、生きることの息苦しさからじっと手を見るのかもしれません。
では、「見えすぎる眼」を持った作家は、その先にどんな救いの光を見ているのか。
それは本書を読んでのお楽しみです。
投稿者 yomehon : 00:00
2018年07月09日
第159回直木賞直前予想(2) 『宇喜多の楽土』
木下昌輝さんは、デビュー作『宇喜多の捨て嫁』がいきなり直木賞候補になったのも記憶に新しい実力派です。
戦国時代の備前(岡山県)で、下克上と仕物(暗殺)を繰り返し他国から恐れられた宇喜多直家を描いた
『宇喜多の捨て嫁』は、異様な迫力を湛えた作品でした。
異様な迫力というのは、まず直家その人が異様な人物であるということがあります。
他家に娘を嫁がせておきながらその寝首をかくというような行為を、平気でやってのける人物の内面というのは、
いったいどうなっているのか。凡人からすれば、それはまるで底知れない闇を覗き込むかのようです。
ただ、そのような最低・最悪の人物でありながら、読み進めるうちに、そのイメージが変わってくるんですよね。
詳しくは明かせませんが、最後は「えっ!?」という驚きが待っている。
この人物像を180度ひっくり返してみせる作者の力業にも、大変な迫力がありました。
さて、そんな前作を受けての続編が、今回の候補作『宇喜多の楽土』です。
本作の主人公は、宇喜多秀家。直家の嫡男です。
ただ、父親のような謀略家でもなければ、冷酷な人物でもありません。
豊臣秀吉に仕え、関ヶ原では西軍の要として徳川家康と戦い、敗れ去ります。
道理をわきまえた秀家は、父親のような異常性はない代わりに、小粒な人物だとも言えるかもしれません。
でも、だからといって、秀家の生涯を描いたこの続編が面白くないかといえば、そんなことはありません。
前作とは描かれているものがまったく違うからです。
前作で描かれているのは、直家その人です。
“戦国の梟雄”と恐れられたその人生は、ある意味“英雄の人生”いっていいでしょう。
ここで言う“英雄”とは、一般の物差しでは測れないような良くも悪くもスケールの大きな人物、
という意味です。
一方、秀家の人生というのは、常に状況との関係の中にあります。
敵対する毛利家との関係、当主に逆らう家臣との関係、そしてもちろん強大な力を持つ秀吉との関係……。
秀家の人生というのは常に内憂外患とともにあった人生といえるでしょう。
この作品を読みながら考えていたのは、「小説の歴史」のことです。
長い間、物語では、英雄が活躍するような勧善懲悪的なストーリーが基本でした。
主人公が持てる知恵や力をフルに使って活躍する物語に、読者は胸を躍らせたわけです。
人間ドラマを描くということがまず基本にありました。
ところが、次第に社会が複雑になっていくにつれて、人間は後景へと退きます。
代わりに前面へと躍り出てきたのが、「システム」です。
いま、小説が売れなくなったと盛んに言われていますが、その理由のひとつはおそらく、
人間が描きにくくなったことだと思うのです。
宇喜多直家の物語は、ある意味、遠い過去の英雄譚(それも悪の英雄ですが)として楽しむことができますが、
この『宇喜多の楽土』の秀家は、英雄には程遠い、むしろどこにでもいるような中間管理職のような存在です。
でもだからこそ、現代を生きるぼくたちに身近な物語として読むことができるような気がします。
賞の選考というのは、本来、候補作単独で判断すべきものでしょう。
でも長いこと直木賞をみていると、作品以外の要素、たとえばこれまでのキャリアなどが
選考に影響を与えることもよくあることがわかります。
それで言えば、『宇喜多の楽土』は、間違いなく前作からのつながりを踏まえて、
評価すべき作品であると思います。
この父と子のタイプの違い、そしてそれぞれのキャラクターにあわせた物語の書き分け方を、
選考委員はどう判断するのか。
実力は申し分ないだけに、そのあたりの選考会での議論が楽しみです。
投稿者 yomehon : 00:00
2018年07月06日
第159回直木賞直前予想(1) 『破滅の王』
さあ、それでは候補作をひとつずつ見ていきましょう。
まずは双葉社エントリー分のひとつ、上田早夕里さんの『破滅の王』から。
第二次世界大戦末期の上海を舞台にした歴史長編です。
上田さんといえば、SFの世界では大変な実力派として知られた作家です。
特に2011年に日本SF大賞を受賞した『華竜の宮』(早川書房)には、いまも鮮烈な印象が
残っています。地球上の陸地のほとんどが水没した25世紀の世界を描いているのですが、
特にこの中に出てくる<魚舟>という生き物(であり乗り物)のアイデアが秀逸で、読んだ当時、
「SF作家の想像力はなんて凄いんだ!」と度肝を抜かれました。
そんな豊かな想像力が、本作にどう生かされているのか、とても楽しみに読みました。
結論からいえば、史実のしばりに少々制約を受けてしまったかという印象です。
物語の主人公は科学者です。上海自然科学研究所で細菌学を研究していた宮本は、
あるとき領事館から呼び出しを受け、総領事代理の菱科と、陸軍武官補佐官の灰塚少佐から
機密文書の解読を依頼されます。その不完全な文書には、治療法のない細菌兵器の内容が
記されていました。
実はこの「キング」という名で呼ばれる細菌兵器を巡って、水面下で各国が血みどろの争奪戦を
繰り広げていたのです。キングの開発にはある日本人が関わっており、宮本は対抗するかたちで
治療薬の発見を任されます。
しかし治療法を見つけるためには、危険な細菌の株を手に入れなければなりません。
宮本は誰が味方かわからない状況の中、科学者としての良心にしたがって行動するのでした……。
上海自然科学研究所というのは実在した施設ですし、この他にも731部隊で知られる石井四郎や、
沖縄初の外交官・田場成義、中国の文学者・陶晶孫など、実在の人物が登場します。
いわば虚実入り乱れたかたちで、物語が進んでいくわけですが、この手の物語の場合、
虚の部分を思いっ切りふくらませるという書き方もあると思うのです。
でも、著者はそっちの方向は選ばず、どちらかといえば史実を太い幹のようにどーんと据えて、
架空の部分は枝葉のように付け足すような書き方をしている。
著者があえて選んだ方向ですからそれはそれでいいのですが、SF作品での目をみはるような
想像世界を知っている者からすると、なんだかもったいないなぁと思ってしまうのです。
これだと登場人物が歴史という大きなドラマ中の駒っぽくみえてしまうというか。
ひとりひとりの登場人物について、もう少し描き込まれているとよかったのに、と思いました。
もっとも戦争はすべての人の運命を巻き込む凄まじい力を持っていますから、あの時代の史実に
忠実であろうと思えば、登場人物の書き方も多少窮屈にならざるを得ないのかもしれません。
しかも著者が歴史ものに挑戦するのは初めて。
ならば、本作だけで判断せず、もう少しこの分野での作品を見てみたいと思いました。
投稿者 yomehon : 00:00