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2011年10月23日
あの現代最高のサスペンス作家が「007」を書いた!
街を歩いていたらいきなり1万円札が空から降ってきた。
合コンにいったら直球ど真ん中のタイプの女性がいた。
明日から総理大臣になってこの国を好きなように変えていいといわれた。
NASAから宇宙飛行士に指名された。
ヨメから「長い旅に出ます。探さないでください」といわれた。
最近遭遇した喜ばしい出来事に勝るようなシチュエーションが
はたしてあるだろうかと考えてみたけれど、うーむ、どれもちと弱い。
(最後のヨメの言葉はほんとうにいわれたらウエルカムですが)
それくらい今回のサプライズには欣喜雀躍いたしました。
なにをそんなに喜んでるんだって?
世界最高のサスペンス作家ジェフリー・ディーヴァーが、
あの007ことジェームズ・ボンドを主人公にした小説を書いたからです!
『007 白紙委任状』池田真紀子・訳(文藝春秋)は、
ディーヴァーの手によって現代に甦った007の活躍を存分に堪能できる快作。
もちろん「どんでん返し」の達人ディーヴァーゆえ、プロットも巧妙。
ラストには二重、三重のひねりが加えられ、
読者の推理を鮮やかに裏切る展開が待っています。
映画ではすっかりお馴染みの007ですが、
みなさんは原作をお読みになったことはありますか?
007はイアン・フレミングによって1953年に生み出されました。
ただあなたがもしデビュー作の『カジノ・ロワイヤル』井上一夫 訳(創元推理文庫)を
手に取ったとしたなら、派手な展開とは無縁の筋立てに拍子抜けするかもしれません。
007がアクションシーンもふんだんに盛り込んだ物語になるのは1960年代のこと。
原作が次々と映画化されるようになってからです。
より正確にいえば、『カジノ・ロワイヤル』は、
007が辛い経験を経て本当のスパイとして自立するまでの物語で、
スーパーマンではない等身大のジェームズ・ボンドが描かれています。
(現在の6代目ボンド俳優ダニエル・クレイグが演じた『カジノ・ロワイヤル』は
わりと原作のテイストに忠実につくられています)
ともあれ、このデビュー作において、作者のイアン・フレミングは、
後のボンド像を決定づけるような要素をふたつ盛り込みました。
ひとつは女性好きであるということ。
(これは映画でもお馴染み)
そしてもうひとつは、たいへんなグルメであるということです。
(こちらのほうはそれほど映画では強調されていません)
さて、それではディーヴァーは
どんなジェームズ・ボンドを現代に甦らせてくれたのでしょう。
物語の発端は、イギリス政府が傍受した一通の電子メールでした。
「ノアのオフィスで打ち合わせ。二十日の金曜夜の計画を確認。
当日の死者数は数千に上る見込み。イギリスの国益にも打撃が予想される」
ノアとは誰か?
そして死者が数千にも上る計画とは?
誰がどのような攻撃を企んでいるのか至急調査せよ——。
緊急指令を受けたボンドはセルビアに飛びます。
そしてそこで目撃したおそるべき頭脳の持ち主〈アイリッシュマン〉を追って、
セルビアからロンドン、ドバイ、南アフリカへとボンドの追撃が始まるのでした……。
本書を一読してまずなによりも新鮮だったのは、
ボンドの武器がスマートフォンとアプリになっていたことです。
ボンドの武器といえば、腕時計が強力な磁石になったり、ペンが酸素ボンベになったり、
愛車アストンマーティンがレーザーやミサイルを発射したりといった、
Q課が開発するさまざまなガジェット(秘密兵器)が映画でもお馴染みですが、
本書に登場するボンドは、特殊スマートフォンに搭載されたさまざまなアプリを駆使して
(たとえばそれは遠く離れた相手の会話の内容がわかる読唇アプリだったりします)
敵と戦うのです。
このあたりには時代を感じますが、作者のディーヴァーが凄いのは、
こうしたスマートフォンの威力を読者にじゅうぶん印象づけておいてから、
ボンドが適地に乗り込んで行く際にこれをとりあげてしまうこと。
あれほど頼りになるスマートフォンをとりあげられて
いったいボンドはどうなっちゃうんだと読者は気を揉むことになる。
このへんの設定のうまさはさすがディーヴァーという感じです。
それからもうひとつ新鮮だったのは、
ジェームズ・ボンドのキャラクター設定でなによりも大切な「女性好き」という性格が、
時代の影響を微妙にこうむっていること。
美しい女性とあらばお約束のように軽口をたたくというのがボンドの持ち味でしたが、
