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2014年07月07日
直木賞候補作を読む(1) 『ミッドナイト・バス』
さて、今回から第151回直木賞の候補作を順にみていきましょう。
トップバッターは伊吹有喜さんの『ミッドナイト・バス』 (文藝春秋)です。
ずばり!今回の候補作のなかで、いちばん泣けた作品がこれ。
バブル期に東京で就職した会社を辞めて、
郷里の新潟で長距離バスの運転手になった利一が主人公。
ある夜、彼の運転するバスに、16年前に別れた妻・美雪が乗り込んできます。
彼らにはふたりの子供がいるのですが、
妻は子供たちを捨てて家を出て行ったのでした。
再会を機に、ふたりの人生がゆっくりと交わっていくのですが、
お互いにいろいろな思いを抱えてこの16年間を過ごしてきたわけで、
そう簡単に焼けぼっくいに火がつくというような展開にはなりません。
利一には東京で小料理屋を営む志穂という恋人がいますし、
美雪にも再婚した夫とのあいだに小さな子供がいます。
ここにふたりの子供たちのエピソードもからんできます。
ある日突然、利一と同じように、東京で就職していた会社を辞め、
実家に戻ってきた長男・怜司。
新潟でルームシェアをしている友人たちとビジネスを起ち上げ、
ネットの世界で名前を知られていく長女の彩菜。
果たして、ばらばらになった家族は、ふたたび結びつくことができるのか――。
その再生までのプロセスが、ゆっくりと穏やかな筆致で描かれています。
ごくごく普通の人々の人生に対する
作者の柔らかな視線が印象的な、実にすばらしい小説だと思います。
まず登場人物がみんな不器用なんですね。
本当は大好きなのに、ひどい言葉を浴びせてみたり、
相手を思いやるからこそ身を引いてみたり。
でもそういう、不器用だからこそまわりを傷つけてしまう人々に対して、
作者は「そのままでいいんだよ」と言っているように思います。
この人生を肯定する感じというのは、
ちょっと木皿泉さんの世界にも近いかもしれません。
個人的に木皿さんが脚本を書いた『すいか』はゼロ年代最高のドラマだと思いますが、
あのドラマに込められていたメッセージも「そのままでよし!」という人生肯定でしたし。
細かいところで言うと、
この小説は小道具の使い方がうまいですね。
たとえば、長男・怜司の別れた母との思い出の中で出てくる「季節外れの手袋」。
なんで季節外れの手袋だったのかにはちゃんと理由があって、それがまた泣かせるんです。
あるいは「びわ茶」。
病床にある美雪の父が飲みたがっていて、
それを作ってくれるのが利一の恋人の志穂で・・・という。
このびわ茶をめぐって垣間見える、それぞれの人生の断片も実にいい。
この小説が選考会で評価を得られない可能性があるとすれば、
あまりにも小説的な盛り上がりに欠けるという点にあるかもしれません。
小説とは「ホラ話」であると乱暴に定義すると、その「ホラ話」感に乏しいとでもいいましょうか。
ただぼくは、そういう見方には異論を唱えたい。
この小説に描かれているような人生こそが、ぼくらのような読者の人生そのものですよ。
劇的な人生ばかりが小説のテーマではないはずです。
いや、違うな。
この小説で描かれている人生だって、じゅうぶんに劇的だ。
だってバラバラになった家族が、16年の時を経て再生するんですよ?
もちろん家族が再出発するなんて話は珍しくもなんともないのかもしれませんが、、
ぼくはこの不器用な登場人物たちが、ゆっくりと時間をかけて再び心を通わせていく様は、
じゅうぶんにドラマチックだし、奇跡的なことだと思います。
たとえそれが小さな奇跡に過ぎなかったとしても。
人が人を思いやるということ。誰かの幸せを願うということ。
そういう人間が持つ美質というものを、
こんなふうに正面切って描いてみせた作者の潔さ。
そこはやはり評価されてしかるべきなのではないかと思います。
タイトルも内容とマッチしてます。
読む前は、「なんか平凡なタイトルだなー」と思いましたが。
バスをこよなく愛する詩人・平田俊子さんが『スバらしきバス』(幻戯書房)という
スバらしきエッセイで存分にお書きになっていらっしゃいますけれど、
バスというのは不思議な乗り物で、
たまたま乗り合わせた人々が、目的地まであるひとときを共有する
運命共同体のようなところがあります。
この小説の登場人物たちも言ってみればみなバスの乗客です。
それぞれに生きる上での困難を抱えた乗客たちが、長い長い夜を超えて、朝へと向かっていく。
希望の光がさす夜明けへと向かってバスが走っていく――。
個人的にこの小説に不満を感じるところも挙げておくならば、
物語にちょい役で登場するバスの乗客たちのエピソードがやや未消化な点でしょうか。
(東京に息子を送り出した母親とか、年老いた夫婦とか、カフェの店主とか)
それと利一の恋人の志穂の描き方がやや薄いです。
無口で不器用な運転手の恋人が、小料理屋の女将という設定はどうなんだろう?
しかもこの女将は、よく気が利くけれど、終始控えめで、恋人に多くを求めない。
「側にいてくれるだけで幸せ・・・」みたいな。
まるで古い日本映画にでも出てきそうな女性。
「おらんわ!いまどきそんな女性」と正直、思ってしまう自分もいるんですよね。
この志穂という女性、物語の中で、とても重要な存在なんですが、
可哀そうにいちばんご都合主義的な使われ方をしている気がします。
家族が揉める道具として使われたり、
主人公が自分の至らなさに気がつく道具として使われたり。
いまあえて「道具」という言葉を使いましたが、
他の登場人物は丁寧に描かれているのに、
この志穂だけは、彼女自身を丁寧に描くというよりも、
物語に何らかの波乱や展開をもたらす際の、
便利アイテムとして使われているような感じがしてしまうのですね。
なんだかいつも貧乏くじをひかされているように見える志穂のことも、
もっとしっかりと書き込んで欲しかったと思いました。
投稿者 yomehon : 2014年07月07日 11:40