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2017年12月04日

作家生活30周年記念作品 『この世の春』


同時代の作家の作品を、デビュー作からずっとリアルタイムで
追いかけることができるというのは、とても贅沢な読書体験です。
宮部みゆきさんもそんな作家のひとりですが、「作家生活30周年」などと聞くと、
そんなに長いお付き合いになるのかと実に感慨深いものがあります。

そんな作家生活30周年のメモリアル作品として刊行された
『この世の春』 (新潮社)は、素晴らしい傑作です。
一見すると時代小説ですが、サイコスリラーの要素もミステリーの要素も入っている。
あらゆるエンターテイメント小説の技術の粋を尽くして書かれた贅沢な一冊なのです。

物語の舞台は下野国(いまの栃木県)にある北見藩。
この北見藩で、美貌の青年藩主・重興が、「病重篤」を理由に
重臣たちによって強制的に隠居させられるという政変が起こります。
これは「主君押込(しゅくんおしこめ)」と呼ばれる一種のクーデターで、
通常は極端な放蕩や大酒、あるいは行過ぎた専制(今の言葉でいえば、
身代を棒に振るほどの浪費やアルコール依存、パワハラ)などに対して、
御家の存続がなによりも大切と考える家臣たちがとる最後の手段でした。
(詳しくは笠原和比古さんの『主君「押込」の構造』などを読んでみてください)

要するに主君押込自体がかなりの異常事態、緊急事態なわけです。
重興の場合は、政務の間に突然、心ここにあらずといったかのようにぼうっとしたり、
不可解なことを口走ったりするようになったため、
心が壊れたとして藩主の座を追われたのです。
それからは奇妙なことが起きるようになりました。
重興が幽閉された座敷牢からは、夜な夜な奇妙な声が聞こえてきます。
それは時に子どもの声だったり、あるいは女の声だったりもして、
人々は、藩主は死霊に取り憑かれたのではないかと噂しました。

藩の作事方(土木工事などを担当する役目)の家に生まれた多紀は、
思いがけずこの政変に巻き込まれます。

物語は、多紀が元家老の織部や医師の白田、五香苑の人びととともに、
重興を救うために奔走する姿を描きます。
ここに、死者の魂を呼び出す「御霊繰(みたまくり)」の技の使い手とされる
いまは亡き多紀の母の一族との因縁や、
かつて藩で頻発していた男児失踪事件の謎などがからみ、
読み始めたらノンストップのストーリーが展開されます。

実に見事なのは、精神医学もないこの時代に(フロイトが『夢判断』
発表したのは1900年。この物語が幕を開けるのは1710年の宝永7年)、
多紀たちが重興の奇妙な症状の謎を自力で解き明かしていくところ。

それもわが国古来の伝統である「怨霊」のような概念に拠ることなく、
「科学的」に解明していくところが素晴らしいのです。

安っぽい小説やドラマでは、安易に「トラウマ」などを持ち出して
謎解きの辻褄をあわせるのに使ったりしがちですが、
宮部さんはそういった便利な(でも手垢に塗れた)言葉を一切使うことなく、
登場人物たちが目の前の事象について懸命に考え抜き、
重興の内側で何が起きているかを少しずつ解き明かしていく様子を通じて、
わたしたちに大切なことを気づかせてくれます。

なんというか、ガリレオでもニュートンでもいいですけど、
歴史上の偉大な発見をした人びとというのは、
きっとこんな風に、なんの手がかりもないところから、
手持ちの知識をもとに自分の頭で考え続けて真理に辿りついたんでしょうね。
この作品にはそんなスリリングな思考のプロセスを
目の当たりにしているかのような面白さもあります。

本書で扱われる人間の心の暗部は、重いテーマではありますが、
現代社会で大きな問題となっていることでもあります。
江戸時代を舞台としながら本書はまさに現代を描いているのです。

また重苦しいテーマを扱っていながら、とても面白く読めるのは、
それこそが作者の30年にわたる作家生活の中で培われた技術のたまものなのでしょう。
ぜひこの超一流の技術を堪能してください。

「この世の春」という一見、テーマと似つかわしくないようなタイトルの謎も
最後には解き明かされます。

その謎が解き明かされた時、
この作品はあなたに、
暗雲たれこめる冬空から射す
暖かな一条の光のような感動を与えてくれることでしょう。

投稿者 yomehon : 2017年12月04日 05:00