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2009年08月12日
芥川賞受賞作『終の住処』が描く「夫婦の時間」
この世でヨメほど不可解な存在はありません。
考えてみれば不思議なことです。
毎日同じ場所で寝起きをともにし、同じものを食べ、
同じ日本語をしゃべる人間であるにもかかわらず、
どうしてこうもわかりあえないのか――。
磯﨑憲一郎さんの芥川賞受賞作『終の住処』(新潮社)では、
ある夫婦のあいだに流れた気の遠くなるような長い時間が描かれます。
出会いに始まり、娘が産まれ、家を建て、アメリカに単身赴任をし、帰国するまで。
こんなふうに要約すると、まだこの小説を手に取っていない人は、
世間にいくらでも転がっているありふれた夫婦の物語だと思うかもしれません。
でも違うんです。
『終の住処』は、ありふれた夫婦を描いているようにみえながら、
実に個性的な小説に仕上がっているのです。
では『終の住処』という小説の個性を際だたせているものは何でしょうか。
この小説では2つのことが徹底して描かれます。
ひとつは、妻とのディスコミュニケーションです。
ある時、主人公は妻と娘と連れだって遊園地を訪れます。
家族で観覧車に乗り、家に帰ったところから妻が口を利いてくれなくなります。
でもこの程度なら、どこの夫婦にも経験のあることでしょう。
恐ろしいのはここから。なんと妻はそれから11年も口を利いてくれないのです!
なぜ妻は口を利いてくれないのか。主人公も悩みます。
そして「観覧車にだけは乗っておきましょう」と言った妻のひと言に
なにか理由が隠されているに違いないと考え、観覧車の歴史を調べたりするのです。
たまたま観覧車に乗った後、口を利いてくれなくなったからって、
観覧車の歴史を調べてどうなるんだ、と滑稽に思う人もいるかもしれません。
けれども、ここで主人公のことを笑えないのは、論理的に考えよう考えようとする
主人公に、自分自信の姿を重ね合わせてしまうからです。
妻との不仲の原因を理詰めで考える。
ところがロジカルに考えれば考えるほど、
妻はますます理解不能な不気味な存在として立ち上がってくる。
世の男性諸氏には誰しも心当たりがあるのではないでしょうか。
「どうして遅く帰ってきたの」
とヨメになじられ、
「それは、これこれこういう理由で・・・・・・」
と午前様にも正当な根拠があることを証明しようとすると、
「そんなこと別に聞いてない!」
などと激高され、さらに状況が悪くなった、というようなことが。
男が観念的に頭で考えるレベルを、相手は超えてしまっているとでもいいましょうか、
ともかくこの小説で、妻は徹底的に男の理解の範疇を超えた存在として描かれます。
けれども、このようにコミュニケーションの成立しない者同士であっても、
たまたま夫婦になったというだけで、人生の長い時間をともに過ごすことだってあります。
この『終の住処』が、個性的な小説たり得ているもうひとつの理由がここにあります。
それはこの小説が、この気が遠くなるような「夫婦の時間」そのものを描こうという
野心的な試みに挑戦しているからです。
ところで、みなさんには過去を振り返ったときに、
過ぎ去った時間がまるで夢のように感じられることってありませんか?