本書のある主要登場人物からは徹底的にその物言いを正されます。
「ポリティカル・コレクトネス」(PC)という考え方があります。
その人の言葉の使い方に社会的な偏見や差別が含まれていないかどうか、
要は「政治的に公平で正しい言葉」を使っているかどうか、
ちゃんとみてきましょうということを提唱した概念で、
80年代のアメリカから始まり、いまでは欧米を中心に広く知られるようになりました。
ボンドがこのPC的観点からダメ出しを喰らうさまにも、
スマートフォンの登場に匹敵するくらい時代の変化を感じさせられます。
本書で唯一変わっていないのは、グルメなボンドだけかもしれません。
なにしろパーティでカクテルを頼むのに、
「クラウンロイヤルのダブル。ロックで頼む。そこにトリプルセックをハーフメジャーに
ビターズを二ダッシュ加える。最後にオレンジピールをツイストして添えてくれ」
なんて、みずから考案したオリジナルレシピでオーダーしてしまうわけですから。
ちなみにこのレシピ、20年来お付き合いいただいているあるバーテンダーに
頼んでつくってもらったところ、甘ったるくて飲めたもんじゃなかったです。
彼いわく「私なら甘みは6分の1程度に押さえますね」とのこと。
ボンドはグルメじゃなかったっけ……?
まぁディーヴァーの書いた007ともなると
いろんな話題で盛り上がれるわけですが、
本書には、本筋の謎解きのほかに、
ボンドの両親の死の謎を追うというサイドストーリーも仕込まれていて、
こちらがもしかしたら続編へとつながる伏線かも……という期待も抱かせます。
なにはともあれ、リンカーン・ライム・シリーズや
キャサリン・ライム・シリーズを生み出した
あの現代最高のサスペンス作家ディーヴァーの手になる新生007です。
まずは1ページ目を開くところから始めていただきたい。
そのまま本を置けなくなって完徹してしまうこと請け合います。
投稿者 yomehon : 08:25
2011年10月22日
日本ラグビー栄光の日々
ぼくが生まれ育ったのは九州の大分県というところです。
まぁ一般的には温泉が有名なのかもしれませんが、
大分は九州のなかでも比較的ラグビー熱が高い県で、
県立大分舞鶴高校というラグビーの名門校もあります。
大分舞鶴はこれまで全国優勝を1回、準優勝を3回経験している強豪校。
音楽ファンのなかには、松任谷由実さんの名曲『NO SIDE』の
モデルになった高校としてご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
(1983年の第63回大会決勝で天理高校に敗れた大分舞鶴が
この曲のモチーフになったという説があります)
ぼくが高校生の頃には、のちに早稲田大学や日本代表でも活躍する
今泉清というスター選手を擁して注目を集めていました。
また大分港に面した臨海工業地帯に新日鉄の製鉄所があることから、
社会人ラグビーへの関心も高く、新日鉄釜石のラグビー部が大活躍していた頃には、
地元大分のチームではないにもかかわらず応援していました。
ぼく自身はどちらかといえば野球が好きでしたけど、
このようにラグビーに接する機会の多い土地で育ったせいで、
いまでもラグビーシーズンになるとなんとなくそわそわしてしまいます。
そんなわけで先日行われたラグビーワールドカップのことも気になっていました。
最終のカナダ戦を目にしたのはちょうど営業活動中のこと。
繁華街にあるカフェで試合を店内放送しているのをみかけて思わず足が止まりました。
店に入ると、ラグビーファンらしき20名程度のお客さんが肩を寄せ合うように
戦況を見守っていました。
試合はちょうど後半のなかばあたり。
日本は前半をリードして折り返したにもかかわらず、
対戦相手カナダの猛攻を受け、じりじりと後退しているところでした。
ご存知の方も多いかもしれませんが、結果は引き分けに終わり、
日本は20年ぶりのワールドカップでの勝利を逃してしまいました。
驚いたのは、試合が終わって店内を見渡したときのことです。
落胆して肩を落としているのは一部のラグビーファンだけ。
ほとんどのお客さんは試合結果にまったく関心がなく、
携帯をいじったりおしゃべりに興じたりしているではありませんか。
日本代表が背水の陣で臨んだ最終戦であるにもかかわらず、
まるでそんな試合なんてなかったかのようです。
これがサッカー日本代表だったらもっと雰囲気は違っていたに違いありません。
「いつからラグビーを取り巻く環境はこんなになっちゃったんだろう……」
そんな淋しい思いを押さえることができませんでした。
