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2012年01月31日
『舟を編む』
日々の生活の中で、このうえもない至福のひとときといえば、
ひとり本の部屋に入って、次は何を読もうかと本棚を眺めているときです。
本はたくさん持っているほうだとは思いますが、
実はそのすべてを読んでいるわけではありません。
人と同じで本との出合いも一期一会。
目にした時や気になった時に買わないと、
その後二度とめぐり合えないことがしばしばあります。
そんなわけで我が家の本棚には、
「これまで読んだ本」よりも「これから読む本」のほうが多く、
もしかするともう一生かかっても読み切れない量かもしれませんが、
それはいたしかたのないことなのです。
部屋は窓もふくめて四方を本棚で塞ぎ、
本棚と天井との隙間にも本を押し込んでいるため、
人によっては本に押しつぶされそうな恐怖を覚えるらしく、
ヨメなぞは他所でこの部屋のことを「拷問部屋」などと言っているようですが、
そう言いたければ言えばよろしい。
ぼくにとってこの部屋は言葉の宇宙へとつながる扉のようなもの。
何を言われようといっこうにかまいません。
たとえば家族が寝静まった深夜などに、
この部屋に寝転んでぼーっと本棚を見上げていたりすると、
なんともいえない不思議な感覚にとらわれることがあります。
ここにある無数の本の中に、
これまで人類が獲得してきた知識が
いったいどれくらい詰まっているのだろう?
そんなことを妄想し始めると、
一冊一冊の本におさめられた無数の言葉が小宇宙を形成しているような気がしてきて、
自分はその星雲のまっただなかを漂う宇宙のチリのような存在に思えてくるのです。
自分はなんと無知でちっぽけな存在なのか、
この部屋の本を読み終えるまでは退屈してる暇なんてないぞ、
これからおぬしは宇宙の秘密を解く大事業に挑まねばならんのだ!
そう思うと腹の底から力が漲ってきて、思わず武者震いを感じてしまうのです。
そういえば、深夜にひとりぶるぶると武者震いする夫のことを、
ヨメは他所で「キモチ悪い」などと言っているようですが、
そう言いたければ言えばよろしい。
男子には一生をかけて取り組まなければならない大事なことがあるのです。
どんなに陰口をたたかれようといっこうにかまいません。
ところで、一生をかけて取り組むに値する大事業といえば、
たとえば辞書づくりなどはその最たるものではないでしょうか。
三浦しをんさんの『舟を編む』(光文社)は、
新しい辞書の編纂に取り組む人々の奮闘を描いた傑作小説。
大手出版社・玄武書房の営業部に勤める馬締光也は、
ある日、辞書編集部への異動を命じられます。
営業では天然キャラの変人として持て余され気味だった馬締は、
実は大学院で言語学を専攻しており、辞書づくりの才能ありと見込まれたのでした。
日本語研究に一生を捧げてきた松本先生や、
彼の伴走者としてこれまた編集者人生を辞書づくりに捧げてきた荒木、
日本語よりも女の子に興味があるチャラ男の西岡といった個性的なメンバーとともに、
馬締は新しい辞書『大渡海』の編纂に挑みます。
しかし膨大な時間と金がかかるため辞書づくりは前途多難。
彼らの前には次々と難題が持ち上がります。
果たして『大渡海』は完成するのでしょうか——。
先日、『くちびるに歌を』をご紹介した際に、
本屋大賞の有力候補と申し上げましたが、
この『舟を編む』も負けじと有力です。
登場人物たちが辞書づくりにとことんまで情熱を注ぎ込む様子を見ているうちに、
いつの間にかこちらまでが胸を熱くしていることに気がつかされます。
読む者の胸を熱くする、とてもいい小説です。
でもなぜこれほどまでに彼らは辞書づくりに情熱を傾けられるのでしょうか。
最初それが疑問だったのですが、
読み進めるうちにだんだんわかってきました。
辞書という書物は、世の中で唯一、完成することのない本なのですね。
言葉は生き物で、時代とともに変化します。
新しい言葉が生まれ、古い言葉の中には死語になってしまうものもあります。
それらを十分に吟味し、取捨選択をして、新しい時代にふさわしい辞書を編むのが
辞書づくりを担当する編集者の使命といえるでしょう。
