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2008年03月09日
美登利と緑子
川上未映子さんの芥川賞受賞作『乳と卵(ちちとらん)』(文藝春秋)が
ベストセラーになっています。
受賞作が掲載された『文藝春秋』が刊行された時だったと思いますが、
新聞広告に「平成の樋口一葉」というコピーが添えられていて
「いくらなんでもそりゃ大げさだろう」と感じたのですが、
今回あらためて『乳と卵』を読んでみて
「なるほど確かにこれは樋口一葉に違いない」と納得したのでした。
物語は東京で暮らす妹のもとへ、大阪から姉とその娘が上京してくるところから始まります。
離婚してホステスをしながら娘を育てている姉の巻子は、40歳を目前にして
なぜか豊胸手術がしたいと言いだし、娘の緑子を連れて上京してきます。
一方、娘の緑子はまもなく初潮を迎えようとしていて、胸の内に複雑なものを抱えています。
そんなふたりが語り手の妹の目を通して描かれています。
一読してすぐ気がつくのは「からだ」に関する描写や記述がとても多いこと。
たとえば物語中に時折挿入される緑子の日記では、自らのからだの変化に
過敏にならざるを得ない少女の戸惑いがたびたび綴られています。
「クラスのだいたいに初潮、がきてるらしいけど、今日はことばについて考えると初潮の初は
初めてという意味でわかるけど、じゃあうしろのこの潮というのはなんで、と思いますに調べたら、
(略)いろいろ意味がおおくて、書いてあることは太陽の引力のあれやこれで海水が満ちたり引いたり、
まあ動くこと、波、それのことで、いい時期、ともあって、んでわからんのがほかにはなぜか愛嬌、
とかも書いてあって、愛嬌を調べたら、これにもいろいろあったけれど目にはいってきたのは、
商店で客の気を引く、とか、好ましさ、を、感じさせる、とかがあり、なんでこれが、股んとこから
血の初めて出る、初潮と関係があるのかさっぱりわからんでなんとなくむかつく」
それだけではありません。
川上さんの文章は大阪弁で自由奔放に書かれているようにみえて、
実は緻密に計算されて言葉が選ばれています。たとえば比喩ひとつとっても、
読む者に「からだ」を連想させるような表現が慎重に選ばれている。
そこでは、混雑する山手線は「人がこの場で即席で人を生んでいるよう」であり、
汗は「小さな生き物のように皮膚の上をじりじりと移動をする」のです。
まだまだあります。
銭湯のシーンでは女性たちのからだがカタログのように執拗に描写され、
中華料理屋のシーンでは縁の欠けた椀でスープを飲もうとする緑子の唇が
切れるのではないかという想像に「わたし」が囚われ、その口元が舐めるように描写されます。
このように、これでもかというくらいに「からだ」を想起させる表現を散りばめながら
作者が扱おうとしているのは、〈女のからだ〉というテーマです。
初潮を迎える前の少女(緑子)、
既に出産を経験した女(巻子)、
そのどちらでもない女(わたし)。
この3つのタイプの女性が形作るトライアングルの中から、
〈女のからだ〉というテーマが立ち現れてきます。
(そういえば「三角関係」というのは樋口一葉の小説でもお馴染みです)
ところで、〈女のからだ〉とは何でしょうか。
これについては、緑子の日記の中に実に鋭い指摘があります。
卵子について調べた際、それが生まれたばかりの女の赤ちゃんの卵巣の中にも
あることに驚いた緑子は、日記にこう書き付けます。
「生まれるまえからあたしのなかに人を生むもとがあるということ。
生まれるまえから生むをもってる」
そう、〈女のからだ〉とは「生まれるまえから生むをもってる」からだのことではないでしょうか。
そしてわが国で、このような〈女のからだ〉を初めて
真正面から扱った作家が、誰あろう樋口一葉その人だったのです。
樋口一葉こと樋口なつは、明治5年(1872年)に生まれました。
甲斐国(山梨県)から江戸へ駆け落ちしてきた両親のもとに生まれ、
