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2018年01月17日
直木賞&芥川賞(の一部)的中!
第158回直木賞は、門井慶喜さんの『銀河鉄道の父』(講談社)が受賞しました!
ついでに予想した芥川賞も若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社)が受賞!
石井遊佳さんとの同時受賞までは予想できませんでしたが、ともあれ皆さんおめでとうございます!!
『銀河鉄道の父』は、
宮沢賢治の父・政次郎に初めてスポットを当てたことと、
そこで描かれたのが決して特殊な父親像ではなく、ぼくたちとなんら変わらない父親であったこと、
つまり読者が共感できる普遍的な父親像を提示できたことが素晴らしかったと思います。
威厳のある父親を演じながら、その実、子どもたちのことが心配でたまらない。
本作ではそんな姿が時にユーモラスに描かれていますが、
一方で政次郎が娘のトシと賢治を相次いで亡くすという悲しみに直面したことも忘れてはいけません。
この小説には書かれていませんが、
先日蓮如賞を受賞した今野勉さんの傑作評伝
『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)によれば、
トシは地元の学校に通っている時に恋愛スキャンダルに巻き込まれ、心を病んだりもしています。
政次郎はきっと父親としていろいろなことを背負っていたのではないでしょうか。
誰かの父親である人はもちろん、
そうでない人も自分の父親を思い出しながらぜひ読んでいただきたいと思います。
芥川賞受賞作については、また機会をあらためてご紹介しますね。
最後にお三方に重ねてお祝いを申し上げます。
おめでとうございます!!!
投稿者 yomehon : 19:00
2018年01月15日
第158回直木賞の受賞作はこれ!!
今回の注目はなんといっても藤崎彩織さんの『ふたご』です。
もし受賞すれば大騒ぎになるでしょうし、
ただでさえ受賞作はベストセラーが約束されているところで
SEKAI NO OWARIのSaoriの作となれば、ミリオンも夢ではないでしょう。
又吉直樹さんの芥川賞の時のように、こんどは直木賞が事件になるのです。
それでもやはり今回は受賞はないと予想します。
もちろんデビュー作でこれだけの作品を書いた作家です。
実力の持ち主であることは間違いありません。
だからこそもっと書いてほしいのです。
彼女のつくる曲や詩の世界観からいえば、
ファンタジーも書けるかもしれないし(直木賞とファンタジーは伝統的に相性悪いとはいえ)、
それこそ彼女が学んできたクラシック音楽の時代を舞台にゴシックロマンなどもありかもしれない。
試行錯誤の痕跡もあらわなこのデビュー作ではなく、
藤崎さんの書いた2作目、3作目を読んでみたいと思うのです。
おそらく選考委員も同じような感想を持つのではないでしょうか。
そんなわけで、注目度の高い藤崎彩織さんは今後に期待、となると、残り4作品となります。
ここでぼくは、今回の賞レースの隠れテーマを見つけてしまいました。
それは「同志社大学」。
今回の直木賞のキーワードは、「同志社の戦い」なのではないか。
同志社出身者とはすなわち、文学部卒業の門井慶喜さんと、大学院修了の澤田瞳子さん。
受賞作はこの二人のうちのどちらかのような気がします。
うーん、どっちだ……。
悩みながらある日、書店の中を徘徊していると、不思議な場面に遭遇しました。
ふと目をあげると、向こうから本を持ったおばさんが歩いてきます。
これからレジに向かうのでしょう、そのおばさんは本を小脇に抱えるのではなく
大事そうに両手に持って、しかもなぜか表紙をこちらに向けているではありませんか!
こっ、これは……!?
ぼくは勝負事において、この手の偶然に過剰に意味づけをするタイプ。
間違いなくこれは神のお告げです。天啓です!
グレーのダウンジャケットを着たそのおばさんが掲げていた本は、
嗚呼!まるで保護色のようなグレーっぽい表紙をしているではありませんか!
そう、その本の名は、『銀河鉄道の父』!!