けれどもその辞書も出来た瞬間からもう古くなって行きます。
いまこの瞬間にも新しい言葉が生まれているからです。
この終わりなき戦いへのあくなき挑戦が、辞書づくりの醍醐味に違いありません。
それともうひとつ、ぼくらの生活に
辞書が欠くことの出来ないものであるということも、
彼らの責任感の源泉になっているような気がします。
先ほどぼくは本を小宇宙にたとえましたが、
三浦さんは辞書を舟にたとえます。
辞書は言葉の大海に漕ぎ出すための一隻の舟である、というのです。
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。
もっともふさわしい言葉で、正確に、思いを誰かに届けるために。
もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」
新しい辞書を『大渡海』と名付けた思いを、
定年間近の編集者の荒木が語る場面ですが、
「辞書は言葉の海を渡る舟である」という定義は、
すべての辞書にあてはまるのではないでしょうか。
人が言葉の大海に漕ぎ出そうという時に
欠くことの出来ない重要なアイテムであるがゆえに、
辞書づくりには思いもよらない細部への気配りが必要となります。
この小説の面白いところは、そのような一般には知られることのなかった
辞書づくりの苦労話が、随所に盛り込まれているところでしょう。
たとえば紙。
辞書はページ数が多いため、
いかに薄く、軽く、インクが裏写りがしない紙を使うかが重要なのだそうです。
それだけではありません。
ページをめくる際の微妙に指に吸いつく感じや、
かといって吸い付きすぎずにほどよく指離れのいい感じなど、
実に微妙なニュアンスを編集者は追求するようで、
そのために製紙会社はその辞書にあった特別な紙を新たに開発するのだとか。
(「抄紙機」なんてものを初めて知りました。「しょうしき」と読みます)
採録する言葉の選択も吟味が必要です。
辞書の小口(ページを開く部分)には
引きやすいように黒い印がついていますが、
これをみると、日本語は「あ」行から「さ」行までの分量が多いことが分かります。
逆に「や」行や「ら」行、「わ」行などは数が少なく(なぜ少ないかという理由も
ちゃんと書いてあります。そのあたりのことはぜひ本で確かめてください)、
バランスよく言葉がおさめられた辞書というのは、
全体の真ん中あたりにくる単語が『す』や『せ』ではじまるようになるのだとか。
(この日本語の特性を利用して、しりとりに勝つコツなんてのも本書に出てきます)
いやー、辞書って面白いなぁ。
新約聖書には「はじめに言葉があった」とあるけれど、
考えてみれば、人間は言葉を持つことで初めていろいろなものを生み出せたのですね。
「なにかを生み出すためには、言葉がいる。岸辺はふと、はるか昔に地球上を
覆っていたという、生命が誕生するまえの海を想像した。混沌とし、
ただ蠢くばかりだった濃厚な液体を。ひとのなかにも、同じような海がある。
そこに言葉という落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。愛も。心も。
言葉によって象られ、昏い海から浮かびあがってくる」
そう。
愛という概念も、心というコンセプトも、
すべては「言葉」によって名付けられることで初めてぼくたちの前に姿を現したのです。
読みはじめると止まらない面白いストーリーの裏側に、
このような言葉に対する深い思索が隠されている。
本当に素晴らしい小説だと思います。
さて、辞書と言葉に興味のある方は、
『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』
サイモン・ウィンチェスター 鈴木主税訳(ハヤカワノンフィクション文庫)
という本もオススメです。
41万語以上の収録語数を誇る英語圏最高の辞書『オックスフォード英語大辞典』。
この世界的に有名な辞書の編纂の中心人物が、
貧困の中、独学で数々の言語と教養を身につけたマレー博士です。
このマレー博士には、日々手紙で用例を送りつけてくる謎の協力者がいました。
ある日、協力者のもとを訪ねたマレー博士はその意外な正体を知ることになります。
さて、その協力者の正体とは——?
どうですか?
