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2012年10月29日
乱歩賞史上屈指の作品! 『カラマーゾフの妹』
江戸川乱歩賞の長い歴史の中では、
これまでいくつものエポックメイキングな作品が生まれてきました。
たとえば最近のもので言えば(といっても12年前ですが)
第46回の受賞作『脳男』がそれにあたるでしょう。
ミステリー作品というのは、
「事件の謎をいかに解明するか」
というのが基本的な約束事になっています。
事件が発生し、主人公がさっそうと現れて、
時に鮮やかな推理を働かせて事件のからくりを解き明かしてみせる。
あるいは事件の真相につながる細い糸を執念深く手繰ってやがて犯人に辿り着く。
個々の作品によってスタイルは違えど、
事件の謎を解き明かすことに主眼が置かれるという点ではどれも変わりません。
ところが『脳男』は、
事件よりも主人公そのものが謎という、
これまでにない切り口のユニークな作品でした。
なにしろこの小説の主人公、並外れた知識と常人離れした体力を持ちながら、
普通の人に備わっている「心」がなく、おまけに本名や生い立ちなどの経歴が
一切不明という他に類をみないキャラクターだったのです。
『脳男』を初めて読んだ時、
「こういうミステリーもありなんだ」と驚きをおぼえると同時に、
これまでいかに「ミステリーとはこうあらねばならない」
という固定観念に自分自身がとらわれていたかを痛感させられました。
第58回江戸川乱歩賞受賞作
『カラマーゾフの妹』高野史緒(講談社)に感じたのは、
まさに『脳男』を読んだ時のような新鮮な驚きでした。
この作品はなんと、かの名作『カラマーゾフの兄弟』の続編を書くという、
きわめて野心的な試みに挑戦した作品だったのです。
読んだことがない人のために簡単に説明すると、
『カラマーゾフの兄弟』は、
ロシアの文豪ドストエフスキーが1880年に出版した小説で、
『罪と罰』と並ぶドストエフスキーの最高傑作というだけでなく、
世界文学史の最高峰にもその名をとどめる傑作中の傑作です。
当然のことながらこの作品は多くの創作者にも影響を与えていて、
あの村上春樹さんも、これまでの人生で巡り合った最も重要な三冊として、
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』や
チャンドラーの『ロング・グッドバイ』と並んでこの小説の名を挙げているほどです。
さて、この大傑作『カラマーゾフの兄弟』について
まず押さえておきたい大切なポイントは、
この小説の骨組みは実は「ミステリー」であるということです。
物語はこうです。
女好きで強欲な地主フョードル・カラマーゾフがある日何者かに撲殺されます。
フョードルには、長男ドミートリー、次男イワン、三男アレクセイという3兄弟と、
スメルジャコフという私生児がいました。
カラマーゾフ家の当主を殺したのはいったい誰か。
『カラマーゾフの兄弟』は、信仰の問題だったり、
「父殺し」というフロイト的なテーマだったり、
変革期のロシアの政治や文化であったり、
実に多様なモチーフが詰め込まれた小説ですが、
物語をごくごく単純化すれば、この作品は
「フョードルを殺したのは誰か」
という謎をめぐって展開されるミステリー小説の一種だといえるでしょう。
そしてもうひとつ、押さえてきたいポイントがあります。
それは、この作品が「未完の小説」であるということ。
『カラマーゾフの兄弟』を開いていただくと、
冒頭に「著者より」と題された奇妙な序文がつけられていることに気がつきます。
ここで明かされているのは、次に「第二の小説」が予定されているらしいこと、
そしてその物語の舞台は13年後に設定されるらしいということです。
ところがドストエフスキーは、この作品を出版した直後に亡くなってしまいました。
いったいドストエフスキーはどんな続編を書こうとしていたのでしょうか。
(画期的な新訳で『カラマーゾフの兄弟』をベストセラーにした亀山郁夫さんも、
「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」という本でその謎に挑戦しています)
『カラマーゾフの妹』は、
まさにそのような想像を現実のものとした作品なのです。
物語はドストエフスキーの予言通り「カラマーゾフ事件」から13年後、
内務省のモスクワ支局で未解決事件の特別捜査官となった次男のイワンが、
ひさしぶりに故郷に帰ってきたところから始まります。
イワンの目的は、事件を再捜査して真相を確かめることでした。
『カラマーゾフの兄弟』では、作中の裁判で有罪となるのは長男のドミートリーで、
実行犯がスメルジャコフ、道義的な犯人がイワン、ということになっています。
(さっきミステリーと言ったくせに犯人を明かしていいのかと思った人も
いるかもしれませんが、これは文学史的には有名な話なのでいいのです)
