«  直木賞受賞作『月と蟹』 | メイン | きずついた つばさを なおすには »

2011年02月21日

 直木賞受賞作『漂砂のうたう』


木内昇さんの『漂砂のうたう』(集英社)を読みながら、
ぼくはずっと不思議な感覚にとらわれていました。

江戸から明治へと大きく時代が変わった100年以上も昔のことが
書かれているにもかかわらず、そこに描き出されているのは、
まぎれもなくぼくたちが生きている現代であるような気がしてならなかったからです。

いや、人間の営みを描くのが小説であるならば、
たとえどんな時代を舞台にした作品であろうとも
現代と重なる部分が出てきて当然だという見方もできるでしょう。

けれども、この『漂砂のうたう』の場合はちょっと違うように思えるのです。

作者はむしろ、「今という時代を描くのだ」という強い意志のもとに、
明治十年という時代を選びとったのではないかという気がしてならないのです。


御一新によって長きにわたる幕藩体制が終わり、
新しく明治という時代が始まってから十年が経とうかという頃、
根津遊郭の美仙楼の妓夫台(ぎゆうだい)には、きょうも定九郎が座っています。

妓夫台というのは、遊郭の見世の入口にある腰掛けのこと。
ここに座って道行く客に声をかけ、料金を掛け合うのが立番である定九郎の
役目ですが、相手の稼業や懐具合を瞬時に見極め、タチの悪いやくざ者や
花魁を引き抜こうとする同業者などが紛れ込まないようにするのも大切な務めです。

にもかかわらず、定九郎は仕事に身が入りません。
もともと御家人の次男坊だったのが、御一新で武士の身分を失い、
その後は職を転々として、なんとなくこの根津遊郭に流れ着いたこともあって、
毎日をただ流されるように生きているのです。
作者はそんな定九郎の暗い心中をこんなふうに巧みに表現してみせます。


鈍色の光の中に座っていると、定九郎は時折、奇妙な幻想に取り憑かれる。
自分の身体が台から剥がれなくなり、その上だけが生きる場となる空想だった。
台はある日、美仙楼の門口から勝手に動き出す。定九郎の意志とは関わりなく、
浮き草のように流れていく。それは藍染川に流された兎と同じで、
どこに辿り着くでもなく、なにかを得るでもなく、ひたすら波間をさまようのだ。
終いには、自分がどこにいるかわからなくなる。


江戸から明治へと看板が掛け替えられてからというもの、
新しい価値観を身にまとった者たちが大手を振って天下の往来を闊歩し、
古いものはただ古いというそれだけの理由で打ち棄てられるような有様です。
定九郎が時折身を寄せる馴染みの女でさえ、
「これからはね、古いもんにしがみついている奴は、切って捨てられるんだって」
などと言い出す始末。
そんな話を「むつかしい話はよせよ。わっちゃ頭が弱ぇからわからねぇんだ」と
聞き流し、定九郎はやるせない思いを胸に毎日をなんとなくやり過ごしています。

定九郎が世間に背を向けるのは新しい時代が
欺瞞に満ちているからではないでしょうか。
声高に「自由」が語られてはいても、実際には国は混乱し、
あちこちで貧しい農民の一揆や、身分を奪われた士族の暴動が起きています。
定九郎の脳裏に旧い時代に殉じた父の姿が浮かぶのは、
彼の心と体が本当はまだ前の時代に置き去りになっているからに違いありません。

そして、そんな定九郎に寄り添いながら物語を読み進めるうちに、
ぼくたちはふと気がつくのです。

いまぼくらが置かれている状況も定九郎とまったく同じではないかと。


きっとこれから、次第に木陰がなくなっていくのだ。誰もが、木一本生えていない
野っ原に放り出される。真っ新な日射しに耐えて立っていられるのは一握りのもの
だけで、いずれ自分は、炎天下にもかかわらず逃げ込む場もない世の中に、
正体も認めぬほど焼かれていくのだ。