こちらも読みたくなったでしょう。
言っときますが、これ小説じゃなくてノンフィクションですからね。
『舟を編む』とあわせてぜひどうぞ。
投稿者 yomehon : 22:14
2012年01月29日
夢は外からやってくる
ちょうど一年ほど前になるでしょうか。
長年にわたる不摂生がたたって、
どこからみても正真正銘、正々堂々のメタボになってしまい、
健康診断ではひっかかるわ、ヨメからは罵倒されるわで、
さすがにほとほと嫌気がさしたので、ついに病院の門をたたくことを決意しました。
いわゆる「肥満外来」というやつで、
血液検査やら体力測定やら、ありとあらゆる角度から身体を調べられて
医師と栄養士による厳しい生活指導を受けながら減量に取り組むところなのですが、
その診察の過程で思いもよらない病気が発見されたのです。
「睡眠時無呼吸症候群」という言葉をお聞きになったことはないでしょうか。
読んで字のごとく眠っている間に呼吸が止まる病気で、
以前からヨメに異様なイビキをかくと指摘されてはいたものの、
まさかそんな病気だなんて思っていませんでした。
ところがお医者さんによると、睡眠時無呼吸症候群というのは、
放置しておくと突然死の要因にもなるおそろしい病気なのだそうです。
さらに驚いたのは、日中、本人も気がつかないうちに実は眠っているのだというお話。
ちょうどその頃、よくめまいがして、
なにか悪い病気なんじゃないかと心配していたのですが、
お医者さんに言わせると、それは瞬間的に眠っているのだそうです。
要は「落ちて」いるわけですね。
ぼくの場合、病気になった原因は当然のごとく「肥満」でした。
どうやら首まわりにたっぷりついた肉で気道が塞がれるらしいのです。
でも、ここで誤解のないように急いで付け加えておきますが、
睡眠時無呼吸症候群は必ずしも肥満の人だけがなる病気ではありません。
生まれつきの骨格の形状が原因でなる人もいて、
そういう方たちは一生治療が続くので大変です。
居眠りというのはしばしば「緊張感が欠如している」とか
「たるんでる」とか、精神論で片付けられがちですが、
相手が深刻な病気にかかっていることだってあるわけですから、
そういう人が身近にいたら病院へ行くことをすすめてみてくださいね。
ともあれそんな事情で治療をすることになり、
就寝中に気道を開かせるための医療機器を毎晩装着することになったのですが、
初めてこのマシンを使用した翌朝の驚きをぼくは一生忘れないでしょう。
決して大げさに言うのではなく、
朝目覚めた時に世界がガラリと変わっていたのです。
この体験をどう説明すればいいでしょうか。
これまでどんよりと曇っていた空が、
碧落一洗、くっきりと晴れ上がったというか。
アナログ放送がデジタルになったというか。
それぐらいに世界の見え方が変わってしまって、
「覚醒」というのはこういうことを言うのかと衝撃をおぼえたのでした。
おかげさまでそれからは毎晩しっかり睡眠をとれるようになりましたが、
いま思うのは、眠れずに過ごしていた日々はなんだったんだろうということです。
あらためて振り返ってみると、あの頃は半分眠りながら半分起きているような、
まるで夢の中をさ迷っているようなそんな状態で生活していました。
夢か現(うつつ)か。
夢と現実の境目があいまいになるという話は昔からあります。
なかでも有名なのは、「胡蝶の夢」というお話でしょう。
蝶になって舞う夢をみていた男が、夢から目覚めてふと思います。
はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、
それとも今の自分が蝶がみている夢なのか……。
夢をみていた男は中国の思想家、荘子。
この説話自体は、夢や現実、生や死には境目がないのだということを教えるものですが、
たとえばこのように、もしいま自分がみているものが夢なのか、
あるいは現実なのかがわからなくなったとしたら、それはかなりおそろしい事態です。
(カフカの『変身』に書かれているのはそういう怖さでしょう)
恩田陸さんの『夢違(ゆめちがい)』(角川書店)は、
夢が現実に侵入してくるおそろしさを幻想的に描いた小説。
今回の直木賞でも候補作のひとつとしてエントリーされていて、
おそらく最後まで葉室麟さんと受賞を争ったのではないかと思える力作です。
夢を映像として観ることのできる技術が開発された、
現代からそう遠くない未来が舞台。