そのようなものとしてぼくが思い出すのは、
子どもの頃、夏になるときまって行っていた夜市のことです。
その頃住んでいたのは山奥にある小さな城下町で、夏休みの時期は
週末になると開かれる夜市に足を運ぶのを楽しみにしていました。
なにしろ街灯も満足にないような田舎町です。
夜市の会場にはたくさんの裸電球が吊され、
その一角だけが闇の中に浮かび上がっているように見えました。
金魚すくいやヨーヨー、綿菓子や焼きトウモロコシなどの店が並ぶ様は、
一見、どこにでもある夜市の光景です。
けれどもぼくの記憶では、その夜市は決して普通のものではありませんでした。
そこにはいつも、「人ではないモノたち」が大勢いたのです。
彼らは、ある時は裸電球の向こうにひろがる真っ暗な路地に佇み、
またある時は盆踊りの輪の中に紛れ込んでいました。
なぜかはわかりませんが、それらが人にあらざるモノであることは、
子どものぼくにはたちどころにわかりました。
彼らはあらゆるところにいて、ぼくらと同じように夜市を楽しんでいたのです。
いまとなっては、その時体験したことが本当のことだったかなんてわかりません。
なにしろ記憶の彼方にある遠い昔の出来事ですから。
ただ、この夜市の記憶のように、遠く過ぎ去った大昔の出来事ほど、現実の手触りが消失し、
夢とうつつの境界が融けあったもののようになってしまうのではないかと思うのです。
『終の住処』において、夫婦のあいだに積み重なった
膨大な時間そのものを描写するのに作者が選び取ったのは、
さまざまな出来事を夢のように描くという方法でした。
この小説で描かれる過去の出来事たちは、
一様に現実の輪郭を失った夢の世界の出来事のように描かれています。
夏の朝に散歩をすれば頭上に滝が現れ、
離婚を切り出そうと妻をホテルに呼び出せば
いつの間にかそこは浮気相手との密会に使っているホテルになり、
空を見上げれば数ヶ月間満月が続いていて、
家を建てようと決心すれば二階まで手が届く巨体の老建築家が家にやってくる――といった具合に。
このように〈夢の文法〉を導入したことで、
この小説は過去の時間をうまく作品に取り込むことに成功しています。
(同じように夢の文法を使って書かれた小説に、蜃気楼の村マコンドを舞台に
ブエンディア家の百年間を描いたガルシア=マルケスの『百年の孤独』がありますが、
『終の住処』がこの偉大なる先行作品に大きな影響を受けていることは明らかです)
一切の出来事が夢のように感じられるほどに夫婦は長い時間を過ごし、
やがて主人公は次のように述懐するに至ります。
「その渦中にいるときにはただ早く過ぎ去って欲しいと思っていた、
彼を悩ましたいっさい――若いころの営業と接待漬けの日々、上司の罵声、
深夜残業、家計のやりくり、赤ん坊の夜泣き、寝不足のまま朝起き上がるときの辛さ、
どうしても抜け出すことのできない不倫関係、自己嫌悪、そして妻との、すれ違うばかりの
緊張した生活――それらのいっさいが、いまでは堪えようもなく懐かしかった。
まったく不思議なことだったが、人生においてはとうてい重要とは思えないようなもの、
無いなら無いに越したことはないようなものたちによって、かろうじて人生そのものが
存続しているのだった」(103ページ)
夫婦って何だろう・・・・・・。人生って何だろう・・・・・・。
時を重ねれば、いつしかぼくもすべてが懐かしいと思えるようになるのだろうか・・・・・・。
『終の住処』を読んで柄にもなくそんなことに思いを馳せてしまいました。
投稿者 yomehon : 01:02
2009年08月02日
今年の時代小説ナンバーワンは『弩』で決まり!
突然ですが、あなたは電車で本を読むとき、本にカバーをかけていますか?
朝の満員電車なんかでちょっと気をつけて周囲を見渡してみると、
あっちでもこっちでもブックカバーをかけているのが目にとまります。
ぼくは「かけない派」です。
最近ではどこの本屋さんでも必ず「カバーおかけしますか?」と聞かれますが、
その都度丁重にお断り申し上げていますし、うっかりカバーをつけられてしまったときも、
わざわざお願いして外してもらっています。ともかく断固として本にカバーはかけません。
なぜって?
だってもったいないじゃないですか。
いや、もったいないといっても、紙資源の無駄とかそんな意味じゃないですよ。
いま自分が読んでいる本がとんでもなく面白い本なんだってことを、
周りに知らせないのはもったいないじゃないかと。そんなふうに思うわけです。
要するに、本を愛する人間が「いまオレ面白い本読んでますよ!」と
周囲にアピールしなくてどうするんだ、というわけですね。
ちょっと想像してみてください。
あなたがものすごく美しくセクシーな女性だとしましょう。
朝の通勤電車で、目の前に立つオトコたちが新聞を読むふりをしながら
チラチラと顔や胸元を盗み見るのは、あなたにとっては年中行事のようなもの。
ところが、今朝目の前に立ったデブ男に限っては、
本を読むのに無我夢中で、いっさいあなたのことなんか眼中にありません。
いちどだけ、あなたが咳をしたときにチラッとこちらを見ましたが、
その目の色からはあなたについてなんの関心も認められませんでした。
にもかかわらず、このデブ男は、他のオトコたちがあなたを見つめるような
熱く情熱的な視線を手元の本に注いでいるではありませんか。
容姿に自信のあるあなたはすっかりプライドを傷つけられてしまいました。
そしてこう思うのです。
「わたしよりも魅力のある本ってなに?この人はいったいなにを読んでいるの?」
え?そんなこと思わないって?
