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2010年04月25日
平成生まれの作家による青春小説の傑作
普段はまったくといっていいほど感傷とは無縁のタイプなのに、
桜が咲きこぼれてあっという間に散ってしまうこの時季だけは、
どういうわけか記憶の蓋がゆるみ昔のことを思い出してしまいます。
いまからふた昔以上も前、ぼくは田舎の高校に通う高校生でした。
当時通っていた学校は小高い丘の上にあって、生徒が「心臓破りの坂」と呼ぶ
急こう配の坂道を、毎朝息を切らせて登っていました。
この歳になるともはや高校生活がどうだったかなんて
遠く記憶の彼方に霞んでしまっていますが、
なぜかこの坂道を自転車で駆け下りた時のことだけは鮮明におぼえています。
ぐるりと丘を取り囲むようにふもとへと伸びる長い坂道を
フルスピードの自転車で駆け下りるわけですから
もちろんほめられた行為ではありませんが、
当の本人にはアブナイことをやっているという意識はまったくなく、
むしろ「自分が事故なんか起こすわけがない。絶対に大丈夫!」と
根拠のない自信で鼻の穴をふくらませているような有様でした。
なぜ確たる根拠もないのに、
あの頃はあんなにも自信満々でいられたんだろう?
「彼女とセックスしてえ―!と大声で叫ぶ竜汰の頭を、
俺は爆笑しながら殴る。うるせーよお前!
十七歳の俺達は思ったことをそのまま言葉にする。
そのとき思ったことを、そのまま大きな声で叫ぶ。
空を殴るように飛び跳ね、街を切り裂くように走り回る。
飛行機雲を追い抜く速さで、二人乗りの自転車をかっ飛ばす。
恥ずかしいと思うよりも、そういうことが楽しくて笑ってしまう。
勢いのまま生きるって、なんだか楽だし今しかできないような気がする。」
(菊池宏樹)
『桐島、部活やめるってよ』朝井リョウ(集英社)のページをめくると、
思春期の頃に感じていたあの懐かしい感覚と出合うことができます。
ノーブレキーで坂道を駆け下りていた時に体中に漲っていた
あの感覚をなんと説明すればいいのでしょう。
からだの奥底から湧きあがってくる力。
世界の中心にいるのは間違いなく自分だという高揚感。
このまま空へと舞いあがれるんじゃないかというような、
目の前に広がる無限の選択肢をすべてこの手に握りしめて
我が物にできるかのような、あのなんでも出来てしまうような感覚――。
もっともイメージが近いのは、「全能感」という言葉かもしれません。
そしてこの「全能感」の根っこにあったのは、
自分が<世界>に確かに触れているというリアルな手触りでした。
『桐島、部活やめるってよ』は、田舎の県立高校を舞台に、
バレー部のキャプテン桐島が突然部活をやめたことをきっかけにして
同級生の生活に小さな波紋が広がっていくのを繊細に描いた作品。
桐島くんが「誰もが頼れるキャプテン」で、
なおかつかわいい彼女もいる男子だということは
作中で間接的には描かれますが、
本人は最後まで登場することはなく、
部活をやめた理由も明かされないままです。
むしろこの小説の主人公は、
桐島が部活を突然やめたことで
心に小さな波を立てる5人の同級生たちです。
5人は野球部、バレー部、ブラスバンド部、ソフトボール部、映画部と
所属する部も違ううえに、桐島と親しい者もそうでない者もいます。
共通しているのは、桐島が部活をやめたことに
どこかで影響を受けているということだけ。
たかが同級生ひとりが部活をやめたくらいで
どうしてそんなに動揺するの?と思う人もいるかもしれません。
でもそういう人は胸に手を当てて自分自身が高校生だった時のことを
思い出してみていただきたい。
なぜ彼らは心に小波を立てるのか。
それは、彼らにとって、学校がすなわち<世界>そのものだからです。
もちろん知識では世界は広いということを知っているでしょう。
日本は島国で海の向こうには大陸が広がっているということも知っているし、
空を上へ上へとのぼっていけば成層圏の向こうに宇宙空間が広がっていることも
知っているはずです。
でもそれらは、彼らにはリアルなものではありません。
彼らにとっては学校空間こそがリアルに感じられる<世界>であり、
このミクロコスモスでは、人間関係も、そこで起きる出来事も、
すべてがつながりあって相互に影響を与えあっているのです。
だからこそ彼らは自分を取り巻く<世界>が
どんな秩序によって保たれているかに敏感です。
「ピンクが似合う女の子って、きっと勝っている。すでに、何かに。