夢を記録して観ることは「夢札をひく」と呼ばれ、
日本では主に精神医学の分野でこの技術が活用されています。
主人公は夢札を分析する国家資格を持つ野田浩章。
彼はある日、十年以上も前に亡くなったはずの古藤結衣子を目撃します。
かつては兄の恋人で、浩章自身も思いを寄せていた彼女は、
実は日本でたったひとりの予知夢をみる能力を持った女性でした。
彼女は自ら被験者として夢札の技術開発に協力し、
やがて日本中が彼女の夢に注目するほどの有名人になりましたが、
ある日、大惨事に巻き込まれて亡くなったのです。
なぜ死んだはずの古藤結衣子が目の前に現れたのか。
それとも結衣子だと思ったのはまぼろしだったのか。
やがて浩章のもとに、全国各地の小学校で
子どもたちが集団で白昼夢をみたという報告が寄せられるようになります。
子どもたちの「夢札」を分析した浩章は、そこに「あるもの」を見いだします。
浩章らは専門家でチームを結成し調査に乗り出しますが、
彼らの周囲をゆっくりと霧が立ちこめるように不穏ななにかが取り囲んで行きます。
そしてその霧の向こう側には、なぜかいつも結衣子の影がみえるのでした……。
これまで数々の面白い小説を書いてきた恩田陸さん、
しかも2年ぶりの新作とあって、
わくわくして読み始めましたが、期待以上の面白さでした。
この小説の面白さのいちばんのポイントは、「夢のとらえかた」にあります。
現代社会における夢のとらえかたに大きな影響を与えたのはフロイトです。
ジークムント・フロイトが『夢判断』を世に問うたのが1900年。
ぼくはこの『夢判断』とダーウィンの『種の起源』が現代の扉を開いたと考えていますが、
ともかくこの『夢判断』のなかでフロイトが唱えた画期的なコンセプトは、
「夢は無意識がつくりだすものだ」ということでした。
夢は無意識がつくりだす。
つまり、意識下で抑圧されていた欲望や願望が、
かたちをかえて表に出てきたものが夢であるということです。
フロイトは要するに夢は自分の内側から生まれてくると言っているわけです。
別にフロイトの名前を持ち出さなくても、
ぼくたちにとってはお馴染みの考え方だといっていいでしょう。
ところが、この小説で恩田さんは、夢についてとてもユニークな解釈を試みます。
「夢は外からやってくる」というのです。
たとえばある登場人物は夢についてこんなことを語っています。
「よくアイデアが降ってくる、とか、霊感が訪れる、とか言うだろう。
昔から何かのインスピレーションや芸術的なイメージは、
必ず外からやってくるものとして表現されている。
みんな薄々気付いているんだ。個人個人の意識の外に、
人類全体が共有する巨大な無意識があって、そこからいろんなものがやってくるのさ」
夢は外からやってくる。
外から人々の脳に侵入する。
このコンセプトはフロイトのそれをひっくり返すもので、とても面白い。
しかも外からやってくる夢は、
人類が太古の昔から共有する無意識から生まれてくるものだとしたら、
そこにはどんなメッセージがこめられているのでしょうか。
もうこのアイデアを思いついた時点で、
この小説の成功は約束されたも同然。面白くならないわけがありません。
この小説のあちこちに、
夢について作者の知見が散りばめられているのですが、
ぼくが面白いなと思ったのは、
夢が外からやってくると考えられていた古代日本の話。
誰かの夢をみたとき、
古代の日本では、
「夢をみたのはその誰かが自分のことを思っているからだ」
と考えたそうです。
フロイト流の解釈ならば、
「誰かの夢をみたのは抑圧された性的な願望の顕われ」
ということになるでしょう。
みなさんはどちらの解釈がお好きですか?
ぼくは古代日本の解釈のほうがロマンがあってよっぽどいいと思いますけどね。
最後に、恩田陸さんはよく
先行する作品へのオマージュ(敬意)にもとづいた新作を発表することがあります。
(たとえば『チョコレートコスモス』が『ガラスの仮面』のオマージュであるように)
それでいうならば、この『夢違』は、
童話『眠れる森の美女』と筒井康隆さんの『パプリカ』へのリスペクトにもとづいて
書かれているような気がする。まぁ全然違うかもしれませんが。
ともかく、この小説は恩田陸さんの代表作でもあると思います。
現実と夢の境界がだんだん曖昧になって行き、やがて両者が混ざり合う。
まるで夢の迷路に迷いこんだかのような読書体験があなたを待っていますよ!
