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2016年12月23日

『罪の声』 ノンフィクションとミステリーの幸福な邂逅

2016年の国産ミステリーのナンバーワンは、
なんといっても塩田武士さんの『罪の声』(講談社)でしょう。

1984年(昭和59年)から翌年にかけて
日本中を震撼させたグリコ・森永事件に材をとり、
読み応えのある物語に仕立て上げた作者の手腕には脱帽です。

ある世代の人々にとっての3億円事件や連合赤軍事件がそうであるように、
グリコ・森永事件が記憶に焼きついているという人も多いのではないでしょうか。

ぼくもこの事件のことは本当によく覚えています。
警察をナメきった関西弁の挑戦状や、
いちど目にしたら忘れられない「キツネ目の男」の似顔絵など
映画やドラマさながらの展開にメディアが過熱していく様子は、
ちょうど興味関心が社会に向き始めた多感な時期の子どもにとって、
まさに「生まれて初めて体験する大事件」でした。

この作品はフィクションとはいえ、事件の輪郭を正確にトーレスしています。
グリコ・森永事件は、名称こそ「ギンガ・萬堂事件」となっていますが、
発生日時や関係先、犯人による挑戦状や脅迫状の内容、
当時ささやかれた犯人像など、ほぼすべてが現実通りで、
その中で一点だけ、著者が考える「真犯人」に関わる部分だけが
フィクションというかたちをとっているのです。

「現実をもとに作者がありえないような真相を適当にでっちあげた小説じゃないの?」
と、もしあなたが思ったのだとしたら、ちょっと待っていただきたい。

たしかに現実の事件を下敷きにして書かれた小説で成功したものは少ない。
「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、
現実の凄さに物語が完全に敗北してしまって(というか屈服させられ)
無残な結果に終わってしまうのが常です。
現実というものは、凡庸な作家の想像力なぞやすやすと超えてしまうものなのでしょう。
でも、この『罪の声』は違う。
決してそのような安易な推理にもとづいて書かれた小説ではありません。

元新聞記者の著者は徹底的に事実を調べ上げた上で、
最後に残った謎の部分にのみ、想像力を働かせます。
そして、その作者の想像力は、
事件そのものの見え方すら変えてしまうようなインパクトを持っている。

「現実」という液体で満たされたグラスの中に、
たった一滴の「フィクション」を垂らしたら、
グラスの中が見たことのない色に一気に変わったような感じと言ったらいいでしょうか。
まさに魔法をみるよう。
この小説を読み終えた人の目には、
事件は以前とはまったく違った見え方をしているはずです。

なぜ作者はここまで力のある作品が書けたのでしょうか。
それは、これまであまり重視されることのなかった視点から
事件に光を当てたことにあります。

それは何か。
この事件が「子どもが関わった事件」であるという視点です。

グリ森事件の犯人グループは、捜査をかく乱するために、
子どもに犯行声明文などを読み上げさせたものを
テープに録音して送りつけていました。
使われた子どもは3人。
「いまももしどこかでこの子どもたちが生きていたとしたら」
この小説はそんなアイデアがもとになって生まれました。


物語の舞台は2015年。
京都でテーラーを営む曽根俊也は、
父の遺品の中からカセットテープと黒革の手帳を発見します。
手帳には、英文に混じって「ギンガ」「萬堂」の文字があり、
テープには幼い頃の自分の声が録音されていました。
「きょうとへむかって、いちごうせんを……にきろ、
ばーすてーい、じょーなんぐーの、べんちの、こしかけの、うら」
それは31年前に社会を震撼させた「ギンガ・萬堂事件」で恐喝に使われた
録音テープの内容と同じものでした。
なぜこんなものがうちにあるのか。
俊也は父親の友人の協力を得ながら、事件について調べ始めます。

一方、大日新聞大阪本社文化部記者の阿久津英士は、
社会部の年末企画取材班に組み入れられ、
迷宮入りした「ギン萬事件」を洗いなおすことになります。
阿久津は事件発生の4ヶ月前に起きた世界的ビールメーカー
「ハイネケン」の会長誘拐事件のことを知り、ヨーロッパへと飛びます。

俊也と阿久津、ともに細い糸を辿るうちに、
やがてその糸は、思いもよらない事件の真相へとつながっていくのでした……。


ラジオの仕事をしている者からすると、
なによりも「声」に注目した著者の慧眼を称えたい。
これまでにない切り口であるのはもちろん、
一本の古ぼけたテープから物語がどんどん拡がっていくところが素晴らしい。
「声」にはさまざまなイメージを喚起する力があります。

文化放送にも吉展ちゃん誘拐殺害事件のスクープ音声があります。
1963年(昭和38年)の事件発生当時、文化放送の社員が行きつけの喫茶店で、
公表されていた脅迫電話の声に「よく似た男を知っている」という情報を聞きつけ、
男がよく顔を出すという飲み屋に張り込んで音声を録音することに成功したのです。
このときの録音は後に行われた鑑定で、犯人の特定に大きく貢献しました。

本書を読んであらためて痛感したのは、グリコ・森永事件は、
子どもを犯行に協力させた許しがたい事件であるとともに、
お菓子を標的に子どもを人質にとった卑劣な事件でもあったということです。
この事件をきっかけにお菓子の箱がフィルム包装されるようになったのを
覚えている人もいることでしょう。

「ひょうご犬警」といった人をおちょくったような文言を散りばめた挑戦状が
犯行の凶悪性を薄めていたかのように錯覚しがちですが、
実際にやっていることは極悪だということをあらためて思い知らされました。
(もっとも挑戦状で世間を笑いに誘う裏側で、企業には凶悪さをむき出しにした
脅迫状を送りつけていました。この使い分けも犯人の狡猾さを物語っています)


「子どもを犯罪に巻き込めば、その分、社会から希望が奪われる。
『ギン萬事件』の罪とは、ある一家の子どもの人生を粉々にしたことだ」(P386)

事件に関わった子どもたちのその後の人生を知るとき、
この著者の言葉は読む者の胸に深く沁みます。

まるで調査報道の現場を目にするかのような興奮を味わいつつ、
事件に翻弄された子どもたちのその後の人生に魂を震わせる。
ノンフィクションとミステリーのこの幸福な邂逅を、おおいに喜ぼうではありませんか。

投稿者 yomehon : 2016年12月23日 00:00