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2009年09月06日
物語の名手が描く会心の復讐劇
いったい人間はどれくらいの間、怒りのエネルギーを保てるものなのでしょうか。
「あの野郎!」とか「このくそヨメ!」とか猛烈にアタマにきたとしても、
その気持ちを3日も持続できるかというとなかなか難しいものがあります。
もしかしたら人間というのは元来、怒りや恨みといったネガティブな感情を
長く保ち続けることができないようにできているのかもしれませんね。
人間がたやすく怒りの感情を溜め込める動物だったとしたら、
おそらく人類はいまよりもずっと昔に滅んでいたに違いありません。
でも、ちょっとした怒りの感情でさえキープするのが難しいのだとしたら、
「誰かに復讐したい」という執念を保ち続けるのには
いったいどれくらいのエネルギーを要するのでしょうか。
物語巧者として知られるジェフリー・アーチャーの手になる
『誇りと復讐』上 下 永井淳訳(新潮文庫)は、
幸せの絶頂から絶望の淵へと突き落とされた男の復讐劇。
自動車修理工のダニーは、ある日プロポーズをし、承諾を得ることに成功します。
相手は幼なじみで、勤め先の社長の娘でもあるベス。
しかもベスの兄バーニーは昔からの大親友です。
ところが、祝杯をあげようと3人で出かけたワイン・バーで、
彼らは4人組の男にからまれ、喧嘩となった末に悲劇が起こります。
バーニーがナイフで胸を刺され殺されてしまうのです。
そしてあろうことか、警察は犯人としてダニーを逮捕します。
ダニーは無罪を主張しますが、
なにしろ相手の4人組はケンブリッジ大学出のエリートです。
職業も弁護士やコンサルタント、TVドラマで人気の俳優など
社会的な信用も絶大。(ただし一人を除いて。この一人が後ほど物語の鍵となります)
彼らは法廷でのふるまいも洗練されており、陪審員はすっかりダマされてしまいます。
ダニーの主任弁護士アレックスは、正義感にあふれる若者ですが、
自分たちの利益のためには他人の人生を狂わせることをためらわない
4人組の悪だくみを暴くには、いかんせん弁護士としての経験が浅すぎました。
弁護士アレックスの孤軍奮闘も空しく、ダニーは懲役22年の刑を宣告され
ベルマーシュ刑務所に収監されます。
誰もがダニーの人生はもう終わりだと思いました。
けれどもただひとりだけ、あきらめていなかったのがダニー自身でした。
自分を陥れ、親友の命を奪い、愛するベスを苦しめた連中を絶対に許さない!
刑務所の中で、ダニーの壮大な復讐劇が幕を開けます。
今年で古稀となる著者のジェフリー・アーチャーは、英国文壇きっての物語巧者です。
読者の予想とはまったく違う方向へとストーリーを引っ張るのはお手のもの。
ダニーも思いもよらない方法でベルマーシュ刑務所から脱出します。
(ただしこの方法はかなり荒唐無稽なもので賛否両論分かれるのは必至です。
活字だからかろうじて成立するのであって、映像でこれをやったら白けてしまうかもしれません)
再び囚われの身となり、5つの大罪で告発され絶体絶命のダニー。
けれども神はダニーを見捨ててはいませんでした。
ここで伝説の弁護士が登場し、主任弁護士のアレックスに秘策を授けます。
そして英国中が見守る中、運命の評決が下されるのでした――。
周到にはりめぐらされた伏線といい、最後の最後に救いのある展開といい、
『誇りと復讐』は胸のすく読後感のエンターテイメント作品に仕上がっています。
ひとりの男の復讐劇というだけではなく、法廷劇としても面白い読み物になっており、
さすがはジェフリー・アーチャーというべきでしょう。
ご存知ない方のためにひと言申し添えておくと、
ジェフリー・アーチャーは、常にスキャンダルがつきまとわれる作家です。
英国議会史上最年少の議員として下院入りを果たしたかと思えば、
株式投資詐欺に引っかかり議員辞職を余儀なくされ、
復活してサッチャー政権の要職についたかと思えば、
セックス・スキャンダルで政界から身を退かざるをえなくなります。
極めつけは、ふたたび復活してロンドン市長選に立候補しようかというとき。
裁判での偽証の疑惑が持ち上がり、アーチャーは逮捕され、裁判の末、有罪が確定。
2年間にわたって刑務所生活を送るハメになります。
ちなみにこの時収監されたのが、ダニーが入れられたのと同じベルマーシュ刑務所。
ベルマーシュ刑務所は凶悪犯が集まるカテゴリーAの重警備刑務所で、
これまでただのひとりも脱獄できた者はいません。
そんなところにアーチャーは60歳を過ぎて放り込まれたわけです。
その結果どうなったといえば、アーチャーは刑務所の内部を克明に取材し、
獄中記を執筆して大金を稼ぎ、出所後に書かれた本書では、小説の中とはいえ、
主人公にあっと驚く方法でベルマーシュ刑務所史上初めての脱獄を成功させています。
なお、他のアーチャー作品も読んでみたいという方には、
ページを繰る手が止められなくなる『ケインとアベル』をオススメします。
最後に本書を翻訳された永井淳さんについて。
アーチャーのみならず、S・キングやR・ダールの翻訳者としても知られる永井さんが
先日お亡くなりになったことを、小林信彦さんの週刊文春のコラムで知りました。
小林さんによれば、永井さんはアーチャーから全幅の信頼を寄せられていたそうです。
『誇りと復讐』は永井訳で読める最後のアーチャー作品でもあることを書き添えておきます。
投稿者 yomehon : 2009年09月06日 20:28