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2012年06月25日
『落語を聴かなくても人生は生きられる』が素晴らしい!
これまで生きてきたなかで、自分と同世代の人間で、初めて会った時に
「ああ、この人はやがて世に出てくるな」と感じた人物がふたりいます。
そのひとりが放送作家の松本尚久さんです。
松本さんはぼくよりひとつ年下ですが、
落語や能、文楽や歌舞伎などの古典芸能についておそろしいくらい知識を持っていて、
随分いろんなことを教えてもらいました。
ここでいう知識とは、本を読みさえすれば身につけることができる、
いわゆる辞書的な知識(情報)だけでなく、数多くの高座や舞台を実際に体験しないと
身につかない知識(見識や鑑識眼といったもの)も含みます。
古典芸能に関するぼくの乏しい読書体験でいえば、
落語評論の江國滋とか安藤鶴夫とか、歌舞伎だと戸板康二とか、
そういった人々の後に続く人間に間違いなくなるだろうという確信を、
彼に対して抱いていました。
松本さんと一緒に担当した番組で忘れられないのが『立川談志 最後のラジオ』です。
この業界には「あの番組はオレがつくった」とか、
「あのタレントはオレが育てた」みたいなアピールをする人がよくいますが、
(先日ある代理店のお偉いさんと飲んでいたら、
「広告業界でもよくいるよ。そういうのを『あれオレ詐欺』って言うんだ」
とあまりにうまいこと言うので笑ってしまいました)
『立川談志 最後のラジオ』に関していえば、ディレクターは誰でもよかった。
あの番組は紛れもなく立川談志さんと松本尚久さんとでつくりあげた番組です。
こちらは毎回、談志師匠が指定する古い音源を、
普段誰も足を踏み入れないようなレコード室の奥にまで分け入って探し出すので精一杯で、
正直言って、ディレクターらしい貢献はいっさい出来ませんでした。
いまほど著名ではなかった福田和也さんをゲストでお招きすることになった時などは、
松本さんから「ぜひ芸談をしてもらいましょう」という提案があったにもかかわらず、
ぼくは当時出た福田さんの新刊『総理の値打ち』にこだわって、
政治家の器について対談するということにしていまい、後に福田さんのエッセイで、
芸の話がしたかったのにディレクターの指示で政治家の話をするはめになった、というようなことを
書かれてしまったことがあります。(『晴れ時々戦争いつも読書とシネマ』いまは古書のみ入手可)
福田さんが中心になって創刊された文芸誌『en-taxi』で、
談志師匠を囲んで行われた芸談などを読んで、
福田さんが芸の世界にも通じていらっしゃることを知るのはずっと後のことでした。
松本尚久さんはといえば、
この『 en-taxi』誌上で芸談やインタビューの構成などをしていたと思ったら、
2007年の夏号からは「芸と噺と—落語の血脈」と題する連載が始まりました。
一読して驚きました。
もともと書ける人だとは思っていたけれど、これほどまでとは思わなかった。
そこには予想をはるかに超える素晴らしい批評の言葉があったのです。
その成果は『芸と噺と—落語を考えるヒント』(扶桑社)にまとめられているので、
ぜひ手に取ってみてください。
また「落語はそんなに聴いたことがないけれど興味はある」という人は、
『落語の聴き方 楽しみ方』(ちくまプリマー新書)がおすすめです。
さて、新進気鋭の批評家としてデビューした松本さんがこのほど手がけたのが、
落語にまつわる文章で編まれたアンソロジー『落語を聴かなくても人生は生きられる』(ちくま文庫)。
これが実に、実に素晴らしいアンソロジーなのです!