かつて日本ラグビーに輝かしい時代があったことを
いまどれほどの人が記憶にとどめていることでしょう。
『釜石ラグビー栄光の日々』上岡伸雄(中央公論新社)は、
「空前のラグビーブーム」を日本中に巻き起こした
新日鉄釜石ラグビー部の強さの秘密を、
多数の関係者の証言から描き出した傑作スポーツノンフィクション。
新日鉄釜石は、1978年から1984年まで
日本選手権で前人未到の7連覇を成し遂げた伝説のチームです。
東北や北海道出身の無名の高卒選手を徹底的に鍛え上げ、
松尾雄治という天才プレーヤーのもとに鉄の結束を誇り、
圧倒的な強さで日本ラグビー界に君臨しました。
なぜ釜石はあれほど強かったのか。
またなぜあの時代のラグビーに人々は熱狂したのか。
著者は80人近い関係者にインタビューし、
それぞれの証言を丹念につきあわせることで
鮮やかに当時を再現することに成功しています。
釜石の強さの秘密とはなんだったのでしょうか。
よく云われるのは、
ラグビー界最強のスクラムを誇るフォワードと、
多彩な攻撃能力をもったバックス陣とが、
理想的なかたちで組合わさったチームだったということです。
この本のなかでも、
スクラムやパスなどの細かい技術に関して
いかに釜石の選手たちが優れていたかという証言がいくつも出てきます。
スクラムで押しながらすみやかに後ろへボールを送る技術や、
間(ま)をうまく使うことで相手をかわすステップなど、
釜石の強さを裏付けるようなディテールに富んだ証言がいくつも出てくる。
これらの証言を読んでいると、
スタンドオフの松尾選手が滞空時間の長いキックを蹴って、
重戦車のような釜石のフォワードが敵陣へ押し寄せる光景や、
一瞬たりとも途切れることなく展開されたボールを最後に受け取った
センター森重隆選手が、韋駄天のごとくフィールドを駆け抜けて行く場面が
脳裏に浮かぶという往年のファンも少なくないでしょう。
でも釜石の強さを支えていたのは、
そのような個々の選手の能力や技術だけではありませんでした。
この本のなかに、高橋博行という印象的な選手の話がでてきます。
秋田高専から技術者として釜石に入社した新入社員だった高橋さんは、
ラグビー部の練習をみているうちに自分もやりたくなって入部を志願します。
ラグビーでとった社員ではないから入部は罷りならぬ、と反対する会社側を説得して、
晴れてラグビー部の一員となったものの、練習にはまったくついていけませんでした。
懸垂が一回もできないくらい体力がなく、練習でもすぐにばててしまう高橋さん。
ところがどんなに練習についていけなくても決して部を辞めることはありませんでした。
いつしか高橋さんが息を切らせて走る姿は、
釜石ラグビー部ではお馴染みの練習風景となっていきます。
さて、話はここで終わりません。
凄いのはここからです。
入部して4年目の豪州遠征で、南豪州代表との試合に出場する機会を得た高橋選手は、
相手の巨大なナンバーエイトに強烈なタックルをかまして一発で倒してみせました。
そのまま脳しんとうで退場してしまったものの強烈な印象を残すプレーでした。
足が速いわけでも器用なわけでもない高橋選手には、
実は誰にも負けないタックルの才能があったのです。
当時を振り返って誰もが「あいつのタックルはすごかった」と口をそろえ、
入部したときはまさかあそこまで行くとは思わなかったと云います。
高校時代まったくの無名だった高橋選手は、
やがて釜石の黄金時代を支える選手に成長していきました。
ここに釜石の強さの秘密をみてとることができます。
釜石ラグビー部の部員数は30人前後。
しかも明治大学出身の森選手や松尾選手のような大卒選手はごくわずかで、
ほとんどが高橋選手のようにラグビーエリートではない無名の高校生たちでした。
そんな彼らが、厳しい寒さのなか行われる辛い練習に耐え忍ぶうちに、
やがて「これなら誰にも負けない」という能力を発見し、
チームの中に確たるポジションを見いだすようになります。
この個々の選手の潜在能力を見事に引き出すところに釜石の強さの秘密がありました。
実はそこには釜石の社風も深く関わっています。
釜石にはたとえラグビー部員であろうとも、
まず仕事が立派にこなせるようになってこそ一人前、という雰囲気がありました。
驚いたことに7連覇の時代ですら、部員たちは
朝9時から5時まできっちり働いてからラグビーをしていたそうです。
そのため、必然的に選手たちと職場の結びつきは強くなりました。
大きな試合の前には職場をあげて選手たちを送り出してくれたといいます。
同僚たちは、ラグビーのスター選手だからというのではなく、