いや、あのですね、つまりは何が言いたいかというと、
目の前の人が夢中で本を読んでいたら、
どうしたってその人の読んでいる本のことが
気になってしまうだろうってことを言いたいわけです。
通勤電車でぼくがこの本に熱中していた数日間も、
きっとたくさんの人がこの本のことを記憶にとどめたに違いありません。
(あいにく本が面白すぎて、美しくセクシーな女性がいたかどうかは憶えてないけど)
なにしろ表紙にはダイナミックに「弩」(ど)のひと文字が、
帯には書評家・北上次郎さんによる「2009年はこれだ」というコメントが踊っています。
人々の記憶に残るインパクト十分の面構えです。
『弩』下川博(小学館)は、血湧き肉躍る時代小説の傑作です。
今年もまだ半分残っているのにそんなこと言い切っていいのかと
言われるかもしれませんが、これから刊行されるものを含めたとしても、
おそらくこの小説にかなうものはないでしょう。今年の時代小説の白眉と断言します。
時代は14世紀中頃。
鎌倉幕府が滅亡へと向かい、やがて南北朝の動乱がはじまる混迷の時代です。
舞台となるのは、因幡の国の智土師郷(ちはじごう)。
現在の鳥取県智頭町那岐地区にあたります。
横浜市の金沢文庫が所蔵する「称名寺文書」には、
1342年、この土地の農民たちが村を護るために
侍たちを雇ったという史実が記されているそうです。
『弩』はこの史実にインスパイアされて書かれた作品です。
ストーリーの大筋は、「農民が侍を雇って野武士と戦う」といういたって単純なもの。
けれども『弩』は、いくつかの要素によって類例のない時代小説たりえています。
ひとつは農民たちが使った武器に「弩」を採用したこと。
「弩」(ど)は、古代中国で開発された弓の一種。
西洋ではクロスボーと呼ばれ、この物語と同じ14世紀の中頃には、
スイスでウィリアム・テルがクロスボーの名手として勇名を馳せていました。
特別な訓練も必要なく使えることから、鍛錬を旨とする武道からは敬遠され、
日本では武器としては定着しませんでしたが、この忘れられた武器である「弩」を
引っ張り出してきたことで、物語はユニークな輝きを放つようになりました。
しかもそこにはちゃんとしたリアリティの裏付けがある。
これがこの小説のふたつめの優れた点です。
鍬や鋤しか手にしたことのない農民が、侍崩れの悪党といかにして戦うか。
作者はおそらくこの点を徹底的に考え抜き、「弩」という武器を選んだに違いありません。
特別な技能を必要としない「弩」は、確かに素人用の武器としてリアルな選択です
でも武器が手に入ったからといって、悪党どもと対等に戦えるわけではありません。
やはり相応の戦闘訓練が必要となりますが、こういった場面も実にしっかりと描かれている。
「忘れるな。騎馬武者は馬上では左側からしか矢を射てぬ。狙われたら、右に右にと逃げるのだ!」
このような訓練シーンでのちょっとしたセリフにもリアリティがあります。
こうした小さなリアルの積み重ねが物語全体に説得力をもたせるのだということを
忘れてはいけません。
「弩」の入手方法もちゃんと考えられています。
いくら勇気を振り絞って悪党と戦おうと決心しても、結局戦うのには金がいる。
この物語の主人公の農民たちは、特産物の柿渋を商品化し、他国との交易で
塩を入手することで生み出した利益を武器の購入にあてるのです。
(この小説は、このように当時の経済をリアルに描いた経済小説の側面ももっています)
ところで、物語の舞台となった14世紀中頃は、
日本という国のかたちが定まるにはまだ遠く、
けれども近世に向けて商品経済のシステムなどが固まり始めた時期でもあります。
中世というのは日本史の中でもひじょうにダイナミックな時代ですが、
このような活力あふれる中世像を初めてぼくらの前に提示したのが、
歴史学者の故・網野善彦さんです。
この小説『弩』は、明らかにこの網野史学の影響下に書かれています。
まだ定まらぬこの国のかたち、跳梁する悪党ども、村々を行きかう漂白民たち――。
この小説の背景にあるのは、網野善彦が描いた躍動する中世像そのものです。
超弩級の面白さを持つ『弩』を堪能した後は、
ぜひ網野善彦さんの本も読んでみてください。
どれもオススメですが、この小説の時代背景と直接関係のあるものとしては、
『無縁・公界・楽』や『異形の王権』(いずれも平凡社ライブラリー)などをぜひ!
投稿者 yomehon : 20:56