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2014年07月13日

直木賞候補作を読む(4) 『私に似たひと』


続いては、貫井徳郎さんの『私に似た人』朝日新聞出版)です。


「小口テロ」と呼ばれる小規模なテロが頻発する社会を描いた作品。
「小口テロ」というのは、思想的あるいは組織的な背景があるわけではなく、
指導者がいるわけでもなく、ただひたすらに社会への不満を募らせた個人が暴発して起こすテロのこと。

車を暴走させて人ごみに突っ込んだり、交差点でいきなり刃物を振り回したりするような
「小口テロ」を起こす人々は、組織的に連帯しているわけではありませんが、
ただひとつだけ、自らを「レジスタント」と称しているという共通点があります。

なんだか近未来SFみたいじゃないかと思われた方もいるかもしれませんが、そうではありません。
「小口テロ」だけは作者がつくりだした設定ですが、舞台は現代の日本です。

作者はテロをめぐる多様な人間像を描くことで、
現代の日本が抱えるさまざまな不平等や閉塞感を浮き彫りにしようと試みています。


帯には「全く新しい小説のかたち」という言葉がありますが、
このように人物の視点を次々に変えるスタイルは、
著者がすでに日本推理作家協会賞を受賞した『乱反射』という作品で試みていますので、
特に目新しい仕掛けというわけではありません。


『乱反射』は、強風にあおられて倒れた街路樹の下敷きになって幼い子が亡くなるという
いたましい事件の真相を、新聞記者の父親が調べていくというストーリーでした。

そこから浮かび上がってくるのは、市役所の担当者であるとか、清掃員であるとか、
そういったいろいろな人がちょっとずつ小さなミスや身勝手な振る舞いなどを重ねていった結果、
不幸な死亡事故が起きてしまったという、いわゆるバタフライ・エフェクトのような真相。

ひとりひとりを法律では裁けないけれど、関わった全員がそれぞれ小さな罪を犯しているという
やりきれない現実を巧みに描いた作品でした。

個人的には、これまでの貫井徳郎さんの最高傑作はこの『乱反射』

さて、では今回の『私に似た人』朝日新聞出版)はどうでしょうか――。


まず今回、著者はかなり高いハードルを設定して執筆しているのではないかと感じました。


「二十年くらい前までは何もかもうまくいっていたはずなのに、日本はどこで道を間違えたのだろう」

作中に出てくる登場人物のつぶやきです。


たとえば本書には、心身ともに負担の大きい労働を強いられながら、
やむを得ず将来的に報われる見込みのない仕事に就いている人や、
ネットで匿名の誹謗中傷を行う者、
目の前で悲惨な事故が起きているにもかかわらず、
被害者を助けようとせずスマホで現場を撮影する輩などが出てきます。

ワーキング・プアや格差の問題、目に見えないところから行われる他者への攻撃、
あるいは自分以外の人間への共感力の欠如・・・・・・などなど、
どれも現実にこの社会で起きているひどい話です。


「いつの間に日本はこんな国になってしまったのか」
「こんな社会にしたのは誰か」
「私ちたちはどこで間違えてしまったのか」・・・・・・。


いまの日本社会に対して、誰もがそんな思いを抱いていることでしょう。
誰もが胸の内で燻らせているそのような思いに、
作者はこの小説でひとつのかたちを与えようと挑んでいる。
ハードルを高く設定しているというのはそういう意味です。

保育士の男性とテロで亡くなった元恋人。
捨て猫を愛する気弱な工場勤務の青年。
自動車暴走事故の現場に居合わせた平凡なOL。
息子の進学を心配する母親。
娘の不登校を気にかける警察官。
意識高い系の青年。
夫の行動に不審を抱く妻とその夫。
家族も仕事も失った男たち。
そしてテロ被害者の遺族。

