« 「ゴーストライター」は悪くない! | メイン | 夜と女、ネオンに引き寄せられた男たち »
2014年02月08日
「オリジナル」とはなにか
一連のゴーストライター騒動をみていて
「オリジナル」という概念について考えさせられました。
たとえば、オリジナル作品とはなんでしょうか。
定義してみよと言われたら、実はとっても難しい。
ある作家が生みの苦しみを経て生み出した作品のこと。
先行作品の模倣ではなく、
まったく新しくその人の中から生まれてきた作品のこと……。
でも実際に、そんなことがあり得るでしょうか?
まったく先行作品の影響を受けずに、
歴史上なかったような真に新しい作品を生みだすなんてことが、
本当にあり得るのでしょうか?
一連のゴーストライター騒動をみていて感じるのは、
どうも世間では、
「オリジナル作品はエラい!」
と思われているのではないかということ。
でも、実はこの考えは幻想に過ぎません。
そもそもオリジナルな作品などというものは存在しないのです。
かつてフランスにロラン・バルトという批評家がいました。
とてもスタイリッシュな文章を書く人で、
いや、というか、文章のスタイルそのものについて考え抜いた人で、
1950年代から70年代にかけて、世界に大きな知的インパクトを与えました。
バルトの仕事のなかでもっとも重要なのが、「作者の死」という概念です。
(名著『物語の構造分析』に収録されています)
作品に対して、それを生み出した神のような存在として位置づけられる
「作者」という存在に、バルトは疑問を投げかけます。
バルトの考えをごくごく簡単にまとめると、
作品というのは、さまざまな要素の上に成り立つものであり
作品がどんな要素から成り立っているかを読み解くのは読者であるということです。
ここで大切なこと視点がふたつ提示されています。
ひとつは、「オリジナル」な作品などないということ。
そしてもうひとつは、これまで受動的な存在だった読者にも、
創造的に作品に関われる可能性があるということ。
バルトは1980年に自動車事故で亡くなりましたが、
彼がその後の文化に与えた影響は計り知れないものがあります。
日本では高橋源一郎さんを嚆矢とする
ポストモダン小説(いろんな先行作品からの引用などをもとに書かれる小説)や、
コミケなどでお馴染みの先行作品をもとにした二次創作や、
音楽やアートにおけるサンプリングなど、みんな根っこにあるのは、
バルトの提示した「作者の死」というコンセプトです。
それに日本文化には、
そもそもオリジナルなんて考えはなかったのではないでしょうか。
生前の立川談志師匠に聞かされた話で、
もっとも心に残っているのが「型」の話でした。
「型を身につけた者だけが『型破り』な芸を演じることが出来る。
一方、型を身につけていない者の芸は『型無し』と言う」
この話は、いまは亡き中村勘三郎さんがよく口にされたことでも知られていますね。
どちらが先におっしゃったのかはわかりませんが、
仲が良かったおふたりのこと、
きっと酒席でそんなお話を肴に大いに盛り上がったのでしょう。
落語と歌舞伎、どちらの芸にも共通する真理なのでしょうね。
ともかく、作品というものは、
さまざまな先行作品の模倣の上に成り立つものだということです。
でも不思議なことに、
たとえ模倣の上に成り立っていたとしても、
そこから漏れ出してくる「その人らしさ」というものもあるのですね。
個性としか名付けようのない「その人らしさ」が。
ものをつくるということは、
先行作品に敬意を払いつつつ、
少しでもそこに自分らしさを付け加えようと足掻くプロセスなのかもしれません。
投稿者 yomehon : 2014年02月08日 10:00