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2012年01月29日
夢は外からやってくる
ちょうど一年ほど前になるでしょうか。
長年にわたる不摂生がたたって、
どこからみても正真正銘、正々堂々のメタボになってしまい、
健康診断ではひっかかるわ、ヨメからは罵倒されるわで、
さすがにほとほと嫌気がさしたので、ついに病院の門をたたくことを決意しました。
いわゆる「肥満外来」というやつで、
血液検査やら体力測定やら、ありとあらゆる角度から身体を調べられて
医師と栄養士による厳しい生活指導を受けながら減量に取り組むところなのですが、
その診察の過程で思いもよらない病気が発見されたのです。
「睡眠時無呼吸症候群」という言葉をお聞きになったことはないでしょうか。
読んで字のごとく眠っている間に呼吸が止まる病気で、
以前からヨメに異様なイビキをかくと指摘されてはいたものの、
まさかそんな病気だなんて思っていませんでした。
ところがお医者さんによると、睡眠時無呼吸症候群というのは、
放置しておくと突然死の要因にもなるおそろしい病気なのだそうです。
さらに驚いたのは、日中、本人も気がつかないうちに実は眠っているのだというお話。
ちょうどその頃、よくめまいがして、
なにか悪い病気なんじゃないかと心配していたのですが、
お医者さんに言わせると、それは瞬間的に眠っているのだそうです。
要は「落ちて」いるわけですね。
ぼくの場合、病気になった原因は当然のごとく「肥満」でした。
どうやら首まわりにたっぷりついた肉で気道が塞がれるらしいのです。
でも、ここで誤解のないように急いで付け加えておきますが、
睡眠時無呼吸症候群は必ずしも肥満の人だけがなる病気ではありません。
生まれつきの骨格の形状が原因でなる人もいて、
そういう方たちは一生治療が続くので大変です。
居眠りというのはしばしば「緊張感が欠如している」とか
「たるんでる」とか、精神論で片付けられがちですが、
相手が深刻な病気にかかっていることだってあるわけですから、
そういう人が身近にいたら病院へ行くことをすすめてみてくださいね。
ともあれそんな事情で治療をすることになり、
就寝中に気道を開かせるための医療機器を毎晩装着することになったのですが、
初めてこのマシンを使用した翌朝の驚きをぼくは一生忘れないでしょう。
決して大げさに言うのではなく、
朝目覚めた時に世界がガラリと変わっていたのです。
この体験をどう説明すればいいでしょうか。
これまでどんよりと曇っていた空が、
碧落一洗、くっきりと晴れ上がったというか。
アナログ放送がデジタルになったというか。
それぐらいに世界の見え方が変わってしまって、
「覚醒」というのはこういうことを言うのかと衝撃をおぼえたのでした。
おかげさまでそれからは毎晩しっかり睡眠をとれるようになりましたが、
いま思うのは、眠れずに過ごしていた日々はなんだったんだろうということです。
あらためて振り返ってみると、あの頃は半分眠りながら半分起きているような、
まるで夢の中をさ迷っているようなそんな状態で生活していました。
夢か現(うつつ)か。
夢と現実の境目があいまいになるという話は昔からあります。
なかでも有名なのは、「胡蝶の夢」というお話でしょう。
蝶になって舞う夢をみていた男が、夢から目覚めてふと思います。
はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、
それとも今の自分が蝶がみている夢なのか……。
夢をみていた男は中国の思想家、荘子。
この説話自体は、夢や現実、生や死には境目がないのだということを教えるものですが、
たとえばこのように、もしいま自分がみているものが夢なのか、
あるいは現実なのかがわからなくなったとしたら、それはかなりおそろしい事態です。
(カフカの『変身』に書かれているのはそういう怖さでしょう)
恩田陸さんの『夢違(ゆめちがい)』(角川書店)は、
夢が現実に侵入してくるおそろしさを幻想的に描いた小説。
今回の直木賞でも候補作のひとつとしてエントリーされていて、
おそらく最後まで葉室麟さんと受賞を争ったのではないかと思える力作です。
夢を映像として観ることのできる技術が開発された、
現代からそう遠くない未来が舞台。
夢を記録して観ることは「夢札をひく」と呼ばれ、
