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2012年11月12日
歴史と格闘した男 『光圀伝』
過日『売れる作家の全技術』(角川書店)がいま大評判の
大沢在昌さんをゲストでお招きしてお話をうかがっていたら、
ひさしぶりに我が家にある『新宿鮫』シリーズを読み返したくなりました。
面白すぎてあっという間に全巻を通読してあらためて感じたのは、
シリーズものの成否は、第二作目の出来如何にかかっているということです。
『新宿鮫』は警察小説の分野に新たな地平を切り拓いた記念碑的作品でした。
警察組織を揺るがす爆弾を抱えているため、キャリアでありながら
一匹狼の刑事として生きるしかない主人公、という魅力的なキャラ設定と、
新宿という妖しい輝きを帯びた街の舞台設定が奇跡的に融合したこの小説は、
いま読み返してみても、まったく古さを感じさせない傑作小説です。
だからこそ二作目は大変です。
映画でもそうですが、続編というのは作り方がとても難しい。
ストーリーの面白さやテーマの深さ、スケールの大きさなど、
ことごとく前作を上回ることが求められるからです。
でも『新宿鮫』シリーズでは、その心配は杞憂に終わりました。
二作目の『毒猿』は、台湾からやって来た凄腕の殺し屋が、
裏切り者の台湾マフィアや暴力団を次々と血祭りにあげていくストーリーで、
全編に漲る緊迫感といい、ラストの新宿御苑での派手な戦いっぷりといい、
ただでさえ面白かった前作をここまでパワーアップできるのかと、
多くのミステリーファンが度肝を抜かれたこれまた傑作だったのです。
ところで、大沢さんが二作目を書くにあたって意識したのが、
映画の『エイリアン』だったという話はあまり知られていないのではないでしょうか。
洋画の名物宣伝マンとして知られる古澤利夫さんは、その面白すぎる回想録
『明日に向かって撃て!ハリウッドが認めた!ぼくは日本一の洋画宣伝マン』の中で、
『エイリアン2』を「偉大なる続編映画」として紹介しています。
なるほど『エイリアン』が宇宙船という閉鎖空間を舞台にしたサスペンス・ホラーなら、
『エイリアン2』は人間とエイリアンが派手な死闘を繰り広げるSF超大作でした。
「続編に秀作なし」が常識とされる映画業界の中で、
『エイリアン2』は前作以上の成功をおさめ、その後のシリーズ化を決定づけたのです。
冲方丁さんの『光圀伝』(角川書店)は、
まさに『エイリアン2』を彷彿とさせるような大作です。
本屋大賞も受賞した前作『天地明察』で描かれたのは、
「改暦」をめぐるドラマでした。
我が国で初めて暦をつくった渋川春海の生涯を通じて、
時代が「武」の時代から「文」の時代へと転換していく様を見事に描き、
天下太平の世にあっても人は何かに命を賭けることができるのだという
熱いメッセージを読者に訴えかける傑作小説でした。
すでにお読みになった方には同意していただけると思いますが、
この『天地明察』の中でもっともインパクトのある登場人物が、
春海の庇護者として登場する徳川光圀です。
『光圀伝』はこの徳川光圀という傑物にスポットを当てた小説というわけです。
『天地明察』で主人公が相手にしたのは天体の運行でしたが、
『光圀伝』の場合はこの国の「歴史」がテーマになります。
『天地明察』と同じように、この作品にも
自分を超えた巨大な存在と格闘する者から発せられる圧倒的な熱量が漲っています。
いや、総熱量からいえば、『天地明察』は『光圀伝』に及ばないかもしれません。
それほどまでに光圀という人物は熱い男なのです。
「光圀が熱い」などと書くと、
「ちょっと待って、徳川光圀って水戸黄門様でしょ?」と
テレビでお馴染みの好々爺然とした水戸黄門像を思い浮かべて
意外に思う人がいるかもしれません。
でも残念ながら、あれはテレビによって作られた虚像です。
実際の光圀は、若かりし頃は悪場所に出入りしては喧嘩に明け暮れる不良で、
晩年にも長年仕えた重臣を自ら刺し殺すなど、気性の荒い人物だったようです。