ということで、第158回直木賞の受賞作は、
天啓に導かれて、門井慶喜さんの『銀河鉄道の父』と予想いたします。
あ!それから、ついでに芥川賞の予想も。
今回の掘り出し物はなんといっても
若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』でしょう。
74歳の桃子さんの一人暮らしを描いたこの作品、
岩手弁がなんともユーモラス。
笑ってそしてホロリと泣けて、人生を思いっきり肯定する最強の終活小説です。
著者は岩手県遠野市出身。
55歳から小説講座に通いはじめ、
本作で昨年文藝賞を史上最年長の63歳で受賞しました。
それにしても、この「おらおらで ひとりいぐも」というタイトルどこかで……あっ!
宮沢賢治の「永訣の朝」だ!
著者は遠野市、賢治は花巻…・・・あつ!
ここにも隠れキーワード、「岩手県」が!!
どうやら第158回直木賞と芥川賞は、
どちらも岩手県と宮沢賢治がらみのようです。
芥川賞 『おらおらでひとりいぐも』 若竹千佐子 (河出書房新社)
今回はこれで決まり!!
投稿者 yomehon : 05:00
2018年01月12日
第158回直木賞直前予想(5) 『ふたご』
最後は藤崎彩織さんの『ふたご』です。
人気バンドSAKAI NO OWARIのSaoriが初めて書いた小説が
いきなり直木賞にエントリーしたということで大きな話題になりました。
ネットの評判をみると賛否がわかれていますね。
でもアンチの評をみると、読まずに書いたと思われるものが結構あったりして
有名人はほんと大変だなと思います。
あと多いのが、Saori自身とバンドのボーカルFukaseのことを書いた小説だと断定するパターン。
ふたごとはすなわち二人のことだというわけです。
作品をどう読むかは読者の自由ではあるものの、
個人的には、作品を現実の反映だとする読み方は窮屈だなぁと思いますね。
以前、桜庭一樹さんが『私の男』で直木賞を受賞した時に、
あるドキュメンタリー番組で桜庭さんに取材が殺到している様子が紹介されていて、
その中で男性インタビュアーが、
「本に書いてあることは桜庭さんのご経験?」みたいな失礼な質問をして
(『私の男』では近親相姦の場面が出てきます)
桜庭さんが不快感をあらわにしていてほんとお気の毒だったことがあります。
もし小説に書かれていることがすべて現実だとしたら、
ミステリー作家のほとんどは殺人犯になってしまいますよね。
日本では私小説という特殊なジャンルの伝統があるせいか、
読者は小説には現実にあったことが書かれているととらえがちですが、
小説家というのは優れた想像力&創造力の持ち主であるということをお忘れなく。
小説はあくまでフィクション。
フィクションでしか語りえないものを語るために選び取られた表現方法が小説なのですから。
ですので、この『ふたご』も、
SEKAI NO OWARIと切り離して、
新人作家のデビュー作として読んでみることにいたしましょう。
ただ、とは言ってみたものの、この小説の評価はとても難しい!
というのも、この小説は第一部と第二部とに分かれているのですが、
このふたつがまったく別の小説のような出来上がり具合だからです。
おそらく第一部と第二部とを書いた時期が、けっこう離れているのではないでしょうか。
まず第一部では、14歳の夏子がひとつ先輩の月島と出会い、
彼に恋心を抱いていく過程が描かれます。
「ふたご」というタイトルにはおそらく
「自分の片割れ」みたいなニュアンスが込められているのでしょう。
片割れといえば、プラントンは愛について書かれた『饗宴』の中で、
愛し合う男女のはじまりについてアリストファネスにこんなふうに語らせています。
いわく、男女というのは、元はひとつだったのを神がふたつに割った割符なのだと。
だからこそ欠けている相方を求める、それを愛というのだと。
夏子と月島の関係もそんなイメージのもとに書かれているのではないかと思います。
ところがこのふたりの関係は、そんなロマンチックなものではなく、
ちょっと精神医療の世界でいうところの共依存っぽいんですよね。
お互いがお互いの関係に過剰に依存しているというか。
