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2008年01月26日
この男、馬鹿かそれとも大物か
神保町の東京堂書店1Fの新刊棚といえば、
「ここをのぞくだけでいま読むべき本がわかる場所」として
本好きのあいだではつとに知られたスポット。
ある日のこと。いつものように棚のまわりを回遊していると、
「こっちだよ!」「こっちこっち!」とこれまたいつものように
新刊たちがキラキラオーラを発しながら愛想を振りまいてくる中、
妙に渋い独特の存在感を持った本が目にとまりました。
個性的な作風で知られる漫画家オノ・ナツメさんの手になる
眠そうな目をしたお侍の横顔のイラスト。
そして「のぼうの城」という不思議なタイトル。
手にとってみてこれが時代小説だと気がつくのにしばらくかかったほど、
その本は個性的なオーラを放っていました。
『のぼうの城』和田竜(小学館)は、デビュー作ながら
これまでにないまったく新しいヒーロー像を創出することに成功した、
きわめて面白い戦国時代小説です。
時は戦国の世。
天下統一を目指す秀吉の軍勢が、関東の覇者・北条家の討伐に乗り出します。
舞台となるのは、北条家に仕える成田氏の居城である武州・忍城(おしじょう)。
忍城はいまの埼玉県行田市に位置した戦国史上に残る名城です。
なにをもってして名城かといえば、この忍城、別名を「浮城」といい、
洪水が多い地の利を活かし、一帯の島々を城郭とした天然の要塞だったのです。
(ああもうこの舞台設定だけでワクワクしてしまう!)
秀吉に「武州忍城をすり潰せ」と命じられるは、石田三成。
天下にその名を轟かせる知恵者なれど武功に恵まれぬ三成は、
秀吉に与えられた二万の軍勢をもって忍城の制圧を図ります。
ところがそこにひとりの男がのっそりと立ちはだかります。
その男の名は成田長親。
成田家の当主・氏長の従兄弟で、北条家を助太刀して小田原城に籠もる
氏家になりかわり、忍城の城主を務めるこの男こそが、
これまでどの時代小説にも描かれることのなかった画期的なヒーローなのです。
けれどその人物像は英雄豪傑からはほど遠い。
なにしろこの男、図体ばかりでかく、泰然としているが愚鈍で、
領民からも面と向かって「のぼう(でくのぼう)様」と呼ばれる体たらく。
好んで農作業を手伝おうとして、あまりの不器用さに農民から邪魔者扱いされ
しょげ返ってしまうような男のどこがヒーローなのか。
実はそこがこの物語のキモの部分でもあるのですが、
こののぼう様、なにをやらせても役に立たないでくのぼうでありながら、
ただひとつ人の及ばぬ美点を持っています。
それは、誰からも愛される「人気者」であるという点。
その人気は半端なものではありません。
たとえ死ぬかもしれなくても、農民たちは「のぼう様のためならしようがない」と
苦笑しながら戦への参加を申し出ます。人望があるというのともちょっと違う、
みんなから馬鹿にされながらも愛されるキャラクター。
こんなヒーロー像はこれまでの時代小説にはありませんでした。
のぼうという類い希なるキャラクターを引き立てるのは、よく練られたストーリーです。
三成の軍勢からいかに忍城を守るか。
この攻防が物語のいちばんの読みどころになっているのですが、
夢中で読みながら僕が思い浮かべたのは、酒見賢一さんの『墨攻』(新潮文庫)でした。
中国戦国時代に独特の博愛主義を唱えて城を守る側に加担した武装集団・墨家。
『墨攻』は、その墨家に属する革離が、趙の大軍を前にたったひとりで城を守り抜く
傑作小説ですが、これに勝るとも劣らない攻防を『のぼうの城』でも堪能できます。
特に関白秀吉を真似て三成が行った水攻めをめぐる攻防は読ませます。
圧倒的な財力と人海戦術でつくりあげた巨大な堤で川をせきとめ、
忍城を水没させた三成に対して、のぼうは思いもよらない手に打って出ます。