ここに登場するすべての人物が、テロと何らかの関わりがあります。

そしてこの本を読み進めるうちに読者は、
これらの登場人物のいずれかに自分と似た人物――すなわち自分自身を見出すはずです。


結局、いまの日本をつくってきたのは、ぼくらひとりひとりなのだ。
ぼくたちひとりひとりに責任があるのだ――。

本書を読み終えてその事実に気がついた時、きっと暗澹たる気分に襲われることでしょう。

このように、決して読後感は良くありませんが、きわめて現代的な問題を扱った作品です。

ただ気になる点もあります。

たとえば、ある人物に復讐したいという、
ドス黒い感情に心が染まりかけていた登場人物が、
幼い子どものちょっとした一言を聞いて踏みとどまる場面があります。

ちょっとひっかかってしまったのは、子どもの一言。

「ムカついたからってたたいたりしたら、テロとおんなじなんだからね」

たしかに子どもの純粋無垢な心から出た美しい言葉かもしれません。

でもそれで、「赤い霧に包まれていた視界が、不意に開けたように感じ」る大人ってどうなのか。

それまでつのらせていた相手への恨みの感情は、
そんな一言で雲散霧消してしまうほど軽いものだったの?
なーんだ、と正直拍子抜けしてしまいました。

要するに、子どもの無邪気な一言で我に返るという流れが
図式的、説明的なところが残念なのですね。

ごく普通の人間が殺人のような犯罪に至るまでには、
複雑極まりない心情の変化があるはずで、
(たとえば最初はささいな嫉妬だったのが、いくつかの段階を経るうちに、
歪み、ねじ曲がって、殺意へと変貌していくような・・・・・・)
そのような時間をかけて醸成された殺意が、
子どもの一言であっけなく漂白されてしまうというのは・・・・・・うーんどうなんだろう。

しかも子どもの一言がフツー。
いや、もちろん幼児だからそんなに難しいことは言うわけがないのですが、
それにしても、主人公の目をハッと覚まさせるのであれば、
もうちょっと頭をぶん殴られるような会心の一言が欲しかったところです。

似たような箇所は他にもあります。

本書はある種の群像劇ですが、
「小口テロ」をネット上で扇動しているのは誰かという謎が本書を貫く軸としてあって、
ある登場人物が、テロの首謀者は自分だと告白する場面があります。

ここでその登場人物は、なぜ自分がテロを煽るようになったのかを語るのですが、
そのきっかけや理由、背景などが、きれいに説明され過ぎていて、
かえってリアリティから遠ざかってしまうという残念なことになっている。


いまの日本社会を覆う閉そく感が、
いったい何によってもたらされているのかと問われて、
明確に答えられる人はいないでしょう。

でもぼくはその「理由」や「背景」がわからないことこそが、
閉塞感をもたらしている原因なのではないかと思います。

かつて『新世紀エヴァンゲリオン』を初めて観た時に、
すぐれて現代的だなと感心したのは、
「使徒」と呼ばれる敵の正体がよくわからないところでした。

ネットで当たり前のように流通している匿名での誹謗中傷にも、
正体がみえない、暗闇から石を投げられているような嫌な感じがあります。 

テロリストの恐ろしさも同様です。
敵の正体がよくわからないからこそぼくらは不安をおぼえるのではないか。


この小説では本来、
そのような現代の「得体の知れない不安」そのものを描こうとしていたはずです。

にもかかわらず、上に挙げたようないくつかの箇所で、
わかりやすい因果関係を提示してしまったせいで、
せっかくの野心的試みが後退してしまっている感がある。

時代のリアリティに肉薄しようとしていたにもかかわらず、フッと引いてしまったような。

もしかしたら、あまりに大きなテーマと格闘したせいで、
作者が息切れしてしまったのでしょうか?


貫井徳郎さんはもういつ直木賞を受賞してもおかしくない作家です。

選考委員のみなさんは上に述べた点をどのように評価するでしょうか。


投稿者 yomehon : 2014年07月13日 02:37