(実際、月島は精神を病むのですが……)
第一部を読み終えたときに真っ先に思ったのは、「閉じている」という感想でした。
作者はもしかしたらピュアな愛を描こうとしたのかもれませんが、
ふたりの関係が閉じているために、読んでいる間ずっと息苦しかったです。
例えば、父親に抱きかかえられながら月島が発作で叫びまくる場面があるんですが、
夏子はなぜか月島を野生の獣のように美しいと感じ、うっとりと見入ってしまう。
なかなか他者が入っていけない独特の空間ですよね。
閉じているという印象を持ったのはこういうところ。
打って変わって雰囲気が変わるのが第二部。
ここでは、ふたりがバンドを結成して、
その中で居場所を見つけるまでが描かれます。
他のメンバーも加わるし、互いにぶつかり合いながらも世に出ようと頑張るし、
この第二部では閉じた空間の中にようやく外部の空気が入ってきた感があります。
息苦しかった前半を経て、後半にきてやっと息継ぎができるようになったというか。
第二部はむしろオーソドックスな青春小説といえるでしょう。
こういう個性的な構成の作品なのですが、さて選考委員はどう評価するでしょうか。
版元の文藝春秋にとってみれば、
『火花』の成功よ、ふたたび、というところでしょうが……。
さあこれで候補作5作品をすべてご紹介しました。
この中から選ばれるのはどの作品でしょうか。
予想作の発表は次回。
次は、1月15日(月)朝に更新いたします。お楽しみに!!
投稿者 yomehon : 05:00
2018年01月10日
第158回直木賞直前予想 『火定』
続いて澤田瞳子さんの『火定』です。
「火定(かじょう)」というのは、仏教の言葉で、
修行者が火の中に身を投げ入れて死ぬこと。
火の中で入定(にゅうじょう)することを言います。
物語の舞台は奈良時代。
時代小説ではあまり取り上げられることがありませんが、
澤田さんはこれまでも精力的にこの時代を手がけてきました。
時は天平、藤原氏が栄華を極める寧楽(なら)の都・平城京で、
天然痘が猛威を振るいます。
疫病の蔓延を食い止めようと絶望的な戦いに挑む医師たち、
そして偽りの神をでっちあげて徒に世間をかき回そうとする連中など、
感染症をめぐって繰り広げられる人間界の明と暗が描かれます。
いわば奈良時代のパンデミック(感染爆発)を描いたパニック小説です。
人類は長いこと天然痘に苦しめられてきました。
ジェンナーが種痘を発表したのが1796年、
WHOが天然痘の根絶を宣言したのが1980年とごく最近のことですから、
本作の舞台となっている時代(737年)ではまだ死の病でした。
古代の話ですから、なにしろ原因がわかりません。
苦しみながらバタバタと死んでいく患者たちを前に、
医師は常に自らの存在意義は何かという問いを突きつけられます。
この時代の都には、皇后が慈善事業としてつくった
貧しい病人の治療を行う施薬院や孤児などを収容する悲田院がありました。
当時、政治を我がものにしていた藤原四兄弟への世間の悪評を考慮して、
四兄弟は実の妹である皇后を菩薩のような慈悲深い存在に祭り上げることで、
人々の非難をかわそうとしたと言われています。
でも、いくら設立の動機が不純だろうが、
目の前に助けを求めて苦しむ患者がいれば、
全力で助けようとしてしまうのが医者というもの。
施薬院に次々に担ぎ込まれる患者たちをなんとかしたいと
医師たちは不眠不休で治療に当たりますが、
助けようとするそばから患者たちは死んでいく。
本作でまず圧倒されるのは、このバタバタと死んでいく人々の姿です。
現代は死を出来るだけ隠そうとしますが、
この時代は遺体が普通に河原に打ち棄てられていたりする。
死は常に目の前にあるものなのです。
だからこそ感染被害の凄まじさも一目瞭然でわかってしまう。
目の前の地獄こそが、いま起きていることなのです。
加速度的に事態が悪化していく中で、
医師はおのれの非力を痛感せざるを得ません。
作者は「医師とは何か」というテーマを、
主人公のひとり、施薬院で働く蜂田名代の目を通して描いていきます。
火定とは誰を指すのかということも、そこから見えてくる。