もっといえば、お供の者を従えて全国を旅したというのもウソ。
あの設定のもととなっているのは、幕末から明治のはじめにつくられた
「水戸黄門漫遊記」という講談で、さらに言うなら、
「助さん・格さん」は途中で大阪の講釈師がアレンジして付け加えた登場人物なのです。
このあたりのことは『水戸黄門「漫遊」孝』(講談社学術文庫)という
大変面白い本がありますので、ぜひ読んでみてください。
これを読むと、高貴な人間が身分を隠して諸国を巡り、
悪代官を懲らしめるという物語は、実は古くから中国や朝鮮などで
広く庶民に親しまれた物語のパターンだということなどがよくわかります。
一般に流布されている黄門像に比べると、
『光圀伝』で描かれる徳川光圀像はほぼ史実に即して描かれていますが、
読みながら思ったのは、
光圀は生まれてくる時代を間違えたのではないかということです。
優れた武将の素質を持つ男が、間違って天下太平の世に生まれてしまった。
光圀はそんな不幸な男でした。
おそらく光圀が生きた江戸初期にはそういう人物がたくさんいたことでしょう。
でも光圀の凄いところは、そこで己の身の上を嘆くでもなく、
その有り余るエネルギーを「歴史とは何か」という巨大な問いにぶつけたことです。
光圀が全身全霊をかけて取り組んだ「大日本史」の編纂は、
光圀の死後も水戸藩の事業として続けられ、
なんと明治時代になってからようやくその完成をみます。
それほどまでに光圀の心をとらえた史書の編纂とは、
光圀にとってどんな意味を持っていたのでしょうか。
はたして光圀はそこから何を見出したのか。
作者は光圀にこんな文章を書かせています。
「史書は、命の記述であり、決して死者の名簿ではない。
(略)
どのような命も、生きてこの世にいたという事実は、永劫不滅である。
そのことを知り、今生の我らもやがてその不滅の刑に加わるのだという思いを
喚起させる。それがひいては未来の子々孫々の営みを想起させ、今生における
人倫の大義を、後世に伝える意義となるのである。
今生の世を、未来に献ぐ。
その理念あれな、いかなる死者も無に帰すことはなく、そしてまた、
いかなる者の死も、今生の者を脅かすことはないのである」
この小説を読んでいると、
光圀のまわりにいたいろいろな人々の死に様が
実に丁寧に描かれていることに気がつきます。
そこから逆説的に浮かびあがってくるのは、
それぞれの死に行く者が今生にあったときの生の営みです。
誰一人として意味の無い生を送る者などいない。
それぞれの小さな一生の連なりが命のリレーを成し、
やがてはそれが歴史の大河となるのだ——。
ぼくにはこの小説から、
そんな作者の声が聞こえてくるような気がします。
光圀は優れた人格者である兄の頼重をさしおいて、
父が自分を藩主に指名した事実に苦しみ、
生涯をかけて「義とは何か」について考えました。
そんな己の運命と、
時に血の涙を流しながら対峙し、格闘する光圀の姿も、
この小説を読んでいて心を鷲掴みにされるところです。
でも心に葛藤を抱え、
日々迷いながら生きているということでは、
ぼくらも光圀と何ら変わりありません。
『光圀伝』は、
そんな悩み苦しむぼくらの小さな毎日の積み重ねが、
たしかに歴史の一ページを成しているのだということを教えてくれます。
ぼくらがこの世に生をうけたことは決して意味のないことではないのだということを。
ライトノベルやSF小説(『マルドゥック・スクランブル』はこれまた傑作!)では
定評のあった冲方丁さんですが、
この『光圀伝』で、時代小説の書き手としての評価も決定的なものとなりました。
伝え聞くところによれば、次回は清少納言を描くのだとか。
『天地明察』や『光圀伝』とは時代が違うので、
厳密にはシリーズものとはいえませんが、ぼくは一連の作品を、
冲方丁さんによる新たな時代小説シリーズの誕生と呼びたい誘惑に駆られます。
武将ばかりが幅をきかせてきた時代小説の分野に、
新たな地平を切り拓きつつある若き俊英から、この先も目が離せません。
投稿者 yomehon : 2012年11月12日 15:06