のぼうを支える武将たちのキャラが素晴らしく立っていることも特筆すべきでしょう。
朱塗りの槍の遣い手で漆黒の魔神と恐れられる正木丹波守利英。
髭面の巨漢で戦場では剛強無双を誇る柴崎和泉守。
戦場経験のない若造なれど数々の兵書を自家薬籠中のものとする酒巻靱負。
それぞれがそれぞれの持ち場で持ち味を発揮し三成の軍を撃破します。
その活躍ぶりを目の当たりにしながらふと気がついたのは、
このキャラの配置は三国志にすごく似ているということ。
丹波は関羽、和泉は張飛、靱負は孔明を連想させます。
ならば、のぼうは劉備か?ということになるけれども、
この物語の面白いのは、最後までのぼうがどんな男かわからない、というところです。
もしかしたら単なる馬鹿かもしれない。
いや、それとも将たる器なのか――。
付き合いの長い者ですら判別しかねるくらいに、
のぼうという男はとらえどころがありません。
いったいのぼうとは何者か。
吉継は、しきりに首をかしげていた。
「わからぬ。なぜあの総大将が、ああも角の多い侍大将どもを指揮できるのか」
(略)
「できないのさ」
三成は、当然のようにいった。
「それどころか何もできないんだ。それがあの成田長親という男の将器の秘密だ。
それゆえ家臣はおろか領民までもが、何かと世話を焼きたくなる。
そういう男なんだよ。あの男は」 (321ページ)
皮肉なことに、のぼうとの対比で逆に鮮明に浮かび上がってくるのは、
器の小さな人間たちの卑小さやセコさ、愚かしさやみっともなさです。
上には追従、下には居丈高といった類の器の小さな人間が迷惑なのは、
サラリーマン社会のみならず戦国の世においても同じこと。
『のぼうの城』は、「人の器量とは何か」というきわめて普遍的なテーマを、
忍城をめぐる息もつかせぬ攻防の中で描き出すことに成功しています。
読後感も清々しく、普段時代小説を読まないという人にもおすすめできる一冊です。
投稿者 yomehon : 21:16
2008年01月20日
どこにでもいる少年のありふれたヘビーな物語
このたびの直木賞予想はめでたく的中いたしました。
が、そんなことより、これで桜庭一樹さんの作品がもっともっとたくさんの人に
手にとってもらえるようになるかと思うと、そっちのほうが嬉しい。
『私の男』を読んだ人はぜひ他の作品も読んでみてください。
『赤朽葉家の伝説』(東京創元社)とか『青年のための読書クラブ』(新潮社)とか。
どちらもまったく雰囲気の違う作品で、彼女の引き出しの多さに驚かされるはずです。
さて、このところ小説ばかり大量に摂取しすぎて
ちょっとおなかいっぱいになってしまったので、
今回はマンガをご紹介することにいたしましょう。
それも今まさに進行形で描かれているとびきりの傑作を。
現在、2巻まで刊行されている浅野いにおさんの
『おやすみプンプン』(小学館ヤングサンデーコミコックス)は、
シュールな発想とリアリズムに徹した画力で少年プンプンの成長を描いた作品。
現代マンガの最先端を疾走する傑作といっていいでしょう。
主人公のプンプンは小学5年生。
ただしプンプンは、クラスの中でなぜかひとりだけ、おかしな姿をしています。
鳩サブレの鳩にひょろりと細長い手足がついたような、そんな姿なのです。
プンプンには同じ姿をしたお父さんとお母さんがいますが、
このふたりはしょっちゅうケンカをします。
そんなときプンプンは神様にお祈りします。
以前、叔父さんに教えてもらった
「神様神様チンクルホイ」という呪文を唱えると、
なぜか槇原敬之似の神様が出てきて話し相手になってくれるのです。
ある朝のこと。
プンプンが2階の子ども部屋からおりていくと、リビングがメチャメチャになっていて、
お母さんが倒れています。そしてその場に立ちつくしていたお父さんがこう言います。
「プンプン、大変だ・・・・・・強盗が入った」「信じてくれるよね、プンプン」
