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2012年01月02日
オオカミの護符
新しい年が明けました。
震災や原発事故のことがあるので、
今年は無邪気に新年を祝えない気分ではありますが、
みなさんの今年一年のご多幸をお祈り申し上げます。
本年も変わらぬお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。
さて、元日の朝にまずやることといえば、
コンビニで朝刊を全紙買い込み、
各紙に掲載されている出版社の広告をチェックすることです。
元旦の新聞に掲載される出版社の広告には、
その年に予定されている大型企画や
注目作家の新刊の告知などが載ることが多いためで、
毎年わくわくしながら記事よりも先にまず広告から目を通してしまうのです。
残念ながら今年は目立った出版企画は見られませんでしたが、
そんな中でドナルド・キーンさんのエッセイを載せた新潮社の広告が印象に残りました。
今年卒寿(90歳)を迎えるドナルド・キーンさんは、
長くコロンビア大学で日本文学を講じ、
昨年には日本国籍の取得を申請したほど日本文化に傾倒した方です。
キーンさんは、
かつて川端康成がノーベル文学書を受賞したときに、
多くの日本人が、川端作品は日本的すぎて、
西洋人には分からないのではないかと言ったといいます。
そこには、理解できないのに「お情け」で賞をくれたのではないか
という自虐的なニュアンスも含まれていて、
キーンさんはこういう日本人の物言いを例にあげながら、
70年にもわたって日本文化を研究しているが、
いまだに日本人は「日本的なもの」に対して自信がない、と指摘します。
そして、こう言うのです。
日本的だからいいのだと。日本的なものは勁(つよ)いのだと。
長年にわたって日本文化の素晴らしさを広めてくれた
ドナルド・キーンさんならではのエールには感謝しますが、
とはいえ、この「日本的なるもの」とはいったいなんなのでしょうか?
「わび」とか「さび」とかそういう美的境地のことなのか、
あるいは茶の湯や生け花、能・狂言といった日本独特の芸術のことなのか。
でも、山崎正和さんの『室町記』(講談社文芸文庫)などを読むと、
そういう日本文化の核をなすようなものはすべて室町時代に生まれたらしく、
じゃあ、鎌倉や平安、もっとさかのぼって記紀神話の時代はどうだったんだ、
いまの日本文化の底流とはつながっていないのか、という疑問が浮かんでしまいます。
「日本的なるもの」とはいったいなにか。
そういうことを考えるのにうってつけの本があります。
『オオカミの護符』小倉美惠子(新潮社)は、
そのような問いにある明確な答えを与えてくれる一冊。
今年最初にご紹介するのはまずこの本から始めることといたしましょう。
東京田園都市線の「たまプラーザ」の近くに、「土橋」という地名があります。
著者はこのあたりに古くからある農家に生まれ育ちました。
もとは農家が50戸ほどしかない貧しい寒村だったようですが、
いまでは7000世帯以上が暮らすお洒落な住宅街として有名なエリアになりました。
話は著者がふとしたきっかけで自らの足元を見つめ直すところから始まります。
子どもの頃、自分の家が農家であることにコンプレックスをもっていた著者が、
ある時ビデオカメラ片手に地元の伝統行事などを記録し始め、
やがて古い農家の蔵などに貼ってある黒い獣が書かれたお札について調べ始めます。
鋭い牙を持つ黒い獣の上に「武蔵國 大口真神 御嶽山」と書かれたそのお札は、
かつては家々の戸口や台所、蔵の扉や畑などいたるところに掲げられ、
人々は親しみをこめて「オイヌさま」と呼んでいました。
このお札がどこからやってきたかということはすぐに明らかになります。
それは、村の人々が「講」を組み、年に一度、種まきや田植えの始まる前に
御岳山にある武蔵御嶽神社にお参りをした際にもらってくるものでした。
