2015年07月21日
あなたを挑発する物語 『オールド・テロリスト』
小説家が物語を生み出すパワーはいったいどこから来るのでしょうか。
まずごく単純に、それは年齢的な若さからだと考えることができるでしょう。
一世を風靡した作家が、ある時からまったく作品を発表しなくなったと思ったら、
しばらくして訃報を耳にしたなんてことがたまにありますけど、
年をとって体力がなくなるにつれて書けなくなる人がいることを思えば、
若さがパワーの源泉だという考えもうなずけます。
あるいは、金銭的な成功が執筆の動機になっているケース。
名前は伏せますが、
ある男性作家の書いた小説がベストセラーになり、
(みなさんもよくご存じの小説です)
海外で映画化もされて大ヒットし、
作家の懐には15億のキャッシュが転がり込んできたそうです。
やがてこの作家は、ホテル暮らしをするようになり、
クルーザーだったかヨットだったかを購入して海の冒険に繰り出し、
父性の大切さみたいな説教くさい教育論を説くようになりました。
小説はめったに書かなくなり、時々思いついたように発表する作品は、
まるで別人が書いたもののようにつまらなくなりました。
この作家と親しいある女性作家にこの話を聞いた時、
彼女が「お金持ちになってモチベーションを失ったみたい」と評していたのが
すごく印象に残っているのですが、
このように社会的成功への執念が執筆のパワーにつながっている人もいるようです。
村上龍さんもある時からあまり新作を発表しなくなりました。
はたして年齢的な衰えなのか、
あるいは経済やビジネスのほうに興味関心が傾いてしまったのか、
長年の読者としてはずいぶん気を揉んだものです。
村上さんは『限りなく透明に近いブルー』というアンチモラルなデビュー作で芥川賞を受賞しますが、
その後は強烈な社会変革のメッセージを盛り込んだ作品を手掛けるようになります。
盟友・坂本龍一氏とともに、各界の知識人と対話した『EV.Cafe 超進化論』という本があるのですが、
この中で村上さんが、ファシズムをテーマにした小説を書くために経済を猛烈に勉強していると
述べています。(後にその努力は『愛と幻想のファシズム』として結実)
意外だったのは、村上さんがこれ以降、すっかり経済にハマってしまったことで、
90年代にはJMMという経済・金融や政治問題についてのメールマガジンを発行するようになりました。
(このJMMはなかなか読み応えがあって、山崎元さんや北野一さん、真壁昭夫さんなど、
このメルマガから一般に知られるようになった専門家が多数いらっしゃいます)
国のかたちやあり方を構想するのに、
経済や金融の知識は不可欠です。
村上さんはこれらの知識をベースに、
「あり得たかもしれないもうひとつの日本」を物語を通して描くようになります。
まだ日本が降伏せずに戦争を続けているパラレルワールドを描いた『五分後の世界』。
戦争に魅了されていく引きこもり青年を描いた『共生虫』。
中学生がネットを武器に社会を変革する『希望の国のエクソダス』。
日本への北朝鮮の侵攻を描いた『半島を出よ』。
などなど、人々に覚醒を促すような作品を数多く書いてきました。
ところが、2010年のディストピア小説『歌うクジラ』を最後に、
メッセージ性の強い長編小説が発表されることはなくなってしまったのです。
いったい村上龍はどうしてしまったのだろう…・・・。
そんなことを考えていたところに届けられた新作が
『オールド・テロリスト』(文藝春秋)でした。
ひさしぶりの村上作品の舞台となるのは、
オリンピックを2年後に控えた2018年の日本。
渋谷のNHKや池上の商店街や新宿の映画館などで
立て続けに無差別テロが引き起こされます。
犯行後ただちに命を絶った実行犯は、
いずれも生きる希望を失った若者たち。
しかし主人公の中年フリーライターのもとには、
なぜか事前に犯行予告が届き、