お父さんは傷害で警察に捕まり、お母さんは重傷で入院。
残されたプンプンは叔父さんと暮らし始めます・・・・・・。
このマンガを初めて読む人は、
なぜプンプンが鳩サブレの鳩みたいな姿をしているのか疑問に思うことでしょう。
その理由について作者はいっさい触れていませんが、ぼくはこう思うのです。
プンプンにはきっと自分のことがこんなふうに見えているに違いない、と。
家と学校が子どもにとっての世界のすべてだとするならば、
プンプンの場合は、その世界の半分を占める家庭が崩壊状態にあります。
プン山家は、昔は家族みんなで幸せに暮らしていましたが、
お父さんは、会社をリストラされてからというもの酔ってお母さんを殴るようになり、
お母さんは、結婚は失敗だった子どもなんていらなかったと泣くようになりました。
子どもにしてみれば相当にキツイ状況です。
よその家は幸せそうなのにどうしてうちはこんなに両親の仲が悪いのだろう?
どうしてうちの家だけが特別なのだろう?どうしてボクだけが――。
自分はフツーではないのではないかという違和感。
プンプンがおかしな姿をしているのは、そんな彼の心の状態を
象徴的に表しているからではないかと思うのです。
でも大人になってみるとわかることですが、
プンプンのような家庭は世の中にたくさんありますし、
また少年期には誰もが周囲への違和感を抱えています。
つまりこれはどこにでもいるフツーの少年の物語でもあるのです。
プンプンは好きな女の子と両思いになったり、
初めての夢精に「オチンコから脳がとび出た」と悩んだり、
廃工場にみんなで宝探しに行きスタンド・バイ・ミーちっくな体験をしたりします。
誰もがかつて経験したことがあるようなことばかりです。
けれども一方で少年期というのは、
「よくよく考えればありふれているかもしれないけれど、
渦中にいる当人にとってはなかなかにヘビーである」
というやっかいな時期でもあります。
プンプンも例外ではありません。
だからプンプンは自分だけの呪文を唱え、
自分だけの神様を呼び出して話をするのです。
子供でここまで追いつめられると相当辛いと思うのですが、
プンプンのシュールな外見が(なにせ鳩サブレですから)
なんともいえないユーモアを醸し出していることも見逃せません。
その結果、ぼくら読者は、シリアスとユーモアが入り交じった
不思議な作品世界を体験することになるのです。
浅野いにおさんは、もともと叙情的な短編を得意とする作家で、
『素晴らしい世界』(全2巻)や『ひかりのまち』といった短編集を発表していましたが、
夢と現実のはざまであがくフリーターカップルを描いた
長編マンガ『ソラニン』(全2巻)が大反響を呼び、
新世代の作家として注目を集めるようになりました。
いま名前をあげた作品はどれも素晴らしいものばかりですが、
少年の成長を巧みに描いた『おやすみプンプン』はさらにその上を行く傑作です。
ぜひ最先端のマンガ表現を体験してください。
投稿者 yomehon : 21:37
2008年01月14日
第138回直木賞直前予想!
またまたやってまいりました。
半年にいちどの直木賞直前予想です。
今回の第138回直木賞の候補作はこの6作品。
井上荒野(あれの)さんの『ベーコン』(集英社)
黒川博行さんの『悪果』(角川書店)
古処誠二さんの『敵影』(新潮社)
桜庭一樹さんの『私の男』(文藝春秋)
佐々木譲(じょう)さんの『警官の血』(新潮社)
馳星周さんの『約束の地で』(集英社)
いやー素晴らしい!なんと充実したラインナップでしょう。
長編が4作(『悪果』 『敵影』 『私の男』 『警官の血』)、
短編集が2作(『ベーコン』 『約束の地で』)。
これだけ読み応えのある作品が揃うと予想する側も気合いが入るってもんです。
今回の直木賞予想、まず結論から申し上げましょう。
第138回直木賞は桜庭一樹さんの『私の男』(文藝春秋)がとります!
