« 2016年11月 | メイン | 2017年01月 »
2016年12月23日
『罪の声』 ノンフィクションとミステリーの幸福な邂逅
2016年の国産ミステリーのナンバーワンは、
なんといっても塩田武士さんの『罪の声』(講談社)でしょう。
1984年(昭和59年)から翌年にかけて
日本中を震撼させたグリコ・森永事件に材をとり、
読み応えのある物語に仕立て上げた作者の手腕には脱帽です。
ある世代の人々にとっての3億円事件や連合赤軍事件がそうであるように、
グリコ・森永事件が記憶に焼きついているという人も多いのではないでしょうか。
ぼくもこの事件のことは本当によく覚えています。
警察をナメきった関西弁の挑戦状や、
いちど目にしたら忘れられない「キツネ目の男」の似顔絵など
映画やドラマさながらの展開にメディアが過熱していく様子は、
ちょうど興味関心が社会に向き始めた多感な時期の子どもにとって、
まさに「生まれて初めて体験する大事件」でした。
この作品はフィクションとはいえ、事件の輪郭を正確にトーレスしています。
グリコ・森永事件は、名称こそ「ギンガ・萬堂事件」となっていますが、
発生日時や関係先、犯人による挑戦状や脅迫状の内容、
当時ささやかれた犯人像など、ほぼすべてが現実通りで、
その中で一点だけ、著者が考える「真犯人」に関わる部分だけが
フィクションというかたちをとっているのです。
「現実をもとに作者がありえないような真相を適当にでっちあげた小説じゃないの?」
と、もしあなたが思ったのだとしたら、ちょっと待っていただきたい。
たしかに現実の事件を下敷きにして書かれた小説で成功したものは少ない。
「事実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、
現実の凄さに物語が完全に敗北してしまって(というか屈服させられ)
無残な結果に終わってしまうのが常です。
現実というものは、凡庸な作家の想像力なぞやすやすと超えてしまうものなのでしょう。
でも、この『罪の声』は違う。
決してそのような安易な推理にもとづいて書かれた小説ではありません。
元新聞記者の著者は徹底的に事実を調べ上げた上で、
最後に残った謎の部分にのみ、想像力を働かせます。
そして、その作者の想像力は、
事件そのものの見え方すら変えてしまうようなインパクトを持っている。
「現実」という液体で満たされたグラスの中に、
たった一滴の「フィクション」を垂らしたら、
グラスの中が見たことのない色に一気に変わったような感じと言ったらいいでしょうか。
まさに魔法をみるよう。
この小説を読み終えた人の目には、
事件は以前とはまったく違った見え方をしているはずです。
なぜ作者はここまで力のある作品が書けたのでしょうか。
それは、これまであまり重視されることのなかった視点から
事件に光を当てたことにあります。
それは何か。
この事件が「子どもが関わった事件」であるという視点です。
グリ森事件の犯人グループは、捜査をかく乱するために、
子どもに犯行声明文などを読み上げさせたものを
テープに録音して送りつけていました。
使われた子どもは3人。
「いまももしどこかでこの子どもたちが生きていたとしたら」
この小説はそんなアイデアがもとになって生まれました。
物語の舞台は2015年。
京都でテーラーを営む曽根俊也は、
父の遺品の中からカセットテープと黒革の手帳を発見します。
手帳には、英文に混じって「ギンガ」「萬堂」の文字があり、
テープには幼い頃の自分の声が録音されていました。
「きょうとへむかって、いちごうせんを……にきろ、
ばーすてーい、じょーなんぐーの、べんちの、こしかけの、うら」
それは31年前に社会を震撼させた「ギンガ・萬堂事件」で恐喝に使われた
録音テープの内容と同じものでした。
なぜこんなものがうちにあるのか。
俊也は父親の友人の協力を得ながら、事件について調べ始めます。
一方、大日新聞大阪本社文化部記者の阿久津英士は、
社会部の年末企画取材班に組み入れられ、
迷宮入りした「ギン萬事件」を洗いなおすことになります。
阿久津は事件発生の4ヶ月前に起きた世界的ビールメーカー
「ハイネケン」の会長誘拐事件のことを知り、ヨーロッパへと飛びます。
俊也と阿久津、ともに細い糸を辿るうちに、
やがてその糸は、思いもよらない事件の真相へとつながっていくのでした……。
ラジオの仕事をしている者からすると、
なによりも「声」に注目した著者の慧眼を称えたい。
これまでにない切り口であるのはもちろん、
一本の古ぼけたテープから物語がどんどん拡がっていくところが素晴らしい。
「声」にはさまざまなイメージを喚起する力があります。
文化放送にも吉展ちゃん誘拐殺害事件のスクープ音声があります。
1963年(昭和38年)の事件発生当時、文化放送の社員が行きつけの喫茶店で、
