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2013年10月27日
Life, It's A Shame!
他人の家を訪ねた時に、
玄関やリビングなどあちこちに
家族写真などが飾られていたりすると、
ものすごく居心地の悪さを感じてしまいます。
職場でもそう。
個人的な思い出写真なんかをデスクに飾っている同僚がいたりすると、
見てはいけないような気がして、必要以上に目をそむけてしまいます。
写真を撮られるのも昔から嫌い。
だからアルバムに写真はほとんどありません。
なぜこんなにも写真が苦手なのでしょうか。
おそらくそれは、自分にとって過去というものが、
恥ずかしさにまみれたものだからだと思うのです。
なぜあの時、あんなふうに振る舞ってしまったんだろう?
なぜあの時、あんなひどいことをしてしまったのだろう?
なぜあの時、羞恥心をかなぐりすててしまったのだろう?
なぜあの時、悪魔のささやきに屈してしまったのだろう?
振り返ってみれば、これまでの人生は謝りたいことだらけ。
不義理であったり、空気を読めない調子に乗った言動であったり、
なぜそんなふうに振る舞ってしまったのか、
自分ではにわかに説明のつけ難い行動であったりします。
時々ふいに過去にしでかしたことを思い出す瞬間があって
(なぜか風呂で頭を洗っている時が多いのですが)
そんな時は恥ずかしさに耐えきれなくなって
「わーっ」と意味もなく叫び声をあげてしまうことだってあります。
なんなんでしょうね、こういうのって。
物心ついた頃からこの年まで、
同じようなことを繰り返しているような気がする。
他人からみれば、どうでもいいような些細な事柄を、
いつまでもクヨクヨと気にしてしまう。
しかし気にしているくせに、
そのことは絶対に他人から悟られたくない。
だから外見は涼しい顔を装っている。
でも内心は、クヨクヨしている——。
日本語にはこういう面倒くさい心理状態をひと言で表す便利な言葉があります。
そう、「自意識過剰」ですね。
渋谷直角さんのとても長いタイトルのマンガ、
『カフェでかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』(扶桑社)では、
そんな厄介な自意識を抱えてしまった人物がこれでもか!とばかりに描かれます。
表題作は、歌手デビューを目指す女の子が主人公。
有名になるためだったら手段は選ばないという彼女は、
少しでもメジャーデビューに近づくためであれば、
作曲家や音楽プロデューサー(いずれも自称)とだって寝てしまいます。
その結果、彼女が手に入れることができたのは、
インディーズレーベルから出ているボサノヴァのオムニバスアルバムで歌うこと。
インディーズレーベルといっても、
実態は一般に広く流通することのない自主制作だし、
アルバムといっても、用途はカフェの店内BGM用だし、
歌ったといっても、某アーティストのカバー曲だし……という哀しさ。
この他にも、お笑い評論家をきどっているけれど、
自分自身は全然面白くない芸人志望のお笑いマニアや、
ブログに空の写真と某アーティストの歌詞ばかりアップしている
ポエマーきどりのモラトリアム青年などが出てきます。
自意識過剰なくせに何も生み出すことができない、イタすぎる登場人物ばかり。
でも、そんな彼らのことを嘲笑いながら読んでいるうちに、
胸の奥のどこかがチクチクするのは何故なんだろう???
たぶんそれは、彼らの中に僕自身の姿を見ているからかもしれません。
先ほどの表題作の主人公は、
CDデビューでようやく成功への足がかりをつかんだと喜んだのもつかの間、
あることで挫折してしまうのですが、その時にこんなふうに悔しがります。
ボサノヴァのカバーをきっかけに、
「ユニクロのCM曲をやって、中田ヤスタカにプロデュースしてもらって、
アパレルブランドを立ち上げて、モデルも兼ねたアーティスト活動して、
TVブロスとかマーキーで連載コラム書いたり」するのにダメになってしまったと。
これを見て何かに気がつきませんか?