ただしその前に立ちはだかる作品がひとつだけあります。
佐々木譲さんの『警官の血』(新潮社)です。
「恋愛小説の傑作」 VS 「警察小説の傑作」
または、
「新進気鋭」 VS 「大ベテラン」
両者の違いはいろんな対立項で表現できますが、
いずれにしろこの2作品が選考会の中心となるのはまず間違いありません。
この2作について話を始める前に、他の候補作もみておきましょう。
井上荒野さんの『ベーコン』(集英社)は、
食と性愛にまつわる9つの物語をおさめた短編集です。
食と性を結びつけた小説はたくさんありますが、
その多くは欲望や快楽を切り口にしています。
『ベーコン』はそうではありません。
人生の局面がふいに変わる時、そこに寄り添うように食べ物がある、という感じ。
主婦の日常にほんの一瞬紛れ込んだ非日常を描いた「アイリッシュ・シチュー」、
30年以上不倫関係にあった恋人の素顔が意外なかたちで明かされる「煮こごり」、
家族と関わろうとして空回りする父親を息子の視点で描いた「父の水餃子」――。
なかなかに味わい深い作品もありますが、いかんせん直木賞には地味すぎます。
黒川博行さんの『悪果』(角川書店)は、
大阪府警の悪徳刑事を主人公にした警察ハードボイルドの逸品。
個人情報を売ったり、情報を総会屋に流して企業を強請らせたりといった
悪徳刑事の日常のディテールを、テンポのいい大阪弁のやりとりとともに
これでもかというくらいに細かく描いて読ませます。
個人的にはもう少しピカレスク小説度が高ければ良かったのに、と思います。
ピカレスク(悪漢)小説というのは悪者を主人公にした小説のこと。
主人公が悪行の限りを尽くして派手に破滅したり、悪者のくせにささいな正義感で
巨大な敵に立ち向かったりというのがお馴染みのパターンです。
『悪果』では、警察の腐敗ぶりを徹底的にリアルに描くのが
主眼になっているのはわかりますし、そこが玄人ウケするところでもあるのですが、
直木賞ともなればもう少し派手さが欲しかったという気がします。
古処誠二さんの『敵影』(新潮社)は、
沖縄の収容所で敗戦を迎えた捕虜を描いた作品。
主人公は捕虜収容所でふたりの人間を捜す男。
彼が捜しているのは、瀕死の重傷を負った自分を救ってくれた女学生ミヨと、
彼女を死に追いやった阿賀野という男なのですが、やがてミヨの消息を知る
手がかりが現れ、阿賀野の正体が物語の中で意外なかたちで明かされます。
収容所では部下を見捨てて逃げたかつての上官への仇討ちが横行しており、
作者の狙いは、このようにたとえ囚われの身となっても周りに敵を見出してしまう、
人間のどうしようもない習性を描くことではないかと思います。
ただ、テーマの重さに比べて、作者の筆の運びが淡泊すぎるように感じました。
凄惨な戦場の場面なども描かれていますが、こちらの心を鷲掴みにするような強さは
感じられません。言葉を換えれば、この作品はきれいにまとまりすぎています。
『私の男』にあって『敵影』にないのは、読者を底なし沼に引きずり込むような力です。
馳星周さんの『約束の地で』(集英社)は、
北海道を舞台に、先の見えない日々を生きる人々の鬱屈を描いた連作短編集。
冒頭におさめられた「ちりちりと・・・・・・」の書き出しから、思わず「うまいなぁ」と
唸らされます。冬支度をはじめた山の描写なんですが、まるで映画をみせられて
いるように読んでいると映像が浮かんできます。さすがの描写力ですね。
馳星周という作家が着実に進化していることがうかがえる作品です。
デビューした頃の馳さんの作品には、疾走感と暴力描写が溢れていましたが、
この『約束の地で』から感じられるのは、「抑制」とか「深み」とか「成熟」といった
言葉です。たぶん馳星周は新しいステージに入ったのでしょう。