父親が高利貸しを営んでいたことから裕福な少女時代を送りますが、
父が亡くなった後は貧乏のどん底に突き落とされます。
母や妹とともに針仕事や洗濯で生計をたてながら小説家を志し、
晩年に次々と傑作を発表した後、肺結核で24年の短い生涯を閉じます。
樋口一葉が『たけくらべ』『にごりえ』『大つごもり』『十三夜』などの
傑作を書いたのは、死の直前のわずか14ヶ月のことでした。
一葉の傑作評伝を書いた作家の和田芳惠さんは、
この14ヶ月を「奇跡の14ヶ月」と名付けました。
以降、この「奇跡の14ヶ月」という言葉は
樋口一葉を語る際に欠かせないものとなります。
「奇跡の14ヶ月」に書かれたものの中でも至高の傑作は『たけくらべ』です。
なぜならこの『たけくらべ』は、文学史上初めて初潮が描かれた画期的な作品だからです。
『たけくらべ』の舞台は吉原です。主な登場人物は、
やがて遊女になることを運命づけられた美登利と、
寺の息子である信如、そして金貸しの息子正太郎の3人。
(お馴染みの三角関係のモチーフです)
文学を都市と結びつけながら読み解く独創的な仕事で知られた前田愛さんは、
『たけくらべ』を「私たちにとって二度と繰り返すことの出来ない子どもの時間が
封じ込められている物語」と呼びました。( 『都市空間のなかの文学』 )
おきゃんで子供たちの間で女王さまのように振る舞う美登利、
彼女に淡い恋心を抱いている信如と正太。この幸福な三角関係はやがて
美登利に訪れた初潮によって唐突に終わりを遂げます。
物語で描かれるのは、千束神社の夏祭りから11月の酉の市までの間。
この夏から秋へと季節が移ろうわずかな間に、
美登利のからだも子供から大人へと変貌を遂げるのですが、
この変化を一葉は実に巧みに描写しています。
雨のそぼ降る中、届け物を言いつけられた信如は、
美登利の家の前で下駄の鼻緒を踏み切ってしまいます。
窓越しに誰かが鼻緒を切ったらしいと気づいた美登利は、
抽斗から友禅縮緬の切れ端をつかんで入り口まで出てきたところで、
相手が信如であるとわかって顔を赤らめます。
普段の美登利であれば、往生する信如に憎まれ口のひとつもたたくところなのに、
胸がドキドキして声を掛けることも出来ません。
一方、信如も信如で、美登利にどう対していいかわからず、目すらあわせられない。
とうとう美登利は格子戸からきれを投げ出すと家の中に引っ込んでしまいます。
信如の足下、雨でぬかるんだ地面に散った真っ赤な紅葉柄のきれ。
なんと美しい場面でしょう。日本文学史きっての名場面です。
けれど美しいだけではありません。
紅色には同時に、美登利の血の色を連想させる視覚効果もあるのです。
視覚効果に優れた場面は『乳と卵』にもあります。
別れた夫と再会し酔っぱらって帰宅した巻子と緑子が衝突し、
台所で玉子をそれぞれ自分の頭にぶつけあうシーンがそれです。
黄身と白身でぐじゃぐじゃになりながら思いのたけをぶつけあうこの場面も、
読む者の脳裡に鮮やかな印象を残します。
美登利から緑子へ――。
初めて〈女のからだ〉と真正面から向き合った樋口一葉の文学的遺伝子は、
1世紀以上がたった今、確実に川上未映子に受け継がれているといえるのではないでしょうか。
最後に。
現代の読者には非常に読みづらくなっている樋口一葉の文章ですが、
河出文庫から現代語訳のシリーズが出ていますので、ぜひ手に取ってみてください。
特に『たけくらべ』は松浦理英子さんの渾身の名訳で読むことができます。
小説よりも一葉自身のドラマチックな人生に興味があるという方は
ぜひ評伝をお読み下さい。一葉は実は謎の多い作家で(たとえばそのひとつに
彼女が処女か非処女かという謎があります)たくさんの評伝が出ていますが、
「これから一葉を読んでみたい」という人にいちばんおすすめなのは、
瀬戸内寂聴さんの『炎凍る 樋口一葉の恋』(小学館文庫)です。
ともかく樋口一葉を読まないなんてもったいなさすぎる!
ぜひ川上未映子さんの小説と読み比べてみてください。
投稿者 yomehon : 2008年03月09日 20:17