ここにあげられている成功のイメージの数々は、
どれもすでに誰かがやってしまっていることです。
それをなぞっているだけに過ぎないということに、
哀しいかな彼女は気がついていないんですね。
ひと言で切り捨ててしまえば、陳腐きわまりない女ということになるでしょう。
でもそんなふうに切り捨ててみた途端に、ぼくはふと我に返るのです。
彼女の夢を自分は笑えるのだろうかとー—。
僕にも夢があります。
こんなふうに成功したいとか。
あるいは人生の後半はこんなふうに送りたいとか。
でも果たしてそれは、
自分の外側にすでにある誰かの物語を
なぞったものではないと胸を張って言い切れるでしょうか。
夢の陳腐さで思い出すのが、
交際していた男性3人を練炭で殺害した罪に問われている木嶋佳苗被告です。
木嶋被告の半生を裁判や故郷での取材などをもとに詳細に描いた
『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』北原みのり(講談社文庫)を
読んだ時に驚いたのは、彼女がブログで誇らしげに披露している
「セレブ生活」とやらが、おそろしく陳腐なことでした。
それは、都心のラグジュアリーホテルで、
朝グラスシャンパンを飲んでいる写真だったりします。
これを遅れてきたバブルみたいで赤面もののセンスだと笑うことはたやすい。
(事実、その通りだとは思いますが)
けれど、木嶋佳苗被告が手に入れたいと願っている成功のイメージは、
『カフェでよくかかっている〜』に出てくる登場人物たちのそれと大差ありません。
彼らに共通する陳腐さをもっと掘り下げて考えてみると、あることに気がつきます。
彼らの夢というのは、
とことん消費者(受け手あるいはユーザーと言ってもいいです)の立場から
思い描かれたものに過ぎないのですね。
「ユニクロのCM曲をやって、中田ヤスタカにプロデュースしてもらって、
アパレルブランドを立ち上げて、モデルも兼ねたアーティスト活動して、
TVブロスとかマーキーで連載コラム書いたり」というのは、
テレビやら雑誌やらに消費者として接する中で
「あんなふうになりたいなぁ」と抱いたあこがれに過ぎません。
おそらく似たようなあこがれを抱いている人間は、
全国に数十万人、いや数百万人単位でいるんじゃないでしょうか。
『カフェでよくかかっている〜』を読んだ時にチクリと胸の痛みを感じたのは、
僕自身がそうした大衆のひとりに過ぎないという現実を突きつけられたからでしょう。
でも、たとえ自分自身がどこにでもいるような大衆のひとりに過ぎなくても、
そこから新しく歩みをはじめることだって出来るはずです。
『カフェでよくかかっている〜』の巻末におさめられている作品は、
インディーマガジンを仲間たちを創刊しようとする若者が、
つきあっている女の子を胡散臭い似非クリエイターにとられたり、
あたためていたアイデアをプロの編集者にパクられたりして挫折するという内容。
ところがそんなふうに、
さんざん世間の狡さや社会の厳しさに直面した後、
主人公の若者はいっさいのクリエイター気取りをやめ、
かけだしのライターというポジションから再スタートするのです。
ここには、夢は外から与えられるものではなく、
自分の足で歩みを進める中から見出し、
時には転んで痛い思いをしたりもしながらつかみとるものだという
作者のメッセージが込められているように思います。
そんなふうに歩みを進めている人は、
きっと恥ずかしいとか、他者の視線を過剰に意識するようなこととは無縁でしょう。
自意識というのは結局、
自己の中で過剰に意識されてしまう他者の視線なのかもしれません。
このマンガの最後の最後で、
作者は「他人なんて気にするな。もっと自信を持って自分の足で歩くんだ」と
励ましてくれているように感じます。
ところで、巻末におさめられた作品の
主人公が底辺から再スタートをきる場面で、
宮沢賢治の詩が引用されていて、これが実に素晴らしいんですね。
ぼくはここへきて思わずうるっと来てしまいました。
引用されている詩は、宮沢賢治が農学校の教員時代に書いていたもの。
一生懸命働きながら夢の実現に向かって努力しているような人の背中を押してくれる詩です。
せっかくなので、最後にその詩の一部をここに引いておきましょう。
引用は、『新編宮沢賢治詩集』天沢退二郎編(新潮文庫)から。
「春と修羅 第二集」の「三八四 告別」の一部になります。
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はいるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものではない
ひとさへひとにとゞまらぬ
(略)
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけているやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
(略)
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい
投稿者 yomehon : 2013年10月27日 02:08