日本では主に精神医学の分野でこの技術が活用されています。
主人公は夢札を分析する国家資格を持つ野田浩章。
彼はある日、十年以上も前に亡くなったはずの古藤結衣子を目撃します。
かつては兄の恋人で、浩章自身も思いを寄せていた彼女は、
実は日本でたったひとりの予知夢をみる能力を持った女性でした。
彼女は自ら被験者として夢札の技術開発に協力し、
やがて日本中が彼女の夢に注目するほどの有名人になりましたが、
ある日、大惨事に巻き込まれて亡くなったのです。
なぜ死んだはずの古藤結衣子が目の前に現れたのか。
それとも結衣子だと思ったのはまぼろしだったのか。
やがて浩章のもとに、全国各地の小学校で
子どもたちが集団で白昼夢をみたという報告が寄せられるようになります。
子どもたちの「夢札」を分析した浩章は、そこに「あるもの」を見いだします。
浩章らは専門家でチームを結成し調査に乗り出しますが、
彼らの周囲をゆっくりと霧が立ちこめるように不穏ななにかが取り囲んで行きます。
そしてその霧の向こう側には、なぜかいつも結衣子の影がみえるのでした……。
これまで数々の面白い小説を書いてきた恩田陸さん、
しかも2年ぶりの新作とあって、
わくわくして読み始めましたが、期待以上の面白さでした。
この小説の面白さのいちばんのポイントは、「夢のとらえかた」にあります。
現代社会における夢のとらえかたに大きな影響を与えたのはフロイトです。
ジークムント・フロイトが『夢判断』を世に問うたのが1900年。
ぼくはこの『夢判断』とダーウィンの『種の起源』が現代の扉を開いたと考えていますが、
ともかくこの『夢判断』のなかでフロイトが唱えた画期的なコンセプトは、
「夢は無意識がつくりだすものだ」ということでした。
夢は無意識がつくりだす。
つまり、意識下で抑圧されていた欲望や願望が、
かたちをかえて表に出てきたものが夢であるということです。
フロイトは要するに夢は自分の内側から生まれてくると言っているわけです。
別にフロイトの名前を持ち出さなくても、
ぼくたちにとってはお馴染みの考え方だといっていいでしょう。
ところが、この小説で恩田さんは、夢についてとてもユニークな解釈を試みます。
「夢は外からやってくる」というのです。
たとえばある登場人物は夢についてこんなことを語っています。
「よくアイデアが降ってくる、とか、霊感が訪れる、とか言うだろう。
昔から何かのインスピレーションや芸術的なイメージは、
必ず外からやってくるものとして表現されている。
みんな薄々気付いているんだ。個人個人の意識の外に、
人類全体が共有する巨大な無意識があって、そこからいろんなものがやってくるのさ」
夢は外からやってくる。
外から人々の脳に侵入する。
このコンセプトはフロイトのそれをひっくり返すもので、とても面白い。
しかも外からやってくる夢は、
人類が太古の昔から共有する無意識から生まれてくるものだとしたら、
そこにはどんなメッセージがこめられているのでしょうか。
もうこのアイデアを思いついた時点で、
この小説の成功は約束されたも同然。面白くならないわけがありません。
この小説のあちこちに、
夢について作者の知見が散りばめられているのですが、
ぼくが面白いなと思ったのは、
夢が外からやってくると考えられていた古代日本の話。
誰かの夢をみたとき、
古代の日本では、
「夢をみたのはその誰かが自分のことを思っているからだ」
と考えたそうです。
フロイト流の解釈ならば、
「誰かの夢をみたのは抑圧された性的な願望の顕われ」
ということになるでしょう。
みなさんはどちらの解釈がお好きですか?
ぼくは古代日本の解釈のほうがロマンがあってよっぽどいいと思いますけどね。
最後に、恩田陸さんはよく
先行する作品へのオマージュ(敬意)にもとづいた新作を発表することがあります。
(たとえば『チョコレートコスモス』が『ガラスの仮面』のオマージュであるように)
それでいうならば、この『夢違』は、
童話『眠れる森の美女』と筒井康隆さんの『パプリカ』へのリスペクトにもとづいて
書かれているような気がする。まぁ全然違うかもしれませんが。
ともかく、この小説は恩田陸さんの代表作でもあると思います。
現実と夢の境界がだんだん曖昧になって行き、やがて両者が混ざり合う。
まるで夢の迷路に迷いこんだかのような読書体験があなたを待っていますよ!
投稿者 yomehon : 2012年01月29日 23:52