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2014年11月07日

世界が待ち望んだ新作! 『鹿の王』


国際アンデルセン賞といえば、
子どもの本の分野における世界最高の文学賞で、
その選考水準の高さから「小さなノーベル賞」ともいわれています。

この国際アンデルセン賞の2014年の受賞者が上橋菜穂子さん。

『守り人シリーズ』『獣の奏者』のような
優れたファンタジーを生み出してきたことで知られる上橋さんは、
アボリジニの研究を専門とする文化人類学者でもあります。

ある民族の生活様式が
どのような文化的な背景のもとに成り立っているかを探究する学問が専門だけあって、
上橋さんは世界を構築する能力に秀でています。

彼女が作品の中でつくりあげる架空の世界は、
どれも見事なまでに現実社会と地続きのリアリティを感じさせます。

もしファンタジーなんて荒唐無稽なおとぎ話に過ぎないと思っているならば、
ぜひ上橋さんの作品を読んでみてください。

作品の中で、現実には存在しない国や民族の姿を借りて語られているのは、
まぎれもない今を生きるぼくたちの物語であることに気がつくはずですから。

さて、『鹿の王』は、栄えある国際アンデルセン賞受賞後、初めて発表された最新作。


物語はふたりの主人公を中心に展開します。

ひとりは、強大な帝国に抗い、故郷を守るために戦士団を率いて闘ったものの、
奴隷の身となって岩塩鉱に囚われている戦士のヴァン。

ある日、突如岩塩鉱に乱入してきた野犬の群れに襲われ、
奴隷や兵士たちが一夜にして死んでしまうという事件が起きます。

噛まれたもののなぜか回復して生き残ったヴァンは、
死体が累々と重なる中、
同じように生き残った幼女ユナを発見し、ともに脱出します。


もうひとりの主人公ホッサルは、
帝国に仕える医術師の家系に生まれた若き天才医術師。
彼もまた犬たちがもたらしたおそろしい病を目の当たりにし、
その治療法を探していました。


野犬を媒介にした病が拡がることをおそれるホッサルは、
生還者であるヴァンの存在を知り、その行方を追い始めます。

ヴァンはなぜ生き残ったのか。
そしてただの野犬と思われた犬たちの正体は何か。

帝国と周辺国とのあいだに生じる拭い難い憎しみ。
生きとし生けるもののあいだに存在するいのちの仕組み。

愛する者を亡くした人はどう生きていけばいいのか。
人間と自然はどのように共存していけばいいのか――。


主人公たちが病の謎を追うプロセスで読者をぐいぐいと引っ張りながら、
作者はこのような深いテーマを壮大なスケールで語ってみせます。

こんな芸当ができるのは、世界広しといえども上橋さんくらいではないでしょうか。

もちろん読んで絶対に損をしない作品であることは間違いないのですが、
ぼくはそれ以上に、今だからこそこの作品は広く読まれるべきだと声を大にして言いたい。

エボラ出血熱が猛威をふるい、
感染症の問題がにわかにクローズアップされる中、
この作品の主たるモチーフになっているのが、まさに「免疫」の問題だからです。

免疫というのは実に不思議なシステムです。

ひとことで言えば、それは「自己」と「非自己」を区別するシステムということになるでしょう。


故・多田富雄さんの名著『免疫の意味論』(青土社)を開くと、
黒い羽根を持つ奇妙なひよこの写真が目に飛び込んできます。 

この黒い部分は実はウズラのもの。
受精後、3日から4日のニワトリとウズラの卵を使って、
発生途上の胚の神経管の一部を入れ替えてしまうと、
ニワトリとウズラという異なった種の動物組織が
ひとつの個体に共存する「キメラ」がつくられるのです。

ギリシア神話に出てくる
顔と体がライオンで、胴体からヤギの頭や蛇の尾も生えた怪物キメラがこの呼称の由来。
学生時代にこの写真を初めて目にした時のインパクトはいまでも覚えています。


ニワトリとウズラのキメラは、
当初は正常に成長するものの、
やがて全身がマヒ状態になって死んでしまいます。

ニワトリの免疫系が、ウズラ由来の神経細胞を「非自己」の異物と認識し、拒絶したためです。

ところが、神経管を移植する際に、
やがて免疫の中枢をになう臓器「胸腺」になる部分に細工を加えると、
拒絶反応は起こらないのです。

この事実が提起しているのは、
「自己」と「非自己」の線引きは、
いったい何によって決められているのかという大変重要な問題です。

上橋さんもこの不可思議な免疫系に心をとらわれたようで、
あとがきの中で、『破壊する創造者』フランク・ライアン 夏目大・訳(文藝春秋)という本との出会いが、
執筆のきっかけになったことを明かしています。


ウイルスは生物の敵ではなく、
むしろヒトと共生し、その進化を助けてきたのだという、
ウイルスに対する認識が一変させられるきわめて面白い内容が書かれた本なのですが、
このような進化生物学の最先端の理論ですらも、
作者はヴァンの体の変化を通してわかりやすく描いてみせるのです。

いま人類が直面しているウイルスの問題を、
ページをめくる手が止まらなくなるほどの物語に落とし込んでみせる作者の技に脱帽。

ワールドクラスの作家の手になる新作を、この機会にぜひあなたも堪能してください。

投稿者 yomehon : 2014年11月07日 13:21