同じ溶鉱炉の前で汗を流して働く仲間として選手たちを全力で応援したのです。
新人たちはこのような環境のなかで、
ラグビー選手として、人間として、大きく成長を遂げて行きました。
「職場の仲間たちのためにも負けられない」という思いが、
辛く厳しい練習に耐え抜く心の強さや大舞台でも負けない精神力を支えていたのです。
この『釜石ラグビー栄光の日々』を読みながら、
ぼくはいまのラグビー日本代表に欠けているのは、
ある種の「物語」ではないかと思いました。
無名の存在から釜石の名フランカーにまで成長した高橋選手に象徴されるような物語。
わかりやすくこれを「成長の物語」とか「成功の物語」といってもいいでしょう。
「エリートでなくても頑張ればスゴいことが出来るんだ」
とぼくらが感情移入し、心から共感し、夢を託したくなるような物語が、
いまの桜のジャージには欠けているのではないか。そう思えてなりません。
今回のワールドカップで日本代表にはずらりと外国出身者が並びましたが、
人々がいまいち感情移入できなかったのは、彼らの背後にどんな物語が
あるのかということがよく見えなかったからではないかと思うのです。
2019年のワールドカップ開催地は日本。
いまよりももっと魅力的な代表チームをつくって
かつてのようなラグビー人気を取り戻すことが急務ではないでしょうか。
さて、ラグビーの魅力を伝えてくれる本としては、
『仲間を信じて ラグビーが教えてくれたもの』村上晃一(岩波ジュニア新書)も
素晴らしかった。
ラグビーがいかに人生を豊かにしてくれるスポーツかということを、
6人のラガーマンの生き方を通じて描き出した良書です。
この本に登場するラガーマンがみな「信頼」を口にしているのが印象に残りました。
ラグビーというスポーツには、身体を激しくぶつけあったり、
ボールをつなぐために自らが犠牲になるといった特徴がありますが、
そういった特性が、敵味方関係なく、相手への信頼を生み出す土壌となっているようです。
3・11の大震災では釜石の街も甚大な被害を被りました。
残念なことに『釜石ラグビー栄光の日々』にも証言者として登場する
名フランカーの佐野正文さんとその奥様も津波の犠牲となりました。
(本書70ページには日本選手権でトライする佐野さんの勇姿がのっています。
ご冥福をお祈りします)
悲しみの淵から立ち上がり、少しずつでも前に進まなければならないいま、
ラグビーの精神からぼくたちが学べることはたくさんあるような気がします。
ONE FOR ALL, ALL FOR ONE(一人はみんなのために、みんなは一人のために)
という言葉が、ラグビー精神をあらわすフレーズとしてよく知られていますが、
意外なことにこの言葉は、海外のラグビー界では使われていません。
もともとはアレクサンドル・デュマの『三銃士』に出てくる言葉で、
なぜか日本のラグビー界で使われるようになったそうです。
日本代表や神戸製鋼でロックとして活躍した林敏之さんは、
『仲間を信じて』のなかで、
日本人がラグビーを初めて見たときに、
そういう精神をこのスポーツの中に見たのではないか、
だからこそ三銃士の言葉をあてはめて大切にしてきたのではないか、
とおっしゃっていますが、案外この仮説は当たっているかもしれません。
黄金時代の新日鉄釜石のプレーは多くの人を励ましました。
厳しい練習に耐え日本選手権へと勝ち上がったみちのくの無名戦士たちに、
人々は自分自身の人生を重ね合わせて応援しました。
あの頃、毎年日本選手権には6万人もの観衆が集まったといいます。
かつてラグビーが人々に勇気を与えていた時代がたしかにありました。
あの時代をもう一度、と思うのは、単なる夢物語に過ぎないのでしょうか。
いや、ぼくはそうではないと思います。
震災に見舞われて下を向きがちな世の中に向けて、
ラグビー界が発することのできるメッセージはきっとあるはずです。
『釜石ラグビー栄光の日々』を読んでひさしぶりに心を奮い立たせられました。
本書は今年のスポーツノンフィクションのベストワンだと思います。
投稿者 yomehon : 17:53
2011年10月09日
知っていそうで知らないノーベル賞
iPS細胞の開発者・山中伸弥教授のノーベル賞受賞は惜しくもかないませんでしたね。
スウェーデンの地元紙でも最有力候補と報じられていただけに残念です。
あと毎年のように名前があがる村上春樹氏も受賞はならずこちらも残念でした。
ところで、新聞などが報じる「今年の○○賞は誰それが最有力」といった記事、
実はまったくの憶測にすぎないということをご存知でしたか?
