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2008年04月27日
遺伝子のワルツ
小説やマンガなどを語るときに、
よく「キャラクターが立っている」という表現が使われます。
登場人物に血が通っていて存在感があり、
物語の中でいきいきと動いている、というぐらいの意味だと思ってください。
(ちなみに、最初にこのことを言い始めたのは、劇画の神様・小池一夫氏です)
エンターテイメント小説の世界では特に、
キャラが立っているかどうかというのがその作品の成否をわけます。
キャラクターの造型とその描き方はまさにエンタメ小説の生命線といえます。
エンタメ小説界きってのキャラ造型の名手といえば、
真っ先に思い浮かぶのが海堂尊氏の名前です。
デビュー作『チームバチスタの栄光』で感心させられたのは、
読み手の心をとらえて離さないキャラクター造型の巧みさでした。
東城大学付属病院の万年講師・田村と厚生労働省の変人役人・白鳥。
この陰陽くっきりわかれるふたりの主人公を作り上げた時点で、
この作品の成功は約束されたも同然だったのではないでしょうか。
海堂作品のキモは、作品のテーマよりも、このキャラクター造型の上手さです。
彼はデビュー作からたびたび作品の中でAi(死亡時画像診断)の必要性を訴え、
その熱意が高じて『死因不明社会』という啓蒙書も著していますが、
エンタメ小説では何が大切かという観点からいえば、作品のテーマや主題は
(著者の思い入れは別にして)残念ながら二の次と言わなければなりません。
なによりもまず、魅力的なキャラクターが描かれているかどうか。これが大事です。
というわけで、海堂さんの新作『ジーン・ワルツ』(新潮社)です。
主人公は、美貌の産婦人科医・曾根崎理恵。
海堂作品ではお馴染み桜宮市の東城大学医学部を卒業後、
東京にある帝華大学に入局した顕微鏡下人工授精のエキスパートです。
キャラクター造型の名手である作者が今回
主人公の曾根崎理恵に与えたのは、
「冷徹な魔女」(クール・ウィッチ)なるニックネームでした。
その呼び名は、顕微鏡のレンズの向こうで、
髪よりも細い硝子管を冷静に操り生命を創り出す
彼女の腕前を指すものであると同時に、
用心深く、つねに最悪の状況を考えて行動する
彼女の冷徹な性格をあらわしたものでもあります。
でも、これだけならただ単にクールなヒロインに過ぎない。
作者はさらにここで、主人公自身が、女性としての辛い決断を
迫られた過去を持っていることをつけ加えるのを忘れません。
夫と別居し、産婦人科医療の最前線で孤独に戦う
主人公の抱える苦悩や弱さを目の当たりにするうちに、
次第に僕たちの中で「曾根崎理恵」というキャラクターが
血の通った存在としてゆっくりと立ち上がってきます。
今回もキャラクターの魔術師の妙技は健在です。
『ジーン・ワルツ』のストーリーも紹介しておきましょう。
主人公の理恵は、大学で授業を行うかたわら、
「マリアクリニック」という産婦人科クリニックに
非常勤医師として通っています。
そんな彼女のもとを5人の妊婦が訪れます。
自然妊娠の妊婦が3人。人工授精が2人。
ごく普通に妊娠した者、仕事と出産の両立に悩む者、堕胎を望む者、
不妊治療に苦しむ者、超高齢で双子の出産に挑戦する者――。
作者は巧みにこの5人に現代の出産事情を投影させていて、
この手の話に疎い読者にもよくわかるような配慮がなされています。
さらに彼女たちが出産に向けて「母」へと変貌していく様子も
この小説のドラマティックな読みどころとして見逃せません。
物語はやがて、理恵に代理母出産の疑惑がかけられたあたりから
サスペンスの様相を見せ始めます。その真相はぜひ本をお読み下さい。
ところでこの小説を通じて作者は
僕たちにどんなメッセージを届けようとしているのでしょうか。
それはたぶん物語に埋め込まれた次のような箇所ではないかと思うのです。
「どうしてみんな不思議に思わないのだろう。
たったひとつの単細胞、受精卵からこんな複雑な物体ができあがる。
そして、たった一ヶ所の遺伝子のコピー間違い、
一組の染色体の分離不全が致命的なエラーを引き起こす。
ひとつの細胞がここまでの複雑な物体になるのに、
一体どれほどの分岐点を正確に突破しなければならないのか。
そういうことを考えず、ふつうに産まれて当然、と人々は考える。
理恵にはその鈍感さが理解できない。
人を構成するすべての細胞に、同一の染色体のペアが含まれ、
そのDNA鎖は引き延ばすと二メートルにも達する。
三十億の塩基対が三万の遺伝子の情報を伝達する。
それらがすべてきちんと作動してはじめて、受精卵はヒトの個体に成長できる。
途方もない話だ」 (45―46ページ)
親から子へと伝えられる遺伝子のDNA配列が、
タンパク質をつくるアミノ酸の製造法を記した大切な暗号文だとするならば、
暗号のベースとなる塩基のアルファベットはA、T、G、Cの4文字で、
この塩基のうち3つの組み合わせが一種類のアミノ酸を指定しています。
このことを作者は、「生命のビートは三拍子、つまりワルツなのだ」と表現します。
遺伝子のワルツ――なんともロマンティックな響きではありませんか。
その踊りは、奇跡を生み出す踊りでもあるのです。
さて、 『ジーン・ワルツ』で初めて海堂尊さんの小説に触れたという方は、
この機会にぜひ他の作品も読んでみてください。
作品がつながっているのも海堂作品の特徴のひとつで、
たとえば『ジーン・ワルツ』を読んで生まれた子供のその後が気になったという人は、
『医学のたまご』を。大学病院という世界が気になる人、また強烈な別キャラクターが
活躍する物語を楽しみたいという人は、 『チームバチスタ』にはじまる一連の作品を
手にとってみることをおすすめします。
投稿者 yomehon : 2008年04月27日 22:33