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2015年07月14日
直木賞候補作を読む(6) 『ナイルパーチの女子会』
候補作のご紹介もいよいよオーラス。
柚木麻子さんの『ナイルパーチの女子会』 (文藝春秋) にまいりましょう。
実はこの作品、今回の候補作の中では、いちばんの難物でした。
すでに山本周五郎賞を受賞している作品であるにもかかわらず、です。
というのも、この作品が取り扱うテーマが、「女の友情」だったからなのですが…・・・。
えーい!あれこれ言う前に、まずはストーリーを紹介してしまうおう。
志村栄利子は国内最大手の総合商社に勤めるエリート。
一流大学を卒業し、隙のないファッションに身を包み、年収もとうに1千万を超えています。
仕事のかたわらのひそかな楽しみは、
自分と同い年の30歳の主婦が書いている『おひょうのダメ奥さん日記』なるブログを読むこと。
自分にはないセンスが気に入って読み続けているのですが、
ブログに登場するお店などから、どうやらご近所さんらしいというところも気になっています。
ある時、栄利子と「おひょう」こと丸尾翔子は偶然、近所のカフェで知り合うことに。
あらためて待ち合わせた深夜のファミレスでふたりは急速に親しくなり、
互いに女ともだちが出来たことを喜び合うのですが……。
ささいなすれ違いによって、栄利子の生来の性格が頭をもたげ、
翔子にストーカーまがいの接触を行うようになり、
両者の関係が歪なものへと変化していきます。
ただ、栄利子の攻撃がきっかけだったとはいえ、
翔子のほうもあることから夫婦関係に亀裂を生じさせてしまい、
両者はそれまでの生活から転落していくことになるのでした……。
女友達の関係が崩壊していくところなどは圧巻の迫力で、
怖がる読者の首根っこをむんずとつかんで離さないような異様なパワーを感じさせる作品です。
柚木麻子さんはこれまでにも女性同士の関係を軸にすえた作品を書いてきました。
でもこの『ナイルパーチの女子会』は、
互いの親との関係であるとか、職場の上司や派遣社員との関係であるとか、
より広範囲に視点を拡げて物語を紡いでいるところが、これまでの作品とは違います。
よりスケールが大きくなっていますし、これまでの路線の集大成と言っていいのかもしれません。
ただ……この作品の核にある「女の友情」というテーマ。
これがなんともわかりづらい。
たとえば、彼女たちは、女友達がいないということが強迫観念になっている。
セックスとか社会的な利害関係とは無縁のところでくつろげる相手が欲しいと思っていて、
互いに求め合うのですが、ささいなボタンの掛け違いからディスコミュニケーションが生じ、
やがてそれは相手への攻撃的な感情へと転化してしまう。
そのプロセスはもちろん頭では理解できるのですが、肚の底に落ちた感じがしない。
そもそもなぜ彼女たちは、
そんなにも周囲の人々との関係の網の目みたいなものにとらわれているのだろう?
わざわざその隙間を探し出して、そこに「女友達」という存在を当てはめようとしているけれど、
友達というのは、そんなに頭でっかちに考えないでも成り立つような関係なんじゃないだろうか。
ひらたくいえば、たまに会って楽しくおしゃべりして、
気が向けばセックスするような異性の友達だってありなんじゃないの?と思うわけですよ。
ぼくのことじゃないですよ。
あるいは、世代がまったく違うし、社会的な地位だってたぶん違うけれど、
そういう世間的な関係抜きに、友人として楽しくつきあえる関係だってあるわけです。
趣味のサークルとか、行きつけの飲食店の常連とかね。
そんなんじゃない。同性の、しかも同世代の友達が重要なんだ、ということなのでしょうか。
うーん、こんなこと言うとミもフタもないけど、そもそもそんなに女友達って、重要???
作中、栄利子が、
自分たちは男社会で競うように仕向けられている、
女の敵は女だと思い込まされているというような発言をするところがあります。
タイトルにあるナイルパーチというのは、
食用の「白身魚」として一般にも流通している淡水魚のこと。
淡白な味とは似ても似つかない獰猛な肉食魚で、
湖などに放たれると、生態系を破壊してしまうくらいに小魚などを食べ尽くす
要注意外来生物でもあります。
栄利子や翔子はもちろんのこと、
現代の社会に生きる女性はナイルパーチみたいなものなのだと作者は言いたいのでしょうか。
お互いを食らいあう獰猛な生き物なのだと。
でも本当にそうだろうか。
もちろんある一面では、女性が生き辛さを感じる社会であることは否定できません。
男社会が女性に生存競争を強いているという言説もまったくの的外れではないでしょう。
しかしそういう面はあるにせよ、
少なくともぼくが身近に知っている女性たちは、もっと柔軟だし、多様な人生を生きています。
男のほうがもっとくだらない社会性にとらわれている。
会社で出世した男性ほど退職してから面倒くさいじいさんになると聞きますがさもありなんです。
女性のほうがよっぽど生物多様性を生きているという印象がありますけどね。
この小説に出てくる女性同士が罵倒しあう場面などには、
読んでいてほんと呼吸が浅くなっていくような息苦しさを感じたものですが、
息苦しさの理由はたぶんそれだけじゃなくて、
社会の見方がスクエア過ぎるところにもあるように思うのです。
もっともラストで、栄利子と翔子は、それぞれの道をみつけて一歩を踏み出すので、
そういうナイルパーチがうようよいるような底なし沼にとどまるわけではありません。
ただ、その踏み出す一歩というのは、
30歳にしてようやく大人の階段を上るみたいなレベルのことだったりするのですが。
作中でも30歳ってところが強調されてるから、
一見それくらいの年齢の女性の生き辛さがテーマのような気もついしてしまうのだけれど、
「ちょっと待てよ?」と思ったのは、
この物語を、年齢に関係なく、
他人との距離感をうまくつかめない人の物語として読み直すとどうなんだろう?ということ。
ほら、時々、いるじゃないですか。
初対面なのにやけに距離感が近い人が。
昔、亡くなった森田芳光監督をゲストでお招きしたとき、
観客に怖いと思わせる演技のつけかたについてお話をうかがったことがあります。
それは「距離感だ」と森田監督は仰った。
「距離のチューニングがおかしい奴を人は怖いと思うのだ」と。
だから距離が近いのに大きな声で話させるとか、
俳優にそういう演技をさせると、観客は恐怖を感じるのだそうです。
なるほど!とものすごく納得したのをおぼえています。
この小説でも、エリートに見えていた栄利子のことを、
ある時点で「あ、こいつヤバイかも」と気がついたのも、
まさに翔子に対する距離感がおかしいと思えた瞬間だったし。
そういう「他者との距離感をうまく育めなかった人たちの成長物語」として読めば、
この作品は非常に腑に落ちるものとなるわけです。
ただ、そこに「女たちが置かれている過酷な現実」というような
社会性のフレーバーをまぶしたものだから、
かえって味の本質がわかりにくくなったんじゃないだろうか、と……。
かように思った次第であります!
生意気申し上げて申し訳ございません!
さて、第153回直木賞の候補作のご紹介はこれにて終了。
気がつけばいつの間にか目のものもらいも治ってしまった。
ずいぶん長い間、候補作と格闘していたのですね。
受賞作の最終予想は、7月16日(木)、選考会当日の「グッモニ」の中で行います。
いつものように外したら全候補作をプレゼントいたします。
お楽しみに!!
(でも今回は外しませんけどね)
投稿者 yomehon : 2015年07月14日 20:26