大災害が起こったときに個人に何が出来るかというのは今日的な問いですし、
災厄の原因を外国人のせいにして彼らを排斥しようとする動きも現代に通じます。
巻末の参考文献をみると書籍は少なく、
むしろ専門家による論文のほうが数多くあげられていて、
この古代のパンデミックについては
まだほとんど一般には知られていないのだということがわかります。
時代小説に資料との格闘は付きものとはいえ、
一部の専門家にしか知られていない歴史的な事実を
物語のかたちでわれわれに届けてくれた作者の努力に拍手をおくりたい一冊です。
投稿者 yomehon : 05:00
2018年01月09日
第158回直木賞直前予想(3) 『銀河鉄道の父』
続いては、門井慶喜さんの『銀河鉄道の父』にまいりましょう。
タイトルから推測できるように、宮沢賢治の父親を主人公に据えたこの物語、
「宮沢賢治を描く方法がまだあったなんて!」とまさに虚を衝かれた一冊です。
ご存知のように宮沢賢治その人については、
これまで膨大な数の本が書かれてきました。
昨年はその中でも決定版といっていい評伝
『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』今野勉(新潮社)が出版され、
読んで深く感動させられた記憶も新しかったので、
もうこれ以上、宮沢賢治の新しい本と出合うことはないだろうと思っていました。
それがまさか父親の視点をとおして描く手があったとは。
宮沢賢治の父・政次郎にフォーカスした本は、
ぼくの知る限り小説はもちろん研究書も評伝も存在しないはずです。
つまり本書は、本邦初の試みになるわけです。
これまで賢治について書かれた本では、
生家が質屋を営んでいたことや、
裕福で父親は地元の名士でもあったことなどについて
わずかに触れられる程度でしたが、
著者はこの部分に命を吹き込み、豊かな父と子の物語をつくりあげました。
宮沢政次郎は明治7年(1874年)生まれ。
幼い頃から学業優秀で進学を希望するものの
父親の喜助から「質屋に、学問は必要ねぇ」と一蹴され家業を継ぎます。
この時代の父親のパブリックイメージといえば「厳父」と相場が決まっていますが、
いくら表面上はしかつめ面を取り繕っても、内心は賢治のことが心配でたまりません。
物語の冒頭、7歳の賢治が赤痢にかかったと聞いて取り乱した政次郎が、
病院に押しかけて泊り込みで看病をする場面が出てきます。
その後、政次郎も感染してベッドの上で苦しむことになり、
見舞いに来た喜助から「お前は、父でありすぎる」と嘆かれる始末ですが、
父が息子を必死に看病するこの場面は微笑ましい上にとても美しく、
その後もこの幸福な記憶は、物語の随所で絶妙な効果を生むことになります。
ですが、私たちはやがて悲しい出来事がこの一家を襲うことを知っています。
賢治が心から愛した妹トシの死、あの名詩「永訣の朝」に結実する悲しい別れは、
読んでいて胸を締め付けられるような思いがしました。
ああ、そうか、それは思いが至らなかった、と不意を突かれたことがあります。
トシを看取った後、政次郎はトシの葬儀を取り仕切っているのですね。
父親なのだから当たり前と言われればそうなのですが、
この時、賢治はといえば、自室に引きこもって弔問客に顔も見せなかったといいます。
政次郎だって娘の死にとてつもないショックを受けていることを読者は知っています。
にもかかわらず、彼は悲しみをその胸に秘め、
立派に葬儀を取り仕切り、父親としての役割を全うするのです。
この小説の素晴らしいところは、
こんなふうに世間の中で立派な社会人として生きてきた父親と、
生涯にわたり夢を追い続け、天性の才能に恵まれた息子を、
等しく価値を持つものとして扱っているところにあります。
世間で揉まれてきた父親には、
世の中で認められるには並大抵の努力ではダメだということがわかっています。
だからこそ、芸術のことはわからずとも、息子の背中を押すことができる。
胸を病んで伏せってしまい、気力が出ないと弱音を漏らす賢治に
政次郎はこんな言葉をかけるのです。
「机に向かえません」
その口調はさっぱりしている。