なぜなら、ノーベル財団の規定で、
誰が最終候補に残ったかといった選考課程にまつわる情報のすべては、
50年間秘密にされるということが決まっているからです。
発表されるのは、結果(受賞者の名前と授賞理由)のみ。
そしてたとえ50年が経過した後も、科学史の研究家など、
適格と認められた一部の専門家だけにしか資料へのアクセスは許されません。
それくらい情報は厳しく管理されているのです。
えっ?
おまえはなんでそんなにノーベル賞に詳しいんだって?
それは『知っていそうで知らないノーベル賞の話』(平凡社新書)を読んだから。
これまでノーベル賞受賞者の業績を事細かに説明する本はあっても、
ノーベル賞そのものをとことんまで解説した本はありませんでした。
本書はそんなありそうでなかった一冊です。
著者の北尾利夫さんは、商社マンとして長くストックホルムに駐在した経験があり、
その折には隣家の奥さんが日本でいう文化庁のような組織の幹部だったという縁で、
セキュリティの厳しいノーベル財団の本部を訪ねる機会を得たり、
いまも財団から毎年決算報告などの貴重な資料を送ってもらえる関係にあるなど、
日本人にしては珍しいコネクションをお持ちの方。
本の中では自らを一介の「ノーベル・ファン」「スウェーデン好き」に過ぎない、
などと謙遜なさっていますが、これだけあらゆる角度から仔細にノーベル賞について
語った本はほかにありません。
ところで、皆さんはノーベルがどういう人だったかご存知ですか?
アルフレッド・べルンハルド・ノーベルは、
日本でいえばちょうど幕末のころ、1833年に生まれました。
古代ギリシア神話では人間に火を与えたのは
プロメテウスという神様だということになっていますが、
人類が火を使い始めたのは実に40万年前のことだそうです。
そして途方もなく長い時間を火とともに過ごした後、
ようやく19世紀になって、
人類は小さな火をより巨大な力に変える手段を手に入れました。
それがダイナマイトです。
ノーベルは優れた化学者にして発明家でもありました。
猛烈な爆発力がありながら不安定な性質を持つニトログリセリンを、
数々の不幸な爆発事故(なかには弟を失う事故もありました)を経ながら
手なずけることに成功。
爆発力と安全性を兼ね備えたダイナマイトを開発します。
このダイナマイトの発明が人類にもたらした恩恵には計り知れないものがあります。
ドイツの文化史家ヴォルフガング・シベルブシュは、
『鉄道旅行の歴史 十九世紀における空間と時間の工業化』という本で、
鉄道の発展が近代社会の成立にいかに重要な貢献をしたかを述べていますが、
そもそも鉄道にしたってダイナマイトが登場したからこそ建設が可能になったわけです。
鉄道だけではありません。
19世紀といえば、イギリス人ジェームズ・ワットが発明した
蒸気機関の普及によって起きた産業革命のまっただ中でした。
この時代のエネルギーの中心は石炭です。
石炭の増産や新しい炭坑の開発にダイナマイトは不可欠でした。
それまでつるはしでせっせと掘っていたのがダイナマイトを使えば
一挙に工事が進められるとあって各国から注文が殺到。
ノーベルは40歳にして世界的な大富豪にまでのぼりつめるのです。
開発者としても起業家としてもすぐれていたノーベルは、
現代でいえばさしずめビル・ゲイツのような存在だったのでしょう。
そして1896年、イタリアのサン・レモで
ノーベルは脳溢血により63年の生涯を閉じるのですが、面白いのはここからです。
生まれ故郷のストックホルムで、
民間人としては初めてといわれるほどの盛大な葬儀が執り行われた後、
スウェーデンの銀行に預けられていた遺書が開封され、