なんで高校のクラスって、こんなにもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。
男子のトップグループ、女子のトップグループ、あとまあそれ以外。
ぱっと見て、一瞬でわかってしまう。だってそういう子達って、
なんだか制服の着方から持ち物から字の形やら歩き方やら喋り方やら、
全部が違う気がする。(略)
少し短めの学ランも、少し太めのズボンも、細く鋭い眉毛も、
少しだけ出した白いシャツも、手首のミサンガも、
なんだか全部彼らの特権のような気がする。」(沢島亜矢)
「僕らは気づかない振りをするのが得意だ。
気づくということは自分の位置を確かめることだからだ。(略)
「次体育か」
武文はぱたんとキネマ旬報を閉じ、自分のロッカーまで体操着を
取りに行った。次、体育か、なんて改めて思いだしたように言ったけれど、
たぶん朝から武文の頭の中は体育でいっぱいだったはずだ。
だって僕もそうだ。男子の体育はサッカー。サッカーってなんでこうも、
「上」と「下」をきれいに分けてしまうスポーツなんだろう」(前田涼也)
「二週間ほど前の授業で、「創作ダンスはグループで練習して発表して
もらうので、とにかくクラスで三つの班を作ってくださーい」と先生が言ったとき、
一瞬で空気が張り詰め、全女子が頭をフル回転させたのがわかった。(略)
くだらないかもしれないけど、女子にとってグループは世界だ。
目立つグループに入れば、目立つ男子とも仲良くなれるし、
様々な場面でみじめな思いをしなくてすむ。だって、目立たないグループの
創作ダンスなんて、見ている方までもみじめな思いになる。
どこのグループに属しているかで、自分の立ち位置が決まるのだ」(宮部実果)
学校空間の中で、彼らはある種の秩序を形成しています。
それは「カッコいい⇔カッコ悪い」という物差しをもとにお互いを序列化することや、
教室の中で「空気」という目に見えないものを必死で読み取ろうとする努力によって
支えられている秩序です。
部活をやめるという桐島クンの選択は、この秩序に亀裂を生じさせました。
しかも他の生徒ならまだしも、よりによって「誰もが頼れるキャプテン」で
かわいい彼女もいる桐島クンがそのような行動に出たのですから、
同級生たちの内心の衝撃は相当なものだったに違いありません。
17歳の高校生にとって、<世界>は手を伸ばせば
その輪郭に触れることができるほどの大きさをしています。
そんなちっぽけな世界を目の前にすると、「運命なんてクソくらえ!
拳を握りしめて全力でぶつかっていけば自分を取り巻く世界なんて
いかようにも変えられるんだ!」そんな全能感が体の奥底から湧いてきて、
わけもわからず全力で走り出したくなったりする。
けれども一方でその<世界>はガラス細工のような脆さをはらんでもいます。
そこにはクラスメートの間で暗黙のうちに共有される序列があり、
友情という美名のもとにお互いの行動や言動を拘束しあう関係がある。
なぜ彼らの<世界>はこんなにも窮屈なのかといえば、
それは、自分たちがいまいる<世界>からやがて出ていかなければ
ならないことを、彼ら自身が知っているからに他なりません。
「一番怖かった。
本気でやって、何もできない自分を知ることが。
ほんとは真っ白なキャンバスだなんて言われることも、桐島も、
ブラスバンド部の練習の話も、武文という男子の呼びかけも、
前田の「わかってるよ」と答えたときの表情も、全部、
立ち向かいも逃げもできない自分を思い知らされるようで、
イライライライライライラして、」(菊池宏樹)
「いまいる<世界>から、その外側にある
とてつもなく広い世界へとやがて出ていかなければならない」
17歳というのはその予兆をもっとも敏感に感じ取って、
根拠のない自信と臆病さとのあいだで揺れる年齢なのかもしれません。
文芸評論家の三浦雅士さんは
『青春の終焉』(講談社)という本のなかで、
かつて輝きを帯びていた青春という言葉は、
1960年代をピークにその輝きを失った、と述べています。
確かにいま青春という言葉は
昔のように輝かしい響きを帯びてはいないかもしれない。
けれども、青春時代が、新しい世界に向けて大きな一歩を踏み出すための
とても大切な準備期間であることは昔もいまも変わりはないのではないでしょうか。
著者の朝井リョウさんは1989年(平成元年)5月生まれの現役大学生。
本書はついこのあいだまで桐島たちと同じ空間にいた著者だからこそ
書くことができた青春小説の傑作です。
投稿者 yomehon : 2010年04月25日 10:27