面白いのはここからです。
「御嶽講」の成り立ちを調べ始めた著者は、
「オイヌさま」の影を追い求めるように
御岳山から秩父の山奥へと分け入って行き、
やがて関東平野を取り囲む山々を中心に広く信仰のあった
「オオカミ信仰」へと辿り着くのです。
このあたりの謎解きの旅は本当にスリリング。
なにしろ、古代から伝わる動物の骨を焼いて吉凶を占う
「太占(ふとまに)」という宗教儀式がいまだに行われいる神社があったり、
縄文にまでルーツを遡れるという「オオカミ信仰」がこの現代にも息づいているのです。
こういう事実をつぎつぎと目の前に示されて興奮するなというほうが無理でしょう。
そしてなによりも、新しい事実と出合うたびに、著者が感動し、
背筋をゾクゾクとさせ、魂を震わせる様子が素直に綴られていて、
このしなやかで、柔らかな著者の知性が、
本書を魅力的なものとする大きな要素となっているということも、
声を大にして言っておきたいところです。
この本に教えられたこと。
それは、
自然に対する深い畏敬の念や、
信仰とわかちがたく結びついた人々の暮らしが、
かつてはこの国のそこここで見られたのだということです。
この本に書かれている「オオカミ信仰」の話もそのひとつで、
そういう古くから連綿とつづく民の生活こそが
「日本的なもの」の根っこにあるものではないかと思うのです。
ただ、「オオカミ信仰」を支えてきた人々の暮らしが、
高齢化と後継者の不在、生活様式の変化などでいまや風前の灯だということも事実。
著者は、明治維新や第二次大戦を経てもなくならなかった農山村の庶民の暮らしが、
いまや根こそぎ風土と乖離し始めていると強い危機感を抱いています。
ぼくたちの暮らしが、
グローバリズムの影響をもろに受けることは避けられないでしょう。
けれども、たとえそうであったとしても、
自分がどのような土地に生まれ、
どのような文化の中で育まれてきたかということは、
決して忘れてはいけないのではないでしょうか。
「オイヌさま」に導かれた長い旅の終わり近くで
著者はこんなことを言っています。
「大切なのは、関東のオオカミ信仰の山々は、神話の世界に遡るほど、
その機嫌が古いということだろう。この東国に、かつてどのような人々が住み、
どのような暮らしがあったのか。ひとつだけ言えることは、どの時代の暮らしも、
現代の私たちの暮らしの礎になっているということだ。きっと、私たちの感覚の中にも、
とてつもなく古い暮らしの中で培われたものが眠っているに違いない」
ぼくたちの中に眠る「先祖の暮らしの記憶」。
それこそがドナルド・キーンさんをも魅了した「日本的なるもの」に他なりません。
川崎市宮前区土橋という
東急田園都市線で渋谷からわずか30分足らずのベッドタウンに、
はるかヤマトタケルの時代にまで通じる歴史が眠っていたという驚愕の事実。
まさにオオカミの遠吠えのように、
山の上にのぼって「この本はすごいぞ————」と雄叫びをあげたくなる一冊です。
最後に余談をひとつ。
九州出身のぼくは
かねてから飲み会などの最後にやる「手締め」ってなんだろうと思っていました。
九州にも博多手一本などの(博多一本締めとも言う)手締めはありますが、
南に行けば行くほど、むしろ締めたりせずにだらだら明け方まで飲み続けるのが普通で、
手締めをしていったん場をおさめるという文化は独特だなぁと思っていたのです。
本書で新たに知ったのは、
かつての山はいまからは想像できないくらい
人や物の交流がある文化の発信地だったということ。
各所で賭場も開かれたことから、
関東の山々は有名な侠客博徒を多く輩出することになったということです。
著者は関東の手締めは賭博とは全く関係ない、と断っていますが、
個人的には関東の手締め文化は粋な侠客博徒の世界とつながっているのではないかとも思います。
こんなふうに次々と連想を誘うのも本書の素晴らしい点のひとつなのです。
投稿者 yomehon : 2012年01月02日 16:39