投稿者 yomehon : 23:52
2012年01月23日
魂を揺さぶる!直木賞受賞作『蜩ノ記』
ごくまれにではありますが、読み終えた後も、目を閉じたままずっと
物語の余韻に身を浸していたいと思えるような小説と出合うことがあります。
第146回直木賞を受賞した葉室麟さんの『蜩ノ記』(祥伝社)は、
まさにそのような小説でした。
この長い物語を読み終えたいまも、ぼくの耳には、
風に揺れる竹林のざわめきとともにカナカナと鳴くひぐらしの声が聞こえています。
それにしてもなんと清浄たる物語でしょう。
そしてなんと哀しくせつない物語であることか。
葉室麟さんはもともと、凛乎たる人物を主人公にすえた
読む者の居住まいを正すような物語を書く作家でしたが、
この『蜩ノ記』ではその人物造形に奥行きや深みが加わり、
物語全体がこれまでよりひとまわりもふたまわりも大きくなった感があります。
人が粛然と運命と向き合う様。
友の交わりとは何か。
人を信じるとはいかなることか。
愛する家族のために父親は何を残せるのか。
そういった大切なことがこの小説にはすべて描かれています。
物語の舞台となるのは、豊後羽根(うね)藩という架空の藩です。
ここに切腹を命じられ幽閉されている戸田秋谷という武士がいます。
秋谷はかつて側室と関係をもったのではないかという疑いをかけられ、
10年後の切腹を命じられるとともに、
藩の歴史を編纂するという役目を負わされ幽閉されました。
切腹まで3年となったある日、
城下を離れ、山間の村で家族とひっそりと暮らす秋谷のもとを、
檀野庄三郎という若い武士が訪ねてきます。
城中で刃傷沙汰を起こし、
城にいられなくなった庄三郎は、命を助けるかわりに
秋谷が逃亡せぬよう監視せよ、との密命を帯びて秋谷のもとを訪れたのでした。
ところがともに暮らせば暮らすほど、
秋谷が疑いをかけられるような人物ではないということがわかってきます。
秋谷の過去を調べ始める庄三郎。
やがて藩の隠された秘密が徐々に姿を現しはじめるのでした……。
秋谷と側室との間であの夜なにがあったのか。
藩の奥深くでなにが起きているのか。
それら謎解きの興趣も物語を牽引する大きな要素であるといっていいでしょう。
でもぼくはこの小説のいちばんの魅力は、作品全体のトーンにあると思うのです。
まるで行く夏を惜しむひぐらしの声のように、
あらかじめ定められた人生のリミットが、
いかにこの物語全体に哀切なトーンをもたらしているか。
読んでいてここまでせつなさを感じる物語をぼくは他に知りません。
特に物語の終盤、秋谷の子息の郁太郎にからんで
物語が大きく動くところがあるのですが、
このあたりからは涙なしでは読めなくなるはずです。
家族との向き合いかた、村人たちとの交わり、
それに庄三郎にそそがれるまなざしでさえも、
死を覚悟した人間のそれは、一瞬一瞬の輝きを帯びる。
やがて死ぬと悟っている人間は、進むべき道を間違えません。
高潔で清廉な秋谷の生き方は、死を覚悟しているがゆえなのです。
どこで読んだのか忘れましたが、
誰かが「時代小説はファンタジー小説である」
というようなことを書いているのを目にしたことがあります。
確かに、死を前にして従容とそれを受け入れる秋谷のような人物を目にすると、
「いくらなんでも現実にはそんな人間はいないだろう」
とどこかで思ってしまう人もいるかもしれません。
でもぼくはこう思うのです。
戸田秋谷のような人物はかつてこの国に本当にいたのではないかと。
あまり顧みられることはありませんが、
この国では武士の時代が実に700年も続きました。
(その武士の世を切り開いたのが大河ドラマで話題の平清盛です)
ぼくたちが秋谷のような誠の武士の生き方に魂を揺さぶられるのは、
700年をかけて培われてきた武士のエートス(倫理的な生き方)が、
日本社会のDNAに刻み込まれているからではないでしょうか。
ぼくたちはやがて死ぬ。
そういう宿命を負わされているのはとても哀しいことです。
けれど限りある生だからこそ、それは時として美しい輝きを放つ。
そういう一回限りの生の美しさを好んで描いたのが藤沢周平さんでしたが、
葉室麟さんは今回の直木賞で名実ともに藤沢さんの後継者となりましたね。
ともあれ『蜩ノ記』は、
限りある人生をおくるすべての人におすすめしたい小説です。
投稿者 yomehon : 02:00
2012年01月17日
し、ショック。。。。。
し、信じられん……。
直木賞の選考会の日を間違えていた。
ひーん(泣)
今週の木曜日とばかり思い込み、せっせと受賞予想を書いていたら、
ニュースが聞こえてきて、思わず椅子ごとひっくり返ってしまいました。
受賞作は葉室麟さんの『蜩ノ記』(祥伝社)。
いずれ切腹する運命にありながら、
ひたすら藩の歴史を編纂することに没頭する武士の姿を通して
命の尊さを描いた秀作です。
葉室さんは5度目の候補でようやくの受賞。
おめでとうございます!