落語に関連した文章を集めたといっても、
ここには落語評論家や噺家自身の文章はひとつもありません。
むしろ落語をちょっと離れたところからみているような人の文章が集められている。
まずそこが素晴らしい。
文書の並びも考え抜かれています。
冒頭に置かれているのは、
小林信彦さんが古今亭志ん朝の死に際して『週刊文春』誌上に発表したエッセイ、
「志ん朝さんの死、江戸落語の終焉」です。
志ん朝さんの死は、〈名人の時代〉が終わったことを意味していました。
〈名人の時代〉とは何でしょうか。
それは、芸人と彼を取り巻く社会とが幸福な調和を保つことができていた時代のこと。
人々のあいだに等しく価値観が共有されているような安定した社会では、
名人はただひたすら芸に磨きをかけておけばよかった。
9・11テロからひと月もたたないうちに志ん朝さんが亡くなったのは偶然ではないような気がします。
松本さんは、〈名人の時代〉の終焉後に編まれるべきアンソロジーとは
どういうものであるべきか、という明確な問題意識をもって文章を配置していきます。
それだけではありません。
「いったいどこからそんなものを?」というような、
ひねりの利いた文章を引っ張って来るそのセンスもお見事。
たとえばダンディズムの詩人・田村隆一が、立川流一門会のパンフレットに寄せた小文。
まるで酒場の片隅でチラシの裏かなんかにさらりと書いたかのような文章で、
確認したわけではないけれど、こんなものは田村隆一全集などには載っていないのではないか。
それに、明治の上流階級の生活を克明に記録した穂積歌子の日記を松本さんみずから紹介した後、
ブロブやmixi、Twitterに書かれた個人の文章を並べてみせる構成の洒落ていること。
さらに特筆すべきは、各章の冒頭におかれた松本さんの文章の素晴らしさ。
まず彼の文章を読んで感じるのは、「耳」の良さです。
ぼくは常々思っているのですが、耳の良さと文章のうまさには関係があります。
中村紘子さん、団伊玖磨さん、芥川也寸志さんなどの音楽家に名文家が多いのは偶然ではありません。
先頃お亡くなりになった吉田秀和さんなどもそうですね。(ちなみに吉田秀和さんには、ご自身の文章を
精選した『言葉のフーガ 自由に、精緻に』という美しいアンソロジーがあります。興味のある方はぜひ)
話は脱線しますが、この耳と文章力の関係に迫ったのは、ぼくの知る限りでは
丸山あかねさんが書いた『耳と文章力』(講談社)という本だけだと思います。
それはともかく、松本さんの文章を音読してみるとよくわかるのですが、
彼の文章はしゃべりのリズムで書かれているんですね。
息をつくところにちゃんと句読点が打たれているとても読みやすい文章で、
一見さりげないようでいて、流れるように読ませるこういう文章はなかなか書けません。
もちろんそういった技術だけでなく、
批評家としての姿勢にも素晴らしいものがあります。
特に第2章の冒頭に置かれた、
フェアな批評的態度とは何かについて書かれた文章は、見事のひとことに尽きます。
「ある物事について何かを記すとき、真に〈フェア〉な態度をとるということは、いかなることか?
ぼくはこう考える。
語り手がみずからの背景を明確に意識し——ということは、条件としての背景を客観視したうえで——
何かを考え、ものを言うことだ、と」
「山の手に生まれ、洋行を経験した荷風の目にうつった浅草と、
本所に育った芥川龍之介が大川の対岸に望む浅草が同じ〈浅草〉であるはずがない。
それは同じ土地であって同じ土地ではない。彼らの背景が、同じ対象をちがったものとして捉える。
ひとはみずからのレンズでしか、対象を捉えることが出来ない。その可能性と限界(とあえて言う)を
意識し、引き受け、レンズを曇り無く磨いたうえで語り始められる言葉だけがまことの公正さを保ちうる」
『立川談志 最後のラジオ』では、
ディレクターらしい仕事はなにひとつ出来なかったけれど、
毎回の収録は実に楽しく、刺激に満ちたものでした。
TVカメラの前では時に露悪的なふるまいをみせることもあった談志師匠でしたが、
古い映画や音楽のことで教えを乞うと丁寧に教えてくれる良き啓蒙者としての顔も持っていましたし、
雑談のなかで師匠がいった言葉でいまでも心に残っている言葉がいくつもあります。
雑談と言えば、談志師匠は収録にくると、スタジオには入らず、
まずロビーでひとしきり話をするのが常でした。
それも挨拶などいっさいなしに、いきなり本題から入るのです。
ぼくはいつも面食らっていましたが、批評家・松本尚久は、
そういうふるまいの奥に談志師匠の自意識の繊細さをみていました。
そんな不世出の落語家・立川談志の在りし日の姿は、
本書におさめられた松本さんの「ある落語家——立川談志」という美しい文章で読むことができます。
投稿者 yomehon : 2012年06月25日 23:55