でもそれならばなおのこと、馳さんが大きな物語に挑むのを見てみたい。
次に書かれる長編でこそ直木賞に挑んで欲しいと思います。
とはいえ、これまでにもたびたび直木賞の候補になっていますし、
ご本人にしてみればもううんざりかもしれないですが・・・・・・。
さあお待ちかね。ここからは本命の2作品のお話です。
桜庭一樹さんの『私の男』(文藝春秋)は
これにまでにも当ブログで何度も取り上げてきましたが、
近親相姦の関係にある父と娘を描いた前代未聞の恋愛小説です。
ともかく読み始めると異様な世界に引きずり込まれます。
なんというか、作品全体に「ただならぬ雰囲気」がみなぎっていて、
いちど読み出すとやめたくてもやめられなくなるのです。
それもそのはず。、『桜庭一樹読書日記』(東京創元社)には、
この作品をどうやって書いたかが出てくるのですが、これが凄い。
どうしようもない世界を描くために、桜庭さん自らがその世界に入っていこうとします。
部屋を暗くしてロックを流し続けながら、どうしようもないことを考え続ける。
食欲がなくなり背中にはうっすらとアバラ骨が浮き出てくる。
そしてゆっくりと世界が近づいてくる。やけにスモーキーないやな色の空が見えてきて
ようやくその世界に足を踏み入れていく――といった具合に。
別に桜庭さんは暗い人なんかではなくて、
読書日記で描かれる日常生活はとてもユーモアに富んでいます。
でも作家の業というか、作品によってはこんなにも身を削るんですね。
『私の男』にみなぎる異様な迫力は、
作家自身がどうしようもない世界を体験して書いたところからきています。
そしてここまでの迫力を持った作品は、今回の候補作の中では『私の男』だけです。
『私の男』に対するは佐々木譲さんの『警官の血』(新潮社)。
『2008年版このミステリーがすごい!』で堂々第1位に輝いたこの作品は、
終戦直後から現代まで、3代にわたって警察官という職業を選んだ安城家の
男たちを描いた警察小説の傑作です。
復員後、昭和23年に警官となり上野警察署に配属された安城清二。
管内で発生した「男娼殺害事件」と「国鉄職員殺害事件」に疑念を抱いた
清二は、跨線橋から不審な転落死をとげます。
清二の遺志は息子の民雄に受け継がれますが、やがて彼も凶弾に倒れます。
ふたつの事件の謎は孫の和也にゆだねられ、最後に驚くべき真相が明かされます。
駐在所のおまわりさんとして戦災孤児や闇市など終戦直後の混乱期を生きた清二。
過激派への潜入捜査員として高度成長期の激動の時代を生きる民雄。
同僚の不正を暴くよう特命を受け、同時に祖父と父の死の真相をも突き止める和也。
この小説が凄いのは、3代の人生がそのまま警察の戦後史となっているところ。
並大抵の筆力ではここまで物語を築き上げることはできないでしょう。
しかも警察の光と影をきっちりと描いて、物語に深みを与えることにも成功しています。
『警官の血』は『私の男』とがっぷり四つに組める傑作です。
このどちらが直木賞に選ばれても不思議ではありません。
でも受賞作は『私の男』だと思います。なぜか。
ここからはぼくの勝手な想像ですが、
今回の候補作に警察小説が複数エントリーしていることが
『私の男』に有利に働くのではないかと思うのです。
いくら『警官の血』が「警察小説の傑作」だといっても
同じ警察小説の秀作である『悪果』があることによって
若干とはいえインパクトが薄れるのではないか。
そして結果的に『私の男』がより強く選考委員の印象に残ることになる――。
どうでしょう?このシナリオ。
同時受賞という予想に逃げてもいいんですけど、
今回はいさぎよく『私の男』の一点買いでいきたいと思います。
選考委員会は1月16日(水)に行われます。
投稿者 yomehon : 18:42
2008年01月09日
ドイツ発のジェットコースター・ノベル!