日をあらためて当欄でもたっぷりとご紹介させていただきます。
投稿者 yomehon : 21:51
2012年01月16日
まっすぐな青春小説 『くちびるに歌を』が素晴らしい!
ときどきふと思うことがあります。
中学生の頃のように世界をみることができたらどんなに素晴らしいだろうかと。
目の前に可能性に満ちあふれた未来が広がっていて、
見ること聞くことすべてが初めて体験することばかりで、
素直に誰かを好きになったり、曲がったことには心底怒ったりして、
時には内側から湧いてくる得体の知れない力をもて余して
誰かと取っ組み合ったりしていたあの頃にもし戻ることができたなら。
毎日がいまよりもずっとずっと驚きと興奮に満ちたものになるに違いありません。
誰もが身に覚えのあることだと思いますが、
大人になるということは鈍感になっていくことです。
誰かを好きになる気持ち、
あるいは何かに怒る気持ちでもいいけれど、
そういったものは年を重ねるごとに薄れていきます。
体験することはほとんどが既知のこととなり、初体験の感動はどこへやら。
全力で世界と向き合っていたようなあの感覚は、もはや忘れ去られてしまっています。
でも、残念なことに時間はもとへは戻せません。
ならばこの本を読んで、
そんな中学生の頃の気持ちを思い出してはみてはいかがでしょう。
中田永一さんの『くちびるに歌を』(小学館)は、
五島列島の中学校の合唱部を舞台にした青春小説。
五島列島は長崎県の西、約100キロに位置する福江島を中心に、
久賀島、奈留島、若松島、中通島の5つの島からなる一大列島です。
有吉佐和子さんの名著『日本の島々、昔と今』(岩波文庫)によれば、
周辺に多数の群島を抱えるこの五島列島は、古くから海の交通の要衝だったようで、
なかでももっとも面積の広い福江島は、遣隋使や遣唐使の航路に位置しており、
万葉歌人の山上憶良や空海、最澄らも立ち寄ったとされています。
福江島は古くは「深江」と呼ばれていたそうです。
水深が深く、複雑に入り組んだ海岸線を持つこの島は、
きっと古代の人々にとっても、荒れ狂う外海から船を避難させたり、
あるいは入り江で風待ちをするのにうってつけの島だったに違いありません。
『くちびるに歌を』は、
そんな風光明媚な南の島を舞台に、
NHK全国学校音楽コンクール(通称Nコン)にのぞむ
合唱部の子どもたちのキラキラした日々を繊細に描いた小説です。
誰しもおぼえがあるように、
中学生というのは大人と子どもの境界に立つ不安定な存在。
この小説の登場人物たちも、それぞれが個人的な問題を抱えていて、
自分を取り巻く世界とどう関係を結んでいけばいいのか悩んでいます。
本当の自分を隠して周囲に気に入られるように振る舞う者。
またあるいは障害のある兄の面倒をみるために将来を諦めてしまっている者……。
大人になったぼくらからみれば、他愛のない悩みもあれば、
あまりに早計に答えを出し過ぎていると感じられるものもあります。
でもこの不器用な感じはとても懐かしい。
登場人物たちのエピソードを読んでいると
きっとあなたも15歳の頃に戻ったかのような錯覚をおぼえるはずです。
それともうひとつ。
舞台が合唱部であることも、
この小説を魅力的なものとする大きな要因となっています。
このことにも触れておかないわけにはいきません。
物語の中で、先生がひとりの生徒に合唱の魅力について語る場面があります。
「合唱って、今までしらなかったけど、面白いよな」
柏木先生が、思い出したように言った。
「一人だけが抜きん出ていても、意味がないんだ。そいつの声ばかり聞こえてしまう。
それが耳障りなんだ。だから、みんなで足並みをそろえて前進しなくちゃいけない。
みんなでいっしょになって声を光らせなくちゃならない。なによりも、他の人とピッチを
合わせることが武器になるんだ。だから、誰も見捨てずに、向上していかなくちゃならない」
この箇所を読んだ時に、ぼくはハッとさせられました。
震災後を生きるいまの日本人に必要なことが述べられているような気がしたからです。
ひとりひとりが声をあわせて美しい歌を完成させること。
まさにいまの日本に必要なことです。
牽強付会な解釈だという人もいるかもしれませんが、
ぼくは合唱の要諦について語っているこの部分に、
作者がいまの日本に対するメッセージを忍ばせたように思えてなりません。
