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2009年09月22日
神様のカルテ
身内の者が入院したために、このところ週末の病院通いが恒例となっています。
病院へは地下鉄の駅を降りて住宅街のけやき並木の坂を5分も上れば着くのですが、
最初のころは玄関口に辿り着いただけで汗びっしょりになっていたのに、
いつの間にか肌にあたる朝夕の空気が冷たく感じられるようになってきました。
入院も長引けば病院関係者の顔も名前もおぼえます。
最近、見舞いのたびに話題にのぼるのは「ポマード先生」のこと。
ポマード先生は主治医で、年齢はおそらく50代なかばくらい。
光沢のある銀髪を後ろになでつけた風貌からこう呼ばれています。
で、この先生がなぜ話題になるかといえば、とにかくいつも病院にいるのです。
身内いわく、病室には日曜祭日問わず、朝晩関係なく、しょっちゅう顔を出すそうですし、
看護師さんに訊いても「たしかに四六時中います」とのこと。
いったいいつ家に帰っているのだろうと、病室内はこの話題で持ちきりなのでした。
医師の数が足りないために勤務スケジュールが
過酷にならざるをえないという事情もあるのかもしれません。
でもそれにしても、病室を訪れるポマード先生の柔和な笑顔からは
「仕方なく休日も働いている」というような雰囲気はみじんも感じられず、
むしろその笑顔は崇高な使命感のようなものに支えられているように見えるのでした。
『神様のカルテ』夏川草介(小学館)は、地方都市の救急病院を舞台に、
ひとりの青年医師の心の成長を温かい視点で描いた小説です。
著者の夏川さんは現役の医師で、本作で第十回小学館文庫小説賞を受賞しました。
いまジワジワと全国の書店員さんのあいだで支持を広げている注目の作品です。
信州・松本にある本庄病院は、「24時間、365日対応」を標榜する基幹病院。
主人公の栗原一止(いちと)は、地元の大学を出て本庄病院に勤務して5年目の
内科医です。
地方病院の現状は悲惨なもので、夜間救急外来の当直医ともなれば、
けが人や病人が門前に市をなすがごとく並び、たとえ内科医だろうが
外傷を負った急患の手当もしなければなりません。
一止も徹夜が続き、結婚記念日すら忘れてしまうほど仕事に忙殺される毎日を
送っています。
そんな折、彼は「安曇さん」という患者を担当することになります。
丁寧な物腰とやさしい性格で看護師からも愛されているこのおばあちゃんは、
実は胆のう癌で、余命幾ばくもありません。
安曇さんのために医師としてなにが出来るのか――。
この安曇さんと主人公との向き合いが、物語を貫く太い柱となっています。
とはいえ、物語はシリアス路線一辺倒というわけではありません。
ここが大事なところなのですが、この小説の個性を支えているのは「ユーモア」です。
ユーモアの効果は、登場人物の巧みな描き方から生まれています。
まず主人公の一止は、夏目漱石を敬愛する者として描かれる。
『草枕』を全文暗誦するほどのめり込んでいるために、しゃべり口調もすっかり
古風になってしまっていて、これが物語になんともいえない脱力感を与えています。
最愛の妻ハルとの会話にしてもそう。
ふたりの会話は、まるで大正時代の文士とその妻みたいな感じで、
絶妙にレトロな雰囲気を醸し出している。
一止とハルが暮らすおんぼろアパート「御嶽荘」の住人である絵描きの「男爵」や
大学院生の「学士殿」。あるいは病院の同僚である巨漢の「次郎」や「大狸先生」、
「古狐先生」などもしかり。どの登場人物も見事にキャラが立っています。
この巧みなキャラクター造型と、作者の夏目漱石へのこだわりから推察するに、
おそらく作者は『坊っちゃん』をイメージしてこの小説を書いたのではないでしょうか。
『坊っちゃん』はひとくちで言えば、「敗北」を描いた小説です。
それは都会の人間が田舎の人間に敗北する話でもあるし、
青臭い正義感が「世間」に敗北する話でもあります。
では翻って、 『神様のカルテ』の主人公、栗原一止は何に敗れたのでしょうか。
それは「死」ではないかと思います。
「死」はかならずその人のもとを訪れる。
どんなに「死」に抗っても人間はやがて敗れ去る運命にあります。
でも、だからといって医師の仕事が徒労に過ぎないかといえばそうではありません。
物語の終盤、安曇さんは亡くなります。
その後、一止に宛てて安曇さんが遺したメッセージが見つかります。
その中に、こんな言葉が出てきます。
「病むということは、とても孤独なことです」
安曇さんは、一止が最期まで自分と一緒にいてくれたことで
孤独にならずにすんだと感謝の思いを伝えながら、
孤独でさえなければ、たとえ病気が治らなくても、
生きていることが楽しいと思える瞬間はたくさんあるのだ、と言います。
医師の仕事は決して無駄ではない。
死に瀕した患者を前にしても出来ることがある。
あなたはそれをしてくれた――安曇さんはそう言っているのです。
このくだりを読んで、ぼくは哲学者・鷲田清一さんの
『「聴く」ことの力』(阪急コミュニケーションズ)に出てくるエピソードを思い出しました。
阪神淡路大震災で被災されたある女性の話です。
彼女には受験生の息子がいたのですが、
深夜の受験勉強に疲れ、こたつで居眠りをしていた息子をみて、
いつもは「風邪をひくから」と二階のこども部屋に無理やり連れて上がるのを、
よりによってその夜は、あまりに深く眠っているので起こすのがかわいそうになり、
そのままこたつで寝させていたそうです。
そして翌朝未明、眠りに沈む街を激震が襲いました。
二階は崩れ落ち、息子さんは押し潰されてしまいました。
彼女は息子を殺したのは自分だとみずからを責め苛み続けていました。
そんなとき、ひとりのボランティアが彼女の話し相手となりました。
話し相手といっても、このボランティアにできたのは、
彼女が語る「とりかえしのつかない過失」について
ただただ耳を傾けることだけでした。
けれども鷲田さんは、この「聴く」という受け身の行為だけが、
この女性のただれた心の皮膚をつなぎとめる力を持ったと言います。
このエピソードは、人は決してひとりでは生きていけないのだという
ごく当たり前の事実を教えてくれます。
思えば医師の仕事というのは、人はひとりでは生きていけないという
この当たり前の事実を、日々目の前に突きつけられる仕事なのかもしれません。
身内の病室を日に何度ものぞいて世間話をしていくポマード先生も、
患者と向き合う上で何がいちばん大切かということをたぶん知っているのでしょう。
人と人との心の交流を真正面から描いた『神様のカルテ』。
人恋しくなる秋だからこそ強くおすすめしたい心温まる一冊です。
投稿者 yomehon : 2009年09月22日 21:38