«  お待ちかねディーヴァーの新作にニューヒロイン登場! | メイン | まだ間に合う「源氏物語」 »

2008年11月09日

新しい「忠臣蔵」の誕生


時は元禄十五年十二月十四日、子の中刻(十五日午前零時)。
残雪が皓々たる月光に映える中、凍てついた道を急ぐ一群の男たちがいた――

なんて感じの文章を読めば、誰もがピンとくるはず。
主君の無念を晴らすため義に殉じた忠臣たちの物語といえば――そう、「忠臣蔵」です。

元禄十四年三月十四日、殿中松の廊下で浅野内匠頭が
吉良上野介を小刀で斬りつけるという前代未聞の事件が発生します。
幕府の対応は素早く、内匠頭は即日切腹に処せられ、
一方「恨まれる覚えなし」と主張した上野介はお咎めなしとなりました。

幕府の処分により浪人の身となった赤穂浪士たちは、
雌伏の時を経た後、吉良邸の襲撃を敢行。
上野介の首をとり、亡き主君の無念を果たすというのが、
誰もが知る「忠臣蔵」のストーリーではないでしょうか。


一連の事件が「忠臣蔵」の名で親しまれるようになったのは、
事件から半世紀近くたった寛延元年(1748年)、大坂で初演された
人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』が大当たりをとって以来のことだそうです。

それから今日にいたるまで、忠臣蔵を題材とした小説や映画やテレビドラマは
いやというほどつくられてきました。

けれども、これほどまでに「忠臣蔵」が世の中に氾濫しているにもかかわらず、
実は事件の核心ともいえる謎はいまだ解明されないままなのです。

その謎とはなにか。

「浅野内匠頭はなぜ吉良上野介を斬りつけたのか」という謎です。


時代小説の新星・加藤廣さんの『謎手本忠臣蔵』上巻 下巻(新潮社)は、
この忠臣蔵の核心にある謎の解明に挑戦し、これまでにない新しい忠臣蔵を
創り出すことに見事成功したオススメの一作です。


「内匠頭はなにゆえ上野介を斬りつけたのか」

謎を解き明かすためのポイントとなるのは、
吉良上野介が幕府でどんな役割を担っていたかという点です。

吉良家は高家(こうけ)という役職にありました。
由緒正しい名家・名門から選ばれる高家は、
おもに幕府の儀式典礼を司るのが仕事ですが、
幕府の命を受け、しばしば朝廷への使者も務めてきました。

この「吉良上野介が朝廷に対する交渉役だった」という事実が、
実は忠臣蔵の謎を解き明かすうえで重要な糸口となるのです。

その謎解きの面白さはぜひ本書でご堪能いただくとして、
ここでは、赤穂浪士の事件によって幕府と朝廷とのパワーバランスは
その後大きく変わることになる、とだけ申し上げておきましょう。


この本の面白さは謎解きだけにととどまりません。
読者をぐいぐいとひきつける大きな魅力となっているのは、
まず本書で作者がもっとも力を注いだと思しき「諜報戦の描写」です。

幕府、朝廷、大石内蔵助――彼らがいかに情報を入手し、どのように分析し、
情報操作を行うかというディテールがみっちりと書き込まれている。

忍び、密偵、二股諜者(ふたまたちょうじゃ=二重スパイのこと)などが跋扈する
スパイ戦の面白さは、この小説の読みどころのひとつです。


史実に忠実に寄り添いながら物語を組み立てているところも好ましい。

赤穂浪士は決して一枚岩ではなく、内部に対立や相互不信などを抱えていたことは、
たとえば『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』野口武彦(ちくま学芸文庫)などが
明らかにしています。そのような専門家の研究成果をどん欲に取り入れて書かれた
物語はどこまでもリアル。正確な時代考証をもとに物語を組み立てておきながら、
最後の最後で小説的想像力を飛躍させているのが、この小説の魅力でもあります。


おしまいに作者の加藤廣さんについても触れておきましょう。
時代小説のジャンルは近年優れた人材を次々と輩出していますが
作者の加藤廣さんのデビュー作を読んだときにはさすがに驚きました。
なんと加藤さんがデビューされたときのお年が75歳だったからです。

デビューが遅い時代小説作家といえば、故・隆慶一郎さんもそうですが
彼ですら『吉原御免状』を世に問うた時は60歳でした。
(ちなみにぼくの時代小説こころのベストワンはこの『吉原御免状』です)

しかもデビュー作『信長の棺』は、
とても75歳の老人(失礼!)が書いたとは思えない斬新な作品でした。

なにしろ本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったという
歴史の謎に大胆に挑み、ひじょうに説得力のある説を提示したうえに、
時代小説と本格推理が結びついたような「あっ!」と驚く小説的仕掛けを
施すという、信じられない離れ業をやってのけているのですから。


そういえば、 『謎手本忠臣蔵』『信長の棺』も、
歴史上の大きな謎をテーマとしていることでは共通しています。

加藤廣さんの小説は、面白いだけでなく、いくつになっても旺盛な好奇心さえあれば
素晴らしい仕事ができるのだということも、ぼくたちに教えてくれているような気がします。

投稿者 yomehon : 2008年11月09日 22:37