ドイツの小説家と聞いてみなさんは誰を思い浮かべますか?
ゲーテ、トーマス・マン、グリム兄弟、フランツ・カフカ、ヘルマン・ヘッセ、
ミヒャエル・エンデ、ギュンター・グラス ・・・・・・。
なんだか大物ばかりですけど、たぶんこんなところですよね。
(カフカは現在のチェコ生まれですが作品はドイツ語で発表しています)
では「セバスチャン・フィツェック」という名前を聞いたことは?
何ない?それはいけない。いますぐにでも読むべきです。
なぜならフィツェックはいまドイツでいちばん読まれている作家だからです。
セバスチャン・フィツェックは、1971年ベルリン生まれ。
テレビ・ラジオ局でディレクターや放送作家として活躍するかたわら小説を執筆。
ミヒャエル・エンデの担当編集者を長年務めた出版エージェント、ロマン・ホッケに
見出されデビューし、たちまちベストセラー作家の仲間入りをしました。
彼のデビュー作は『治療島』赤根洋子:訳(柏書房)です。
これが凄い!新人でここまでストーリー・テリングに長けた作家がいるでしょうか。
『治療島』は、ある高名な精神科医の娘が、アレルギー治療に訪れた病院で
行方不明になるところから始まります。それから4年後――。
心に深い傷を負い、孤島の別荘にこもる精神科医のもとを謎の女が訪ねてきます。
児童文学の作家だという女は、精神科医に治療を依頼します。
自分が書く物語の登場人物が現実社会に姿を現し自分を苦しめる、というのです。
女は自分が書こうとしている物語について語り始めました。
なんとそれは娘にそっくりの少女が、両親の前から姿を消す話でした。
嵐で孤立した島で精神科医は女の治療を始めますが、
やがて思いもよらない真相が明らかになります・・・・・・。
この驚くべきデビュー作を手にとる者は、幸福にして不幸です。
なぜなら、物語の面白さにどっぷりと首まで浸かる幸福感を享受できる一方で、
腹が減ろうが眠くなろうが会社に行く時間が来ようが読むことをやめられない、
無間地獄の苦しみをも味わわなくてはならないからです。
『治療島』はサイコ・スリラーの一級品です。
謎の女に対して治療を施すうちに次第に神経戦の様相を呈してきて、
徐々に主人公の精神科医自身が追いつめられていきます。
けれども彼は愛する娘の失踪の謎を突きとめるために危険な治療に挑むのです。
個人的にはこの小説の結末にはやや納得できない部分もあります。
「これは○○オチに近いじゃないか!」と言いたいところもある。
でもこの面白さの前では、そんなのはささいなイチャモンに過ぎません。
『治療島』は2006年夏に発売後、またたくまにベストセラーとなり、
何週間にもわたってベストセラー・ランキングのトップを占めました。
すでに世界中で翻訳されている他、母国ドイツでは映画化も決定しています。
さて、衝撃的なデビューから早くも(というかデビュー作がまだベストセラーに
ランクインしているにもかかわらず)フィツェックは第2作目を発表しました。
最新作『ラジオ・キラー』赤根洋子:訳(柏書房)の舞台はベルリンのラジオ局です。
ラジオ局の見学ツアーに紛れ込んでいた男が人質をとってスタジオに立てこもり、
番組をジャックして生放送で公開殺人ゲームを始めます。
心理学にも通じたこの知能犯に、ベルリン警察の犯罪心理学者、イーラ・ザミーンが
交渉人として対決を挑むのですが、実はイーラは大きな問題を抱えていました――。
この最新作を迷いながらも手に取ったのが運の尽き。