イワンが再捜査に乗り出した表向きの理由は、
過去の事件の捜査に誤りがないかどうかを確かめるためでした。
でもイワンを再捜査に駆り立てていた本当の理由は、
イワンが催眠療法を受けた際に思い出した
「ある記憶」のことが頭から離れないせいでした……。
ネタばれになるので、これ以上詳しくはご紹介できませんが、
作者はオリジナルの『カラマーゾフの兄弟』の謎解きのプロセスに、
ある「見落とされていたポイント」を見つけ出し、事件を再構築してみせます。
そして作者によって再構築された13年前の事件は、
まったく違った絵となって我々の前に姿を現すのです。
おそらく作者はかなり頭の良い方なのでしょう。
このあたりのまとめ方は本当にセンスが良くて見事です。
それにしても、こんなふうに作者にまとめられてしまうと、
まるでオリジナルはミステリーとしてはあまり出来が良くないと
言われているみたいですね。
この作品で作者は『カラマーゾフの兄弟』の
続編を書くという大胆不敵な挑戦を試みたわけですが、
ミステリー作品としては作者の目論みは成功していると思います。
世界文学史の頂点に名を冠する作品に果敢に戦いを挑み、
見事に結果を残した『カラマーゾフの妹』は、
乱歩賞の歴史に大きくその名を刻んだと言っていいのではないでしょうか。
ミステリー小説の側面にばかり目が行きがちですが、
それ以外にもこの作品にはみるべきところがあることも忘れてはなりません。
この『カラマーゾフの妹』には、
『カラマーゾフの兄弟』が書かれた19世紀末という時代の空気が、
作者の遊び心とともに巧みに描かれているのです。
19世紀末というのはどんな時代だったのでしょうか。
ひと言で言えばそれは、「近代」が始まりを告げようとしている時代でした。
たとえば作中、実在の人物として名前が出てくるシャーロック・ホームズ。
探偵という職業は、都市の発展とともに生まれました。
言うまでもなく都市は近代の産物です。
産業が発達し、都市にたくさんの人が集まってくると、
そこには無数の匿名者の集団が生まれます。
自分の隣人がどういう人間かわからないという不安な状態は、
都市化とともに人類が初めて経験したもので、
探偵という職業はこうした人々の不安を背景に誕生したのです。
(さらに言えば推理小説というジャンルも同じような社会背景のもと生まれました)
それからジュール・ヴェルヌも出てきますね。
月世界や地中、海底への旅や冒険を描いたヴェルヌは
「SF小説の父」と言われていますが、この時代というのは、
産業の発展とともにサイエンスが人々に身近になりつつあった時代でもありました。
たとえば『カラマーゾフの妹』の作中には、
「バベッジの計算機械」なるものが出てきます。
最近出た『エネルギーの科学史』小山慶太(河出ブックス)という
面白い本があって、そこにも詳しく書かれていますが、
これは数学者のチャールズ・バベッジが、
まだエレクトロニクスもない19世紀に構想した
蒸気機関を動力源として動く巨大コンピュータのことで、
バベッジは試作した機械式計算機を
「差分機関(ディファレンス・エンジン)」と名付けました。
ちなみにSFの世界で、
「もし蒸気で動くコンピュータのネットワークが出来ていたら?」
という発想で『ディファレンス・エンジン』黒丸尚訳(ハヤカワ文庫)という
面白い歴史改変小説を書いたのが、W・ギブソンとB・スターリングでした。
(蒸気機関をネタにしたこの手の作品を特に「スチームパンク」と言います。
日本でも巨匠大友克洋さんのアニメ『スチームボーイ』なんかがそうですね)
もうひとつ、近代の幕開けということで言えば、
『カラマーゾフの妹』には催眠療法や、
今で言う人格障害の話などが出てくることも見逃せません。
もし近代を特徴づけた書物を一冊だけあげよと言われれば、
ぼくは迷わずフロイトの『夢判断』をあげます。
近代という時代は、人々が「無意識」を発見した時代でもありました。
ちょうどドストエフスキーが生きていた頃は、
催眠術を利用した神経症の治療などがさかんに行われていて、
人々は少しずつではありますが、日常の意識にのぼる世界とは別に、
どうやらまだ誰も知らない意識下の領域があるらしいことに気づき始めていました。
(精神分析学の登場はミステリー小説の発展にも大きな影響を与えています)
ここであげた都市、科学、心理学のいずれもが、
その後の20世紀に欠かせないキーワードであることは
おわかりいただけるでしょう。
19世紀末はまさに私たちが暮らす現代社会が
胎動をはじめた時代でもあったのです。
世界文学史に屹立する傑作の続編を書くという
野心的な試みを成功させただけでなく、
ドストエフスキーが生きた時代を活写してみせたその手腕には脱帽!
『カラマーゾフの妹』は間違いなく江戸川乱歩賞の歴史に残る傑作です。
投稿者 yomehon : 2012年10月29日 22:22