ほとんど自慢そうだった。政次郎は頭にきた。さらしを丸めて右手ににぎると、
頬をたたいて、
「あまったれるな」
「え?」
賢治は、まばたきした。政次郎は二度、三度とたたきながら、厳父の顔で、
「くよくよ過去が悔やまれます。机がないと書けません。宮沢賢治はその程度の
文士なのか?その程度であきらめるのか?ばかめ。ばかめ」
内心では
(何も、そこまで)
自分でも嫌になるのだが、どうしようもなかった。口も手もやまない。
父親の業というものは、この期におよんでも、どんな悪人になろうとも、
なお息子を成長させたいのだ。
「お前がほんとうの詩人なら、後悔のなかに、宿痾のなかに、
あらたな詩のたねを見いだすものだべじゃ。
何度でも何度でもペンを取るものだべじゃ。人間は、寝ながらでも前が向ける」
賢治は目を見ひらいた。
わずかな瞼のうごきだったが、たしかに瞳は、かがやきを増した。
心の中では、何もそこまで言わなくても、と思っているのに、
息子をなお成長させたいと願い、強い言葉をかけてしまう――。
ものすごくよくわかります。
この小説にはこういう世の父親たちが共感できるところが随所に出てきます。
けれども父親の激励の言葉も空しく、賢治は次第に衰弱していきます。
鉛筆がしっかり握れなくなり、ある日は、カタカナで詩を書いていて、
ちらりと見ると、――マケズ、――マケズという文句が見えました。
父親を主人公にしたことで、
私たちは賢治の臨終の場面にも立ち会うことができます。
「これから、お前の遺言を書き取る。言い置くことがあるなら言いなさい」
と愛する子どもに詰め寄る場面の凄まじさ。
最期まで息子の遺志を聞き漏らすまいという政次郎の覚悟には迫力があります。
本書を読み終えて思うことは、
国民的作家・宮沢賢治は父親なくしてはあり得なかったということです。
しかも政次郎は何か特別なことをしたわけではありません。
ただ息子のことを深く愛し、時には我を忘れて怒り、時には心から褒め、
また時にはみっともなくうろたえながら、接したのです。
つまり政次郎は、ごく普通の父親となんら変わらなかった。
そこにこの作品の普遍性があるように思います。
投稿者 yomehon : 05:00
2018年01月08日
第158回直木賞直前予想(2) 『彼方の友へ』
次は伊吹有喜さんの『彼方の友へ』にまいりましょう。
戦時下の少女雑誌編集部を舞台に、雑誌づくりに情熱をそそぐ人々の物語です。
老人介護施設に入所している佐倉ハツのもとに、ある日美しいカードが届けられます。
そのカードは若い頃にハツが大好きだった少女雑誌の付録でした。
懐かしいものとの再会をきっかけに記憶の扉が開き、ハツは過ぎ去った日々を思い出します。
時は昭和12年。大陸にわたった父親が失踪したことで進学をあきらめ、
音楽家の家で女中として働きながら歌を学んでいたハツは、
あるきっかけから憧れの雑誌『乙女の友』の編集部で雑用係として働くことになります。
若き主筆の有賀憲一郎と、可憐なイラストで少女たちをとりこにする長谷川純司のコンビが
牽引する『乙女の友』は、当代一の人気雑誌。
「友へ、最上のものを」をモットーに掲げた志の高い雑誌づくりは、
少女たちから熱狂的に支持されていました。
右も左もわからず当初は邪魔者扱いされていたハツでしたが、
持ち前の素直さと根性とで、次第に編集部にはなくてはならない人材へと育っていきます。
ですが戦局の悪化に伴い、編集部員や書き手が召集され人手が足りなくなり、
出版に欠かせない紙も統制下に置かれ、雑誌づくりには著しく不利な環境となります。
そしてなによりも、美しいものを華美だ、贅沢だと我が物顔で糾弾する人々が世に溢れたことが、
『乙女の友』の未来に暗い影を落としていました。
そんな過酷な運命の下、ハツはどのように生き抜いたのか。
物語のラストには、ちょっとした奇跡が用意されています。
戦火を潜り抜け、70年の時を越えてハツのもとに届けられたある人物からのメッセージには、
きっと多くの読者が涙することでしょう。
糸をひくような美しいストレートをど真ん中に投げられたかのような、そんな小説です。
物語の中心にすえられているのは、「友へ、最上のものを」という情熱。
