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2014年01月13日
祝!第150回直木賞 直前予想その②
(前回からの続き)
さて、次は伊東潤さんの『王になろうとした男』です。
信長に仕えた男たちを主人公にした短編集ですが、
すべての作品を貫いているのは「権力」に対する視点。
もちろん権力の中心にいるのは信長です。
権力に背を向け戦場に散った男や(「果報者の槍」)、
権力に魅せられて人生を狂わせる男(「毒を食らわば」、「小才子」)、
あるいは大切な者を失った末にようやく野心への執着から自由になる者(「復讐鬼」)など、
信長をめぐるさまざまな人間模様が描かれます。
特に表題作の「王になろうとした男」が素晴らしい。
この作品は、黒人奴隷の身から信長に仕えることになった
彌介の視点を通して信長を描くという斬新な試みとなっています。
そもそもあの時代に黒人を小姓として雇うという信長の感性が凄い。
周囲が彌介に対して差別的な態度をとる中、信長はどうふるまったか。
また、当時の武士のメンタリティなどとは無縁のアフリカ人が、
信長と出会い、どのように変わっていったのか。
信長という男の底知れないスケールの大きさが見事に描かれていて、
読み応えのある一篇に仕上がっています。
この本を読んで、あらためてよくわかったのですが、
信長というのは徹底して成果主義の人だったのですね。
手段はどうあれ、結果を出しさえすれば良い。
結果を出した者は引き立て、そうではない者は切り捨てる……。
たとえば藤田達生さんの『信長革命』(角川選書)のような最近の研究を読むと、
信長というのはわが国では類を見ない卓抜した合理主義者だったようですね。
その上、池波正太郎さんが『男の系譜』(新潮文庫)で書いていますけれども、
信長は部下にひどいあだ名をつけるのが得意だったみたいで、
かなりサディスティックで嫌な奴だったんじゃないかと思います。
お情け頂戴が通じない合理主義者な上に、性格も嗜虐的……。
こんな上司の下にいる人間はいったいどれだけ辛いんだという話です。
作者の伊東潤さんは、作家専業になる前は経営コンサルトをおやりになっていました。
以前、番組ゲストでお目にかかった際も、ご自身の作品の強みについて
「コアコンピタンス」といったコンサル用語で説明なさっていたのが印象に残っています。
ちなみにコアコンピタンスの意味は、簡単に言うと「他社にない強み」。
伊東さんはぐいぐい読ませるストーリーテリングの力と、
読者をはっと驚かせるような歴史の解釈力を、
車の両輪にたとえながら解説してくださいました。
そんな元経営コンサルタントの伊東さんが描く織田家は、
さながら弱肉強食の成果主義が徹底された外資系企業のようです。
ただ、直木賞を逃した前回候補作『巨鯨の海』で描かれた、
人間と鯨が織りなす営みの雄大なスケールに魅せられた者からすれば、
本作はどうしてもこじんまりまとまった感が否めません。
いま本が手元にないので間違っていたらごめんなさいですが、
昨秋お亡くなりになった文芸評論家の秋山駿さんが
名著『信長』(新潮文庫・古書のみ)をお書きになった際のエピソードを
どこかで書いていらっしゃいました。
巨大な信長像と日々格闘して、とことんまで苦しみ抜いて本を書きあげた時、
枕元に信長の霊が立ったんだそうです。秋山さんはそれをご覧になって、
信長に認めてもらえたと安堵した、というようなことを書いていらしたと記憶しています。
同じ信長を書いているとはいえ、本書からは正直そこまでの鬼気迫る感じは感じられません。
勝手な思い込みかもしれませんが、
やはり直木賞には受賞すべきタイミングがあるのではないかと思います。
それでいえば、伊東さんの場合はやっぱり
前回の予想でも熱烈に推した『巨鯨の海』でとってほしかった。
信長ならば、プロセスなんてどうでもいい、結果がすべてだ、と言うのかもしれませんが……。
さて次は、初の候補となった千早茜さんの『あとかた』です。
「痕跡」を切り口に男女の関係を描いた6つの短編がおさめられています。
冒頭に置かれた婚約者がいる女性が謎の男と逢瀬を重ねる「ほむら」だけが独立していて、
あとは登場人物が重複した連作短編となっています。
ではその「痕跡」とは何でしょうか。
恋人からからだに刻み込まれた刻印、
忘れられない相手が心に遺していった引っ掻き傷……。
そういうからだやこころに他者が遺していった痕跡が、
その人の人生にどんなさざ波を立てるかと言うことを、
作者は丁寧に掬い取ろうとしています。
微妙なニュアンスを掬い取ろうとすれば、
より精密なセンサーを使わなければなりません。
この場合のセンサーというのは、文章のことを指します。
作者はより感覚的で、鋭敏なセンサーで、
男女のあわいに漂う微細な粒子をつかまえようとする。
たとえば、まだよく知らない男とバーのカウンターに座っている時、
主人公がカーディガンを羽織ろうとしたはずみに肘がグラスに当たってしまう。
男はとっさに倒れかけたグラスをつかむ。
ただそれだけのシーンなのに、作者はまるでコマ送りにして、
ひとつひとつのコマをルーペで確かめるように描いていく。
たとえばこんな具合に。
「おっと」と、男が身を乗り出してグラスを掴んだ。
アルコールであたたまった肌の匂いが押し寄せて、
身体が触れた。私より熱い身体だった。あ、と思った。
「濡れませんでしたか」
落ち着いた声だった。子どもがいるのだろうな、と思った。
親になると人との距離を容易くつめられるようになる気がする。
私はどうしても人に近付く時、かたくなる。
かたさは静電気のように素早く伝わって相手もかたくなる。
けれど、男はゆったりとしたままだった。
細かな泡を含んだ液体がグラスの中で揺れていた。たゆたう水面で店の照明が白く瞬いた。
少し酔ったのかもしれない。グラスを見つめながら私は小さく礼を言った。(「ほむら」より)
一瞬の行動の中に、これだけの要素を読み込む。
男がどんな男か、女がどんな女かが読者にしっかりと伝わる。
うまいと思いませんか?
本書は先に第20回島清恋愛文学賞を受賞していますがそれも納得です。
ただ、男女のあいだにある、容易く言葉にできない微妙なものを掬い取るこの手の感性は、
特に作者の専売特許というわけではなくて、
少女マンガの世界なんかでは当たり前のようにみられるものだということは指摘しておきましょう。
たまたま最近読み返していたから例に挙げるのですが、
『ホットロード』紡木たく(集英社)なんて、
主人公のモノローグの占める割合がびっくりするくらい多いですしね。
少女マンガの世界でどうしてこのように感性が洗練されていったのかは、
たしか宮台真司さんらが『サブカルチャー神話解体』(ちくま文庫)で書いていました。
少女マンガというメディアは、女の子たちにとって、
社会における人間関係や男女間でのふるまい方などを学ぶための
学習用のツールとして機能してきた、というような趣旨だったと思います。
この小説もそういった伝統の延長線上にあります。
あとはこの短編集から感じられる死の気配にも触れておかなければなりません。
セックスを死と結びつけたのはフロイトですけれど、
この短編集におさめられたほとんどの作品からは死のイメージが感じられます。
そんなところはいかにも直木賞選考委員の渡辺淳一さんあたりが好みそうな気がするんだよなぁ。
(まだまだ続きます!)
投稿者 yomehon : 2014年01月13日 20:23