格差、貧困、財政破綻、無縁社会、少子化、就職氷河期――。
こんな言葉が頻繁に目につくようになったのはいったいいつの頃からでしょう。
かつてこの国にも明るい未来を夢見ることができた時代がありました。
刻苦勉励して有名大学を出て一流企業に入れば確実な将来が約束され、
働けば働くほど、出世の階段を昇れば昇るほど、給料がとんとん拍子に増え、
やがてマイホームを購入し、豊かな蓄えとともに恵まれた老後を送るといったような、
現在からすればウソみたいな共同幻想を抱けた時代が確かにあったのです。

でも、気がつけばいつの間にかぼくらは、
身を隠す影もないくらいに頭上からじりじりと容赦なく照りつける太陽のもと、
定九郎と同じように、無人の原野にひとりぼっちで放り出されていました。

逃げ場はありません。自分の身は自分で守らなければならない。
誰もが厳しい環境をサバイバルしていかなければならない重圧にさらされています。
いまぼくたちが生きているのはそういう時代なのです。


さて、ここへきてようやく定九郎の物語がぼくらの物語と重なってきました。
ならば、この『漂砂のうたう』という物語をあらためて
ぼくらの時代の物語として読み換えてみましょう。

時代の奔流に巻き込まれ、なすすべもなく流されて生きている定九郎に、
噺家の弟子であるポン太がこんなことを言う場面があります。


「何万粒って砂がねェ、こうしている間も水の流れに乗って、
静かに静かーに動いていっているんだねェ。岸からは見えないですけど、
そうやって海岸や河岸を削って行くんだねェ。水面はさ、いっつもきれいだけど
なんにも残さず移り変わっちまうでしょう。でも水底で砂粒はねェ、
しっかり跡を刻んでるんだねェ」


「跡を刻む」。
ぼくにはこの言葉が、この物語を貫く
とても重要なメッセージであるように思えるのです。

ぼくたちはいつも何かに翻弄されています。
それは仕事のトラブルであったり、家族の病気であったり、
会社の都合であったり、もっと大きな社会状況の変化であったりといろいろです。

現実は思うようにはならず、ぼくらはまるで水底の砂粒のように流れにあおられ、
揉まれ、転がされて、行き先もわからないどこかへと運ばれていきます。

流れに抗おうとしてもしょせんは砂粒。
抵抗するすべもなく、流れに身を任せるうちに、
いつしかぼくらは何かを諦め、ただ流されるままになってしまうのです。

けれども実は違うのではないか。

歴史のうねりの中では、個人は一粒の砂のような存在かもしれない。
でもそんな砂粒のような存在でも、しっかりと跡を刻んでいるのだ。
生きていれば、必ずその痕跡は刻まれる。
生きるというのは、そういうことなのだ。

この小説から作者のそんな声を聞いたように思えるのはぼくだけでしょうか。


物語の終盤、先輩の龍造が定九郎に下駄を脱がせて、
「あること」を指摘する場面があります。
定九郎自身にこれまでの人生を受け入れさせるこの感動的なくだりは、
作中もっとも心を揺さぶられる名場面。
ぜひここは実際にお読みいただきたいと思います。

キラキラとした目で夢を語れるような人にはこの本はおすすめしません。
そんな人はどうぞご自分の夢を追求してください。
この本はむしろ、老いた親を必死に介護をしている人とか、
子育てに追われるお母さんとか、足を棒にして外回りしている営業マンとか、
夢をみるような暇もなく、毎日を懸命に生きていて、
ちょっと疲れをおぼえているような、そんな人にこそ読んでほしいと思います。


最後に。木内昇さんには『茗荷谷の猫』という素晴らしい短編集もあります。
定九郎のように、生きていく中で変化に見舞われた人たちの物語が並んでいます。
こちらもぜひ。

投稿者 yomehon : 2011年02月21日 23:56