そして人の熱い思いは、時の隔たりさえも超えるのだという作者の力強いメッセージ。
読む者の魂を奮わせる、「これぞ物語の王道」と言いたくなるような力作です。
戦時下を舞台にした物語にもかかわらず、
ある種の切迫感を持って感情移入できてしまうのは、
やはり現代がますます当時の時代状況に似てきているからではないでしょうか。
その言葉は敵性語ではないかとか、そのリボンは派手だからけしからんとか、
そういった当時のくだらない揚げ足取りにそっくりなやり取りは、
現代のSNSにいくらでも見つけることができます。
この小説の中で起きていることは、まさに今、私たちが経験しつつあることでもあるのです。
ある意味、選考委員の時代認識も問われる候補作かもしれません。
読んで他人事ではないと思える選考委員であれば、
東日本大震災が発生した年に『下町ロケット』を選んだように、
この作品を暗い時代の入り口にさしかかった現代に
送り出すのにふさわしいと考えるかもしれません。
ただその一方で、選考委員からも指摘があるのではと思ったところもあります。
それは父親に関係した部分。
大陸で失踪した父親には何か秘密があるらしいということを、
作者は物語の前半でしばしば仄めかします。
しかも父親の失踪の秘密は、母親も知っているようなのです。
ジェイドなる謎の男装の麗人がハツに接触してくる場面があるのですが、
そのジェイドと母親とのやりとりなどは、いったい過去に何があったんだと
おおいに読者の興味をそそるようなものになっている。
当初、この物語を手に取った時は、
「おそらく戦時中の出版社を舞台にしたお仕事小説だろう」と予想していました。
ところが、父親の失踪をめぐる思わせぶりな記述を目にして、
「どうやら背後には主人公も知らない謎があるようだぞ」と期待が膨らみました。
ところがその後、父親のことはほとんど出てこず、
物語の最後のほうであわただしくその消息が知らされるだけ。
母親も転地療養でいなくなってしまうし、物語はもっぱら
戦火の下で懸命に雑誌をつくり続けるハツの姿にのみフォーカスが当てられます。
ならば、あの前半部分での仄めかしはいったいなんだったのか。
伏線が回収されていないというか、ひろげた風呂敷が畳まれていないというか、
そんなおさまりの悪さがちょっと残ってしまっています。
本書は雑誌の連載がもとになっているようなので、
書いているうちに方向性が変わったのかもしれませんが、
通読してみると、この点が結構気になってしまいます。
単行本化の際に手直しをしたほうが良かったのではと残念に思いました。
投稿者 yomehon : 05:00
2018年01月05日
第158回直木賞直前予想(1) 『くちなし』
彩瀬まるさんの『くちなし』を読み終えたとき、はたと考え込んでしまいました。
「この小説の個性を、どうすればうまく伝えることができるだろう?」
そう思ったのです。
この本には7つの短編がおさめられています。いずれも「愛」を題材にしているといっていい。
ただ、それは誰にでも説明できることに過ぎません。この本におさめられた短編は、
どれもそんなくくり方からははみ出してしまうような個性的な相貌を持っています。
むしろ大事なのは、この「はみ出してしまう」ところをどう説明できるかなのです。
実際に雰囲気を味わってもらったほうが、話が早いかもしれません。
以下に「山の同窓会」という作品の冒頭を引用します。
同窓会前日になってもまだ、私は出欠の連絡を入れられずにいた。
「クラスでまだ一回も卵を作っていないのは、ニウラを入れて三人だって」
そう、連絡を回してくれたコトちゃんが世間話のはずみで口を滑らせた。
自分にとって居心地の悪い会になることは初めからわかっていた。
それでもすぐに断らなかったのは、クラスの半分近くの女の子たちがもう三回目の妊娠を果たし、
お腹に卵を抱えていたからだ。そんな優等生の一群には、一番仲の良かったコトちゃんも
含まれている。三回の産卵を果たした女は大抵力尽きて死んでしまう。
これが、彼女らにお別れを言える最後の機会になるかもしれない。
おわかりいただけたでしょうか?
