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2015年05月04日
解放老人
あれはたしか30歳の誕生日を迎える直前あたりだったと思います。
当時は30代を迎えるのがたまらなく憂鬱でした。
なにせ10代の頃は、Sid Vicious の『My Way』が個人的テーマ曲だったわたくし。
「Don`t Trust Over Thirty」の精神でイキがってたものですから(ウザいガキでさーせん!)、
かつて敵視していた大人の年齢に達してしまうという事実を受け入れられずにいたのです。
おそらく番組の飲み会で「オヤジになるのがヤダよー」みたいな話をしたのでしょうね。
先輩プロデューサー(たぶん当時は50代)から、こんなことを言われました。
「30代なんてまだガキの延長みたいなもんだから大丈夫。それよりも男の壁は40代だよ。
40になったとたん、ガクッとくるから。朝起きた時なんてテキメンなんだから・・・(以下自主規制)」
たしかに先輩の言った通り、その後迎えた30代は20代の延長みたいな感じで特に変化はなく、
朝方まで飲んではそのまま会社へ行くような放埓な生活を続けていても平気でした。
しかも、先輩が予言していた40歳になっても、これといって変化は感じなかったのです。
体力の衰えを感じることもなく、
自分がすでに中年と呼ばれる年齢になっているという自覚もまったくありませんでした。
そんなわけで、「なんだ、楽勝じゃん」などとたかをくくりかけた矢先・・・・・・きましたね、ついに。
45歳を迎えたこのタイミングでガクッときました。
え?なにがガクッときたかって?
それは・・・・・・男のコケンにかかわるので(?)ナイショ!!
考えてみれば、45歳なんてとっくに人生の折り返し地点を過ぎているわけです。
目の前にあるのは、なだらかな・・・いやもしかしたら急かもしれない下り坂。
ともかく、そんなことがきっかけで、このところ老いについてあれこれ考えるようになりました。
人はいかにして老いを自覚するのでしょうか。
作家の黒井千次さんは、
電車で小学校低学年と思しき男の子に座席を譲られたことにショックをおぼえます。
「こんな小さな子供の目に、自分が席を譲らねばならぬと思うほど年老いて映ったか」と驚きながら、
この心優しき作家は、勇気を振り絞って思いつめたような表情で席を譲ろうとする
小さな男の子の気持ちを汲んで、ありがとう、と席に座ったのでした。
この出来事を入口にして、古今東西の哲学や文学に「老いることの意味」を探った
『老いるということ』(講談社現代新書)は、
ますます高齢化が進むこれからの時代に、もっと広く読まれてほしい良書です。
(黒井さんの小説では、名作『群棲』をぜひお読みください!)
週刊朝日の名物記者・山本朋史さんは、
ある日、取材をダブルブッキングするというミスをおかしたことが老いに気がつくきっかけでした。
ベテラン記者にはあり得ないミスで、
さすがにおかしいと医療機関で診てもらったところ、軽い認知障害であると診断されたのです。
『ボケてたまるか! 62歳記者認知症早期治療実体験ルポ』(朝日新聞出版)は、
認知症への進行を食い止めるためのさまざまな治療を山本記者が実体験した一冊。
出来れば認知症になるのは避けたいもの。
実用的な情報も充実したこの本は、まさに一家に一冊、備えておきたい本といえるでしょう。
でも、いくら避けたくとも避けられないかもしれないというくらい、
認知症はもはや他人事ではありません。
認知症患者は、2025年には730万人に達するという予測すらあります。
もし、自分が認知症になってしまったら・・・・・・。
とてもじゃないですが、その先に明るい未来をイメージすることはできません。
そんな認知症の暗いイメージに、
思いもよらなかった角度から光を当てた一冊が、『解放老人』(講談社)です。
著者はノンフィクション作家の野村進さん。
徹底した取材で定評のある現代ノンフィクションの旗手のおひとりです。
野村さんが長期密着取材を行ったのは、
山形県南陽市にある佐藤病院という精神病院にある「重度認知症治療病棟」。
重い認知症のお年寄りたちが暮らす施設です。
「すんなぁ、すんなぁ、なにしてんだぁ!いいって、わがんねぇって、
おれはすんなぁって言ってんだぁ!ほらぁ!はえく、はえく、これ、なんだずぅー!」
本を開くと、冒頭から圧倒される描写に出くわします。
お風呂に入れられた女性が暴れているのです。