またしても僕は、例の幸福にして不幸な、面白さに身悶えしながらも
「頼むから寝させてくれ!」と叫びたくなるような、泣き笑いのような状態に陥ってしまったのです。
『治療島』は嵐で島に閉じこめられた中で治療をするという、ある種の閉鎖的な
状況下での物語でしたが、2作目の『ラジオ・キラー』はその真逆をいきます。
なにしろ立てこもり犯は、無作為に電話をかけて相手がオンエアで公表した
合い言葉を言えなければ、人質をひとりずつ始末するというのですから。
当然のことながら全マスコミがこのラジオ局の番組を生中継し、
事件はドイツ全土を巻き込んだ大騒動へと発展していきます。
交渉役のイーラとのやりとりもすべて生放送で公開されます。
閉鎖的な環境から一転、2作目ではすべてが白日のもとにさらされています。
デビュー作とは違った方向の作品も書けるのだと見事に証明してみせたわけです。
でも、フィツェックが凄いのはそれだけではない。
彼の人物の描き方は2作目においてさらに巧みになっています。
たとえば主人公のイーラ・ザミーン。
作者は彼女のキャラクターを「自殺願望のあるアル中の心理学者」としました。
これが見事にハマってます。
心に深い傷を抱えたまま交渉にのぞむイーラは陰影に富んで実にカッコいい。
フィツェックは新しいヒロイン像を描くことに成功しています。
また立てこもり犯のヤン・マイの描き方もお見事。
実は彼は「ある事情」があってラジオ局を占拠するのですが、
そのような背景をきっちり設定することで、魅力的な犯人像に仕立て上げました。
伏線も完璧。
生放送でのやりとりで、犯人はなぜか執拗にイーラのトラウマにこだわります。
ほとんど全国民が聴いているにもかかわらず、プライバシーを明かしていくイーラ。
なぜ犯人はイーラの過去の傷をほじくりかえそうとするのか。
その理由はラストに至って意外なかたちで明かされます。
セバスチャン・フィツェックは、大ベストセラー作家になったいまも
ベルリンの民放ラジオ局でディレクターを務めているそうです。
そして驚くべきことに早くも今月、第3作目を発表するのだとか。
でも筆の早さもまたベストセラー作家の大切な資質であることを思えば
別段、驚くに値しないのかもしれませんね。
ともかく次作が待ち遠しくてたまらない作家の登場に拍手喝采です。
投稿者 yomehon : 01:17
2008年01月06日
ユニークな「団地小説」
ある特定の時代や場所が舞台でないと成立しない小説、というものがあります。
古城や修道院が出てくるゴシックロマンスだと舞台はやっぱりイギリスだし、
一攫千金を夢見て新大陸へ渡るという話だと、舞台は19世紀のカリフォルニアか
はたまた20世紀の満州がぴったりということになります。
第1回パピルス新人賞を受賞した久保寺健彦さんのデビュー作
『みなさん、さようなら』(幻冬舎)は日本、それも高度経済成長期以降の日本でしか
成立しない小説です。なぜならこの小説は高度成長のシンボルである「団地」を舞台にした
とびきりユニークな青春小説なのです。
高度経済成長期まっただ中に建てられた芙六団地。
物語は、この団地で暮らすひとりの少年が、小学校卒業を機にひきこもり、
団地からいっさい外へ出ることなく暮らし始めるところから幕を開けます。
この小説がユニークな点はふたつあります。
ひとつは、主人公が外の世界へ一歩も出ないにもかかわらず、
ちゃんと団地の中で恋をしたり就職をしