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2008年07月20日
直木賞受賞作『切羽へ』は大人のための少女小説である!
いや~思いっきりハズしてしまいました。
第139回直木賞はご存知のとおり
井上荒野さんの『切羽(きりは)へ』(新潮社)が受賞しました。
個人的には予想屋の一線を踏み越えて、
「いかに世の中を騒がせるか」という
なかば興行主的な視点から
『のぼうの城』を推していたんですが、
意外にも受賞作に選ばれたのは、候補作の中では
いちばんおとなしめなたたずまいの『切羽へ』でした。
ともあれ受賞はおめでたいことです。
あらためて『切羽へ』をちゃんとご紹介いたしましょう。
この小説はとても印象的な書き出しで始まります。
「明け方、夫に抱かれた。
大きな手がパジャマの中にすべり込んできて、私の胸をそうっと包んだ。
その指がゆっくり動くのを、私は眠りの中で感じていた。夫は、夜更けて
布団に入ってくるとき、私を眠らせたまま抱こうとすることがよくあった」
離島の小学校で養護教諭をしている妻と画家の夫。
本の帯には「彼に惹かれてゆく、夫を愛しているのに――」とあって、
主人公がこれから他の男に心を奪われる運命にあることを読者も知っています。
だからこそこの冒頭の描写は効果的です。
夫はまだ何も知らない。もちろん妻も――。
読者はふたりの行く末に不穏な影を感じとる一方で、
これからいったい何が起きるのかと期待を膨らませるのです。
物語の舞台となっているのは、おそらく長崎あたりの離島です。
この島の小学校にある日、東京から石和という男が赴任してきます。
閉鎖的なコミュニティに外部から来訪者がやってくる。
普遍的な物語の形式を踏襲しています。
物語は当初、何かが起きそうな予感に満ちています。
たとえば春休み最後の一日を過ごす主人公の描写。
夫は個展の打ち合わせで上京して不在です。
この一日の描写のそこここに、作者は巧みに
性的なものを連想させるアイテムを忍び込ませていきます。
主人公がしずかさんという一人暮らしの老婆を訪ねたとき、
旦那にちゃんと抱かれていないんじゃないかとからかわれ、
海沿いの道で春の海に「なまめかしい匂い」を感じ、
教え子の母親からは夫の不在を言い当てられ動揺し――というふうに。
「もちろん、トシコの母親は、私が一人で散歩しているから、
そう言ったのかもしれない。けれども私は、しずかさんがからかったように、
自分の体の隅々が、この数日夫に触れられていないことを
歌いたてているような気がした。あるいはぴちぴち跳ねる魚――
さっきトシコが見せてくれた青いガラスのような目をした魚や、
匂いたてる熟れすぎた果物を、お腹の前に抱えて歩いているようにも」(31ページ)
このくだりの直後に、主人公は集合住宅の前で
偶然会った男と初めて言葉を交わすのです。
このあたりの持って行き方はとてもうまい。
この後、主人公は次第に男に惹かれていきます。
夫がいるにもかかわらず別の男に心が傾いてゆく。
その様子を、作者は「切羽」にたとえます。
「トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。
トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、
掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」 (195ページ)
けれども、こんなふうに語るわりには主人公は最後まで一線を越えません。
これが僕には不思議でならない。
いい年をした男女が出会い、何かが起きる予感があるにもかかわらず
なにもないということがあり得るだろうか。
そう思ってしまうのです。
たとえば直木賞の選考委員でもある林真理子さんには
『不機嫌な果実』(文春文庫)という不倫小説の傑作があります。
この中で、男と初めて関係をもった後、帰宅した主人公が
バスルームで脱いだ下着に情事の痕跡を認め、洗濯機をまわす場面が出てきます。
エロティックな情事の記憶と主婦としての生活感が
見事なまでの合わせ技で描かれていて、
「ああ主婦が不倫するとこういう感じなんだろうな」とうなずける
リアリティの感じられる描写です。
『切羽へ』にはこの『不機嫌な果実』が持っているようなリアリティがないのです。
これではまるで少女小説のようではないか――ここで僕はハタと気がついたのでした。
「そうかこの小説は少女小説の大人版なんだ!」
そう考えれば、こういう小説もありかも、と思えます。
「私たちは見つめあった。辺りが暗くて、もう表情もよくわからなかったが、
石和は本当はこんな顔をしていたのだと、そのときはじめて知った気さえした。
石和は指を二本、自分の唇にあてた。それからその指を私のほうへ近づけた。
素早い、乱暴とさえいえる動きだったのに、指は私の唇の前でふっと止まった。
『さようなら』 」(195ページ)
ああ、まさに少女小説のようだ。
平成の世にこんな別れ方をする
大人の男女が現実にいるだろうか!
でも心理描写は繊細だし、
この手のナイーブな小説が好きな人にはおすすめできる作品です。
「もうちょっとリアリティのある作品のほうがいい」という人には、
同じ井上さんの作品で、前回の直木賞候補にもなった短編集『ベーコン』がおすすめ。
僕は、出会ったばかりの若いサラリーマンを家に招き入れてセックスし、
その夜何事もなかったかのように家族のために夕食を作る主婦の話が
特に印象に残っています。女の底知れなさを感じてゾッとしました。
井上荒野さんはそういうお話も書ける作家です。
投稿者 yomehon : 2008年07月20日 00:45