震災からの連想で言うのならば、
この作品の中にあふれる五島列島の方言の魅力も触れておきたいところです。
今回の震災でぼくらはふるさとが傷つけられるのを目の当たりにしましたが、
ぬくもりをもった方言のやりとりは、
読む者それぞれにふるさとの光景を思い起こさせることでしょう。
最後にこの小説のクライマックスについても一言。
凡庸な小説であれば、Nコンの舞台をクライマックスに持ってくるところですが、
この小説には、Nコンの本番が終わった後、
それも意外な場面で感動的なクライマックスが用意されています。
最後の最後に素晴らしい歌が歌われるこのシーンを読んだとき、
ぼくは涙をおさえることができませんでした。
もし現実でもこんな素晴らしい歌が歌えるのならば、
日本はまだ大丈夫かもしれない——。
『くちびるに歌を』はそんな希望も与えてくれる小説なのです。
投稿者 yomehon : 23:48
2012年01月02日
オオカミの護符
新しい年が明けました。
震災や原発事故のことがあるので、
今年は無邪気に新年を祝えない気分ではありますが、
みなさんの今年一年のご多幸をお祈り申し上げます。
本年も変わらぬお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。
さて、元日の朝にまずやることといえば、
コンビニで朝刊を全紙買い込み、
各紙に掲載されている出版社の広告をチェックすることです。
元旦の新聞に掲載される出版社の広告には、
その年に予定されている大型企画や
注目作家の新刊の告知などが載ることが多いためで、
毎年わくわくしながら記事よりも先にまず広告から目を通してしまうのです。
残念ながら今年は目立った出版企画は見られませんでしたが、
そんな中でドナルド・キーンさんのエッセイを載せた新潮社の広告が印象に残りました。
今年卒寿(90歳)を迎えるドナルド・キーンさんは、
長くコロンビア大学で日本文学を講じ、
昨年には日本国籍の取得を申請したほど日本文化に傾倒した方です。
キーンさんは、
かつて川端康成がノーベル文学書を受賞したときに、
多くの日本人が、川端作品は日本的すぎて、
西洋人には分からないのではないかと言ったといいます。
そこには、理解できないのに「お情け」で賞をくれたのではないか
という自虐的なニュアンスも含まれていて、
キーンさんはこういう日本人の物言いを例にあげながら、
70年にもわたって日本文化を研究しているが、
いまだに日本人は「日本的なもの」に対して自信がない、と指摘します。
そして、こう言うのです。
日本的だからいいのだと。日本的なものは勁(つよ)いのだと。
長年にわたって日本文化の素晴らしさを広めてくれた
ドナルド・キーンさんならではのエールには感謝しますが、
とはいえ、この「日本的なるもの」とはいったいなんなのでしょうか?
「わび」とか「さび」とかそういう美的境地のことなのか、
あるいは茶の湯や生け花、能・狂言といった日本独特の芸術のことなのか。
でも、山崎正和さんの『室町記』(講談社文芸文庫)などを読むと、
そういう日本文化の核をなすようなものはすべて室町時代に生まれたらしく、
じゃあ、鎌倉や平安、もっとさかのぼって記紀神話の時代はどうだったんだ、
いまの日本文化の底流とはつながっていないのか、という疑問が浮かんでしまいます。
「日本的なるもの」とはいったいなにか。
そういうことを考えるのにうってつけの本があります。
『オオカミの護符』小倉美惠子(新潮社)は、
そのような問いにある明確な答えを与えてくれる一冊。
今年最初にご紹介するのはまずこの本から始めることといたしましょう。
東京田園都市線の「たまプラーザ」の近くに、「土橋」という地名があります。
著者はこのあたりに古くからある農家に生まれ育ちました。
もとは農家が50戸ほどしかない貧しい寒村だったようですが、
いまでは7000世帯以上が暮らすお洒落な住宅街として有名なエリアになりました。
話は著者がふとしたきっかけで自らの足元を見つめ直すところから始まります。
子どもの頃、自分の家が農家であることにコンプレックスをもっていた著者が、
ある時ビデオカメラ片手に地元の伝統行事などを記録し始め、
やがて古い農家の蔵などに貼ってある黒い獣が書かれたお札について調べ始めます。
鋭い牙を持つ黒い獣の上に「武蔵國 大口真神 御嶽山」と書かれたそのお札は、