当時ヨーロッパ最大ともいわれた巨額の遺産の行方が明らかとなったのですが、
新聞で報じられた遺言の内容に人々は衝撃を受けました。
そこには、ノーベル賞の構想が記されていたのです。
まず記されていたのは、甥や姪といった親族への遺贈額。
けれどもその額は遺産総額のわずか3%に過ぎませんでした。
さらに世話になった関係者へ渡すわずかな金額が記された後、
残りの金額の使い途について、次のような遺言がのこされていました。
「残りの換金可能な私のすべての財産は、次の方法で処理すること。
すなわち、私の遺言執行人によって、安全な有価証券に投資された資本をもって基金とし、
これから生ずる金利は毎年、その前年に、人類にもっとも大きな貢献をした人に
賞のかたちで配分すること」
「この金利は五等分され、以下のように配分するものとする。
すなわち、一部は物理学の分野でもっとも重要な発見、または発明をなした人に、
一部はもっとも重要な化学上の発見または改良をなした人に、
一部は生理学または医学の分野においてもっとも重要な発見をなした人に、
一部は文学の分野で理想主義的傾向のもっとも優れた作品を創作した人に、
一部は国家間の友好、常備軍の廃止または削減、および平和会議の開催や
復興のために最大、または最前の仕事をなした人に」
そして、各賞の選考機関について指定した後、
遺言の基本精神ともいえる重要な文言が記されていました。
「賞を与えるにあたっては、候補者の国籍は一切考慮されてはならず、
スカンジナビア人であるなしにかかわらず、もっとも相応しい人が
受賞しなければならないというのが、私の特に明示しておきたい願いである」
現代のように世界が狭くなってしまった時代ならいざ知らず、
19世紀当時に国籍や人種を問わず、人類のために貢献した人間に
賞をあたえるという国際賞を構想していたノーベルの先見性には驚かされます。
でも、たとえノーベルがこのような遺言をのこしたとしても、
ノーベル賞が創設されるまでには紆余曲折がありました。
遺産の取り分の少なさに納得のいかない遺族が猛反発したのです。
このあたりのドロドロとした話は本書に詳しいのでぜひお読みください。
この他にも、ノーベルがなぜ国籍を問わないということを主張したのかとか、
平和賞の選考だけはなぜスウェーデンではなくノルウェーに委ねられたのかとか、
なぜ芸術賞ではなく文学賞なのかとか、経済学賞ってなかったっけ?とか、
ノーベル賞のあらゆる疑問についての回答や推理もすべてのっています。
それにしても、本書を一読してあらためて思うのは、
「国籍や人種を問わず、人類にもっとも貢献した人に賞を与える」という
ノーベル賞のコンセプトがいかに優れたものかということです。
100年以上にわたって選ばれ続けた受賞者をずらり並べてみれば、
それがそのまま人類の進歩に重なるというのは、考えてみれば凄いことです。
オリンピック100m走の勝者は「人類最速」と呼ばれますが、
これにならえば、ノーベル賞は「人類最高の知性」ということになるでしょう。
毎年のように人々が賞の行方に夢中になるのも無理はありませんね。
それにソフト・パワーの観点からしても、ノーベル賞があることで
スウェーデンは国際社会のなかで相当に得をしているのではないかと思います。
これさえあれば国のブランディングなんて考える必要なしというくらいに
ノーベル賞はスウェーデンのイメージ向上に寄与しているのではないでしょうか。
著者がノーベル財団の内側にまで足を踏み入れているおかげで、
本書はそのへんのウンチク雑学本の類いとは一線を画す読み物に仕上がっています。
ノーベル賞に深入りした著者ならではの知られざるエピソード満載の一冊です。
投稿者 yomehon : 20:06