公表されていた脅迫電話の声に「よく似た男を知っている」という情報を聞きつけ、
男がよく顔を出すという飲み屋に張り込んで音声を録音することに成功したのです。
このときの録音は後に行われた鑑定で、犯人の特定に大きく貢献しました。
本書を読んであらためて痛感したのは、グリコ・森永事件は、
子どもを犯行に協力させた許しがたい事件であるとともに、
お菓子を標的に子どもを人質にとった卑劣な事件でもあったということです。
この事件をきっかけにお菓子の箱がフィルム包装されるようになったのを
覚えている人もいることでしょう。
「ひょうご犬警」といった人をおちょくったような文言を散りばめた挑戦状が
犯行の凶悪性を薄めていたかのように錯覚しがちですが、
実際にやっていることは極悪だということをあらためて思い知らされました。
(もっとも挑戦状で世間を笑いに誘う裏側で、企業には凶悪さをむき出しにした
脅迫状を送りつけていました。この使い分けも犯人の狡猾さを物語っています)
「子どもを犯罪に巻き込めば、その分、社会から希望が奪われる。
『ギン萬事件』の罪とは、ある一家の子どもの人生を粉々にしたことだ」(P386)
事件に関わった子どもたちのその後の人生を知るとき、
この著者の言葉は読む者の胸に深く沁みます。
まるで調査報道の現場を目にするかのような興奮を味わいつつ、
事件に翻弄された子どもたちのその後の人生に魂を震わせる。
ノンフィクションとミステリーのこの幸福な邂逅を、おおいに喜ぼうではありませんか。
投稿者 yomehon : 00:00
2016年12月20日
第156回直木賞候補作が発表されました!
本日、第156回直木賞の候補作が発表されました。
ラインナップは以下の通り。
恩田陸 『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎)
垣根涼介 『室町無頼』(新潮社)
須賀しのぶ 『また、桜の国で』(祥伝社)
森見登美彦 『夜行』(小学館)
今回はひさびさに面白いですね。素晴らしい作品が並んでいます。
選考会は来年の1月19日(木)に開かれます。
あらためて当欄で受賞作の予想をいたしますのでお楽しみに。
(たぶんあれとあれの一騎打ち……)
そうそう、今回は芥川賞も面白いですよ。
社会学者の岸政彦さんのエントリーには驚きました。
生活史と呼ばれる分野のエキスパートで、
『断片的なものの社会学』といった素晴らしい本をお書きになっていらっしゃいます。
あと宮内悠介さんが芥川賞でエントリーされたのも意外でした。
すでにSFでは世界水準の作品を書かれている方です。
直木賞と芥川賞、
どちらもひさしぶりにワクワクさせられる候補作となりました。
投稿者 yomehon : 14:21
2016年12月05日
『この世界の片隅に』 戦時下の日常を描いた傑作
もうご覧になった方も多いと思いますが、
映画『この世界の片隅に』が大ブレイクしていますね。
ぼくが観たのは公開から6日目のテアトル新宿でしたが、
その時点でも既に客席は完売御礼状態で、立ち見客も入れていました。
それにしてもこの作品を取り巻く熱気は凄い。
もちろん当初は上映館が少なくなかなか観ることができなかったせいもあるでしょうが、
やはりこれは作品の持つ力と言うべきでしょう。
「あの作品は今年いちばんの傑作」という情報がSNSでどんどん拡散して、
劇場に人が押し寄せた結果だと思います。
ご存じない方のために簡単に説明しておくと、
『この世界の片隅に』は、
こうの史代さんの同名漫画『この世界の片隅に』(双葉社刊・全3巻)。を原作にしたアニメ作品です。
こうのさんは広島市出身の漫画家で、
原爆投下以後の庶民の人生を3世代にわたって描いた傑作
『夕凪の街 桜の国』で高い評価を受けました。
いまわかりやすく漫画家と書きましたが、
個人的にはこうのさんのことを絵師と呼びたい気もします。
特に東日本大震災を受けて描かれた『日の鳥』シリーズなどは
こうのさんの絵師としての実力を存分に感じ取れる作品で、
スクリーントーンを使わず、描線の一本一本を
カリコリとペンで描き込んでいるところなんてまさに絵師という言葉がぴったりです。
さて、映画のほうに話を戻すと、
物語は「8年12月」からはじまります。
もちろん時代は昭和。舞台は広島です。
ちなみに原作では9年1月から物語が始まるのですが、
おそらく監督はあの時代の歳末の風景が描きたかったんでしょうね。
「もろびとこぞりて」が流れ、サンタクロースに扮した売り子がいて。
そんな昭和モダニズムの平和な町の光景から物語は幕を開けます。
主人公は、浦野すず。
兄と妹に挟まれ、絵を描くのが得意な、のんびりやの女の子です。
時代は、すずの成長を追いながら飛び飛びで進んでいくのですが、
(「8年12月」の次は「10年8月」というように)
もちろんぼくたちはこの数字がやがてどこに行き着くかを知っています。