かつては家々の戸口や台所、蔵の扉や畑などいたるところに掲げられ、
人々は親しみをこめて「オイヌさま」と呼んでいました。
このお札がどこからやってきたかということはすぐに明らかになります。
それは、村の人々が「講」を組み、年に一度、種まきや田植えの始まる前に
御岳山にある武蔵御嶽神社にお参りをした際にもらってくるものでした。
面白いのはここからです。
「御嶽講」の成り立ちを調べ始めた著者は、
「オイヌさま」の影を追い求めるように
御岳山から秩父の山奥へと分け入って行き、
やがて関東平野を取り囲む山々を中心に広く信仰のあった
「オオカミ信仰」へと辿り着くのです。
このあたりの謎解きの旅は本当にスリリング。
なにしろ、古代から伝わる動物の骨を焼いて吉凶を占う
「太占(ふとまに)」という宗教儀式がいまだに行われいる神社があったり、
縄文にまでルーツを遡れるという「オオカミ信仰」がこの現代にも息づいているのです。
こういう事実をつぎつぎと目の前に示されて興奮するなというほうが無理でしょう。
そしてなによりも、新しい事実と出合うたびに、著者が感動し、
背筋をゾクゾクとさせ、魂を震わせる様子が素直に綴られていて、
このしなやかで、柔らかな著者の知性が、
本書を魅力的なものとする大きな要素となっているということも、
声を大にして言っておきたいところです。
この本に教えられたこと。
それは、
自然に対する深い畏敬の念や、
信仰とわかちがたく結びついた人々の暮らしが、
かつてはこの国のそこここで見られたのだということです。
この本に書かれている「オオカミ信仰」の話もそのひとつで、
そういう古くから連綿とつづく民の生活こそが
「日本的なもの」の根っこにあるものではないかと思うのです。
ただ、「オオカミ信仰」を支えてきた人々の暮らしが、
高齢化と後継者の不在、生活様式の変化などでいまや風前の灯だということも事実。
著者は、明治維新や第二次大戦を経てもなくならなかった農山村の庶民の暮らしが、
いまや根こそぎ風土と乖離し始めていると強い危機感を抱いています。
ぼくたちの暮らしが、
グローバリズムの影響をもろに受けることは避けられないでしょう。
けれども、たとえそうであったとしても、
自分がどのような土地に生まれ、
どのような文化の中で育まれてきたかということは、
決して忘れてはいけないのではないでしょうか。
「オイヌさま」に導かれた長い旅の終わり近くで
著者はこんなことを言っています。
「大切なのは、関東のオオカミ信仰の山々は、神話の世界に遡るほど、
その機嫌が古いということだろう。この東国に、かつてどのような人々が住み、
どのような暮らしがあったのか。ひとつだけ言えることは、どの時代の暮らしも、
現代の私たちの暮らしの礎になっているということだ。きっと、私たちの感覚の中にも、
とてつもなく古い暮らしの中で培われたものが眠っているに違いない」
ぼくたちの中に眠る「先祖の暮らしの記憶」。
それこそがドナルド・キーンさんをも魅了した「日本的なるもの」に他なりません。
川崎市宮前区土橋という
東急田園都市線で渋谷からわずか30分足らずのベッドタウンに、
はるかヤマトタケルの時代にまで通じる歴史が眠っていたという驚愕の事実。
まさにオオカミの遠吠えのように、
山の上にのぼって「この本はすごいぞ————」と雄叫びをあげたくなる一冊です。
最後に余談をひとつ。
九州出身のぼくは
かねてから飲み会などの最後にやる「手締め」ってなんだろうと思っていました。
九州にも博多手一本などの(博多一本締めとも言う)手締めはありますが、
南に行けば行くほど、むしろ締めたりせずにだらだら明け方まで飲み続けるのが普通で、
手締めをしていったん場をおさめるという文化は独特だなぁと思っていたのです。
本書で新たに知ったのは、
かつての山はいまからは想像できないくらい
人や物の交流がある文化の発信地だったということ。
各所で賭場も開かれたことから、
関東の山々は有名な侠客博徒を多く輩出することになったということです。
著者は関東の手締めは賭博とは全く関係ない、と断っていますが、
個人的には関東の手締め文化は粋な侠客博徒の世界とつながっているのではないかとも思います。
こんなふうに次々と連想を誘うのも本書の素晴らしい点のひとつなのです。
投稿者 yomehon : 16:39