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2009年05月05日

余命30日の戦士


気がつけば季節はいつのまにか風薫り緑あざやかな初夏の装いを帯びています。
年をとると時間のたつのが早くなると言いますが、たしかにその通りで、
正月休みがついこのあいだのよう。それがもう5月だなんて信じられません。


そういえば先日読んだ福岡伸一さんの『動的平衡』(木楽舎)に、
なぜ年をとると時間が早く過ぎるのか、その秘密が書いてありました。
加齢とともに時間の経過が早く感じられるのは、「体内時計」と関係があるのだそうです。

体内時計の秒針のはたらきをしているのは、タンパク質の新陳代謝速度なのですが、
この新陳代謝のスピードは加齢とともに遅くなっていきます。
つまり、年をとればとるほど体内時計はゆっくりと回るようになるわけです。
にもかかわらず、物理的な時間のスピードは変わりません。するとどうなるか。
自分ではまだ半年くらいしか経っていないように感じるのに、
実際には1年が過ぎ去ってしまっている。そういうことが頻繁に起きるようになるのです。


でもここでぼくはハタと考えてしまうのでした。
寿命が極端に短い生き物にとって、一生はどのように感じられるのだろう?

『風の中のマリア』百田尚樹(講談社)の主人公はなんとスズメバチです。
しかも驚くべきことに、スズメバチのワーカー(ハタラキバチ)は
羽化してわずか30日しか生きることができません。

「スズメバチを主人公にした小説」と聞いて、子ども向けの童話のようなものを
思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれませんがそうではありません。
昆虫界の食物連鎖の頂点に立つスズメバチのなかでも最大の体長と最強の戦闘能力を誇る
オオスズメバチ(学名:ヴェスパ・マンダリニア)の一生を描いたれっきとしたエンタテイメント小説です。

主人公はオオスズメバチのワーカーのマリア。
メスだけで構成される「帝国」(巣)に忠誠を誓った戦士である彼女の仕事は、
腹をすかせた幼虫たちのために他の昆虫を狩ることです。

オオスズメバチの武器は、どんな固い鎧をまとった甲虫も噛み砕く巨大なアゴと牙、
それに大型の哺乳動物を殺傷する威力を持った毒液を噴出する太い針。
性格は非常に獰猛で、攻撃力はもとより防御能力にもすぐれています。
まさに戦うために生まれてきたような昆虫といっていいでしょう。
マリアはそんなオオスズメバチの中でも指折りの戦士です。


物語はごくごくシンプルです。
マリアは壮絶な戦いの日々を送り、そんな生き方にふと疑問を抱いたり、
偶然出会ったオスに淡い恋心を抱いたり、帝国の秘密を知って動揺したりします。
そして新しい命を守るために最期の戦いにのぞみ、その短い生涯を終えます。

ヒロインがスズメバチであることを除けば、
こういったストーリー展開自体は、特段珍しいものではありません。

にもかかわらず、この小説がオリジナリティに溢れているのは、
ひとえにスズメバチになりきったかのような作者の描写力と、
適切なタイミングで差し挟まれるスズメバチの生態に関する情報によっています。

たとえば初めてのマリアの飛翔はこんなふうに描かれます。


「アリアは翅をふるわせた。
背中の筋肉が熱を帯びてくるのがわかる。ぶうんという翅の音とともに
全身に心地よいリズムが漲る。幼虫時代には一度も味わったことのない躍動感だ。
体重が次第になくなる不思議な感覚にマリアは戸惑った。次の瞬間、地面に着いていた
肢が離れた。あっと思った時、マリアの体は宙に浮いていた。
眼下の風景がみるみる小さくなっていく。
マリアは飛んでいた」


読んでいるこちらも浮遊感をおぼえるような描写ですが、
作者はこの直後に、「巣をみながら後ろ向きに飛べ」という
先輩バチのアドバイスを差し挟むことも忘れません。


「ローラの言葉にマリアはうなずいた。
そして巣を見ながら後ろ向きに飛んだ。最初は一メートルほどの高さで
円を描くように飛んでから、いったん地上に降りた。次にもう少し高く飛び、
円を一回り大きく描くように飛んだ。何度か繰り返すうちに、
徐々に飛行の感覚が身に付き、同時に巣の位置が頭に入ってきた」


これは「オリエンテーション・フライト」と呼ばれるもので、
スズメバチのワーカーは初めて巣から飛び立つときに必ずこれをやるそうです。
オリエンテーション・フライトによって自分の巣の周囲の地形を記憶することで、
ワーカーはたとえ十キロ先からでもちゃんと巣に帰還することができるのだそうです。

作中の随所に配されたこのような情報によって、
ぼくらは主人公に同化するという小説的な読み方だけではなく、
まるですぐれた科学読み物を読むように
スズメバチの知られざる生態をも知ることができるのです。

言葉を換えれば、「スズメバチのヒロイン」などという
一風変わった設定の小説であるにもかかわらず、
それがちゃんとエンタテイメントとして成立しているのも、
作者の徹底的な取材による裏付けがあったればこそではないでしょうか。


そういえば作者の百田尚樹さんの前作は、
『BOX!』(太田出版)という抜群に面白いボクシング青春小説ですが、
あの小説でも、肉を打つ音が聞こえてくるかのような迫真の戦闘シーンの描写と、
ボクシングに対するきめ細かい取材の成果が見事に結びついていました。

描写力と取材力。
作家としてはまだ新人と呼んでも差し支えないキャリアなのに
このふたつを兼ね備えているのはスゴいと思います。
(ちなみに百田さんはもともと「探偵!ナイトスクープ」などを手掛ける放送作家でした)


さて、ところでオオスズメバチのマリアは、
どのような思いを胸にその生涯を閉じるのでしょうか。
この小説のいちばんの読みどころはこのクライマックスにあるといってもいいでしょう。

なにしろその命はわずか30日。
人間からみればいたずらに短い命です。

けれどもマリアの命の燃焼のさせかたは、
時間の長短を超越してぼくらに大切なことを訴えかけてきます。

その大切なこととは何か。
ぜひそれはこの『風の中のマリア』を読んで
あなた自身の目で確かめてみてください。

投稿者 yomehon : 2009年05月05日 02:05