テロの背後にいるのはどうやら複数の老人らしいということがわかります。
キーワードは「満州国」。
妻子に逃げられドン底の日々を送っていた主人公は、
老人たちの行方を追う過程で知り合った心を病んだ若い女性とともに、
テロの真相を突き止めるため行動を開始します。
その行く手に待ち受けていたのは、想像もしなかったような力を持つ連中でした――。
気がつけば物語に引き込まれ、あっという間に読み終えていました。
現代社会の病巣を実に正確に剔出した作品ではないでしょうか。
テロ集団の構成メンバーは70代から90代の老人たち。
彼らは何に怒っているのか。
また実行犯に仕立て上げられた若者たち。
彼らはなぜ生きる希望を失っているのか。
主人公の男性が、両者の中間に位置する50代であることにも注目しましょう。
彼は主人公とはいえヒーローらしさは微塵もなく、
常に目の前の事態に動揺し、嘔吐し、涙を流し、
去って行った妻子に未練を抱いている情けない中年男。
物語の主人公なのに実に無様で、無力な存在として描かれているのですが、
なぜこの主人公の造型が、これほどまでに読んでいてリアリティーがあるのか。
あるいは、日常生活で普通にコミュニケーションがとれないパートナーの女性。
なぜ彼女は病んでいるにもかかわらず、まともにみえるのか……。
無様で無力な者、あるいは病んでいる者は、
現代においてはむしろ正気を保とうとしている側なのかもしれない。
正常にみえるほうが、実は異常なのかもしれない……。
この価値観の転倒がこの作品の大きな魅力。
読めばあなたもきっと常識を揺さぶられるはずです。
またこれまでの村上作品の要素があちこちに見いだせるのも楽しい。
たとえば謎めいたパートナーの女性は
『コックサッカーブルース』を思い出させるし、
主人公の力になる異形の者たちは、
『フィジーの小人』を想起させます。
作中ではもっと直接的に過去作品に言及しているところもあるし、
こういう村上作品の集大成的なところはオールド・ファンにはたまりません。
(「村上作品」なんて書くと、最近では春樹だと思われちゃうか)
あとひさしぶりに読んで「いいなぁ」と思ったのが、
村上龍さん独特の言葉のセンスですね。
たとえば今回、登場人物の名前はカタカナ表記になっているのですが、
これは村上龍さんがやり始めて以降、いろんな書き手に真似されています。
あるいは、作中でテロに使用された武器を、
犯人たちが「赤身」とか「大トロ」などと称するのですが、
これもうまいなぁと思いました。
日常で使い慣れた単語が
不意にテロの現場で使われることで生まれる禍々しさというか。
昔、『五分後の世界』を読んだときに、
地下にもぐった日本軍が戦闘用に開発した向精神薬の名称を
「向現」と名付けていたのにもシビレましたが、
村上龍さんはこういう言葉の選び方のセンスが絶妙なのです。
老人たちが日本を「リセット」するためにテロを起こすという刺激的な物語。
もちろんテロは言語道断。絶対にあってはならないものですが、
「いまの社会を変えなければならない」「このままではヤバい」という気分が、
この社会で広く共有されているのは事実ではないでしょうか。
村上龍さんは、
テロという極端な選択肢を提示することで、
読者を挑発しているかのようです。
「君はどう考えるのだ」と。
還暦を超えてなお、
社会的な成功を手にしてもなお、
村上龍はこれだけの危険な物語を世に問うことの出来る作家なのですね。
そのパワーはどこから来るのでしょうか。
ともあれ、村上龍健在なり。
そのことが確認できただけでも満足です。
あ、最後に。
この小説が、読者の大半がいまや高齢者だという噂の
月刊『文藝春秋』に連載されていたという事実が、ぼくにはいちばん恐ろしかったです。
老人たちが起こすテロ。
読者はこの物語をどう読んだのでしょうか。
その感想がいちばん知りたい。
投稿者 yomehon : 2015年07月21日 21:27