「クラスでまだ一回も卵を作っていない」だの、
「三回の産卵を果たした女は大抵力尽きて死んでしまう」だの、
同窓会の話にしては随分と奇妙な言葉が出てきます。
その後もこの奇妙な設定についての説明は特になく、
女たちが卵を産む不思議な世界がごく当たり前のように描かれます。
他の作品も同様です。
表題作の「くちなし」では、長年の不倫関係を解消するにあたってなにか贈りたいという男に、
女は男の「腕」を希望します。それを当たり前のように受け入れた男は、
自分の左腕をパーツのように外して女に与えるのです。
また「けだものたち」という作品では、女が獣に変化して、好きな男をバリバリと食べてしまう
奇妙な世界が描かれます。
そう、この「奇妙な味わい」こそが、彩瀬さんの作品の魅力なのです。
わかりやすくジャンル分けするなら「幻想小説」になるでしょう。
直木賞以外では泉鏡花賞なんかを受賞してもおかしくない作品です。
ですが作者はただ幻想的で不思議な世界を描いているわけではありません。
作者の導きのままに作品世界に身を浸していると、
この奇妙な異世界での営みを、読者はいつの間にか違和感なく受け入れ、
現実の世界と同じように登場人物に共感し、驚き、感動していることに気がつくでしょう。
この本におさめられた奇妙な味わいの作品たちが読む者の胸に迫ってくるのは、
ここで描かれているのが、どれも私たちが生きている世界のことだからです。
たとえば「けだものたち」でいえば、
「食べる女」と「食べられる男」という設定から浮かび上がるのは、
異性間のディスコミュニケーションです。
決して交わることのない、女性と男性それぞれの世界の常識が描かれています。
ものすごく奇妙な設定の物語にもかかわらず、
ここでは私たちがよく知っていることが描かれている。
「山の同窓会」にしてもそうです。同窓会で主人公の感じる孤独は、
子育て話に花を咲かせる同級生たちを前にした
子どもを生んだことのない女性の孤独そのものでしょう(でもこの主人公はやがて自分なりの
人生の使命を見つけます。ぼくはこの心に沁みる物語が本書の中でいちばん好きです)。
奇妙な設定だからこそ、私たちが普段当たり前だと思い込んでいる
常識のおかしさを浮かび上がらせることができる。実にうまくできています。
幻想小説というのは、単純に現実ではあり得ない世界を描けば成立するものではありません。
そこには世界観がなくてはならない。
世界観とは、私たちの世界と地続きでありながら、私たちが気づかなかった
アナザーワールドを垣間見せてくれる作者の視点のことをいいます。
彩瀬さんの『くちなし』は、見事な世界観のもとに描かれた一冊です。
直木賞に幻想小説という取り合わせ。
なるほど、これも「あり」かもしれません。
投稿者 yomehon : 20:29
2018年01月03日
新年のご挨拶と直木賞
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
と、年始の挨拶をしているうちにやってくるのが直木賞。
第158回直木賞は、すでに以下の5作品が候補作として発表されています。
バンド「SEKAI NO OWARI」のSaoriこと藤崎彩織さんのデビュー作が
候補になったことがニュースになっていますが、
まず今回の候補作をみた第一印象は、「本命不在」でした。
もちろん各候補作が面白くないということではありません。
面白さの方向性がそれぞれ違っていて、なかなかこれといった作品に絞りづらいという意味です。
言葉を換えれば、これだけバラバラな小説を
「直木賞」の名のもとに候補作としてまとめてしまえるところに、
ブランドの威力というか、器の大きさを感じますね。
どれが受賞しても「直木賞らしい」と言えてしまうというのはやっぱり凄い。
さあ直木賞の歴史に新たに名を連ねるのはどの作品でしょうか。
次回から候補作をひとつずつ見ていきましょう。
投稿者 yomehon : 05:00