破滅への予感を孕みながら、ひとりの女の子のみずみずしい日常が描かれていく。
「日常」――。
これこそが、この作品を読み解く上でのもっとも重要なキーワードです。
戦争が悲惨なものであることは論を俟ちませんが、
意外とぼくたちの認識から抜け落ちているのが、
戦時下にも庶民の日常生活があった、ということです。
たとえば斎藤美奈子さんの『戦下のレシピ』
などが教えてくれるように、、
戦時中にも婦人雑誌がちゃんと刊行されており、
そこには配給食などを利用したレシピが掲載されていました。
戦後しばらくのあいだは、軍国主義への反発もあって、
当時の日本を糾弾するかのような作品が数多くつくられましたが、
戦時下にあっても、庶民の生活は暗くて悲惨なだけではなかったということが、
この映画ではとても丁寧に描かれているのです。
もちろんだからといって
この映画があの時代を肯定しているわけではありません。
むしろ強い反戦のメッセージが読み取れます。
あの時代にも人びとの日常はあった。
でも戦争は、そんな日常の中にいつの間にか忍び込んでくる。
気がついたときには、
人びとの日常はかつてのようなものではなくなってしまっている。
映画ではそのプロセスが淡々としたトーンで描かれていきます。
けっして声高ではないけれど、
そこからははっきりと反戦のメッセージが読み取れる。
絶対的な正義の立場からあの時代を告発調で描いた作品などよりも、
よほどこちらのほうが製作者の誠実なスタンスを感じます。
物語に話を戻しましょう。
昭和19年にすずは18歳で呉に嫁ぎます。
嫁ぎ先でのちょっとした失敗や笑いが丁寧に描かれることによって、
ますます日常と戦争とのコントラストがくっきりと浮かび上がります。
呉は軍港ですから、連日激しい空襲に見舞われます。
この作品を監督した片渕須直さんは、
宮崎駿さんのもと『魔女の宅急便』で演出補を務めるなどして、
『マイマイ新子と千年の魔法』で注目された監督ですが、
空襲のシーンなどを観ていて思い出したのが、
彼がシリーズ構成と脚本、監督を手がけたアニメ『BLACK LAGOON』です。
『BLACK LAGOON』は、
商社マンから海賊の仲間になった日本人が主人公で、
毎度毎度の激しい銃撃戦がウリの海洋バイオレンスものでした。
この娯楽に徹した作品の中で存分に披露されているように、
銃器や兵器について抜群の知識を持つ監督だけあって、
『この世界の片隅に』でも米軍による攻撃の細部がとてもリアルに描かれます。
(たとえば砲弾の破片が畑に次々と刺さるシーンのシズル感を見よ)
作中、すずの身の上に起きる極めて重要な出来事なので
あまり詳しくは明かせないのですが、
ぼくが感心したのは、不発弾の描き方です。
あるところで不発弾が爆発するのですが、
原作での描かれ方よりも、より爆破理論に沿った描き方に変更されていて
さすがだと思いました。
こうした片渕監督の細部への目配りが、
作品を研ぎ澄ましたものにしていることも見逃してはなりません。
戦況が悪化するにつれて、すずの日常も戦争に侵食されていきます。
それにつれて、スクリーンを観るぼくたちの切なさも強まって行く。
彼らをどんなに過酷な運命が待ち受けているかをぼくらは知っているからです。
そしてあの日――。
昭和20年の8月6日がやってくるのです。
この日の描き方は、
映画と原作とで違いますので、ぜひ観比べてみてください。
爆風によって死んでしまった母親にすがりつく女の子が出てきます。
この涙なしでは観ることの出来ない一連のシーンを、
ぜひ原作と映画とで観比べて欲しい。
どちらが優れているというのではなく、
映画と漫画、どちらの描き方にも胸を揺さぶられるはずです。
最後に原作者のこうの史代さんが好きな言葉を紹介しておきましょう。
こうのさんは、
「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」
というジッドの言葉が好きなのだそうです。
あの戦争は多くの貴い命を奪い、人びとを深く傷つけたけれど、
あの時代には一方で、孤児をひきとって育てたり、
女手ひとつで必死に家族を養うような
「真の栄誉をかくし持つ人たち」がたくさんいました。
彼らの犠牲と努力があったからこそ、
いまぼくたちは平和に暮らすことができているわけですが、
そのことに思い至るとき、ぼくはふと不安に駆られるのです。
「ぼくたちの日常は確かなものだろうか。
気がつかないうちに、何か不穏なものが忍び寄っていないだろうか」と。
この作品は、
特定のイデオロギーに拠ることなく、
庶民の目の高さで、真っ直ぐにあの戦争を見つめた傑作です。
この作品のまなざしからぼくらが学べることはとても多い。
映画も原作も、ぜひたくさんの人に観てもらえることを願ってやみません。
投稿者 yomehon : 03:00