(ちなみに山形の置賜地方では年配の女性は自分のことを「おれ」と言うそう)
この女性は重い認知症で、自分では体を洗うことも湯船につかることもできないために
入浴介助が必要なのですが、70代後半とはいえ、暴れたときの力は大変なもので、
ケアワーカーや看護師がふたりがかり、三人がかりで入浴介助を行わなければならないのだとか。
そんな凄まじい現場の様子に圧倒され、
これからどれだけ壮絶な現場をみせられるのだろう・・・と、
どんよりした気分でページをめくっていると、
「あれれ??」
いつの間にかすっかり引き込まれてしまいました。
このルポルタージュを通じて、著者が描こうとしたこと。
それは、認知症を「救い」という観点から見つめ直すということです。
老いを意識するとき、人はすでに年老いた他者を見て、
「ああはなりたくない」とか、「あんなふうになったらおしまい」だと言いがちです。
けれども著者は、
「現実に『ああ』なってしまったり、『あんなふうに』変わったりした人々には、
外部から覗き見ただけではわからない、別の生の実感があるのではないか」と考えます。
そうして、お年寄りたちの人生に寄り添って、その行動を読み解こうとするのです。
たとえば、壁に貼ってあるものをなんでも引っ張ってこわしてしまったり、
イスをどんどんテーブルの上に積み上げてしまうお年寄り。
一見すると、不可解極まりない行動です。
けれども著者は、このお年寄りがかつて寿司職人だったことを知り、
一連の理解不能な行動は、寿司を握り、店を片づけるという、
長年体に染み込んだ仕事の記憶が表面化したものではないかと気付きます。
あるいは、部屋から廊下のはずれまでの往復を延々と繰り返すお年寄り。
その動きをつぶさに観察するうちに、著者は、
60歳まで長距離トラックを運転していたこのお年寄りは、
いまでもトラックを運転しているのではないかと思い至るのです。
一見、不可解だと思われた行動にも、その人の仕事の痕跡がみてとれる。
そのような視点で、認知症患者の行動を見つめ直すと、
理解不能に思えた行動の背景に、それぞれの人生があることがわかるのです。
この本に登場するお年寄りたちがとる行動には、
ときに私たちが目をそむけたくなるようなものもあります。
でも著者はそれを、認知症の進行とともに、
常識や煩雑な人間関係といった余分なものが削ぎ落とされた結果あらわになった
”地肌”のようなものではないかと言います。
それはまぎれもない、その人がもともと秘めていた個性の核心なのです。
そのうえで、著者はこう問いかけます。
「われらのいわば”成れの果て”が彼らではなく、
逆に、われらの本来あるべき姿こそ彼らではないか」
「人生を魂の長い旅とするなら、彼らはわれらが将来『ああはなりたくない』とか
『あんなふうになったらおしまい』と忌避する者たちでは決してなく、
実はその対極にいる旅の案内役、そう、まさしく人生の先達たちなのである」
もちろん、著者の見方には批判もあるでしょう。
特に現在進行形で、認知症のお身内の介護を大変な思いでなさっている方からすれば、
「そんなのはきれいごとだ」と叱られてしまうかもしれません。
「介護をしている身からすれば毎日が闘いなんだ」と。
おっしゃるとおりだと思います。
ただ一方で、こうも思うのです。
暗く、絶望的なイメージだけが独り歩きしている認知症を、
もう少し社会全体で、著者のような柔らかなまなざしで受け止めることができるようになれば、
もしかしたら、世の中の何かが大きく変わるかもしれない、と。
この本によれば、
認知症患者の多くが、がんなどを患った際に
その耐え難い痛みなどとは無縁だということが、
医療関係者のあいだでは知られているそうです。
痛みや死への恐怖すら忘れてしまうということなのでしょうか。
本書には、終末期治療の第一人者の
「認知症は、終末期における適応の一様態と見なすことも可能である」
という言葉も紹介されています。
とはいえ、もし自分が認知症になってしまったら、
家族はどうなるんだろうという不安は当然のことながらありますし、
なによりもぼくの人格そのものがどうなってしまうんだろうという恐ろしさはいまだに消えません。
ただ少なくとも、この『解放老人』(講談社)を読んで、
認知症のお年寄りに対する認識が変わったのはたしかです。
認知症患者に対する従来のモノトーンなイメージを刷新し、
老いをめぐる多様な議論のきっかけを提供してくれる一冊です。
投稿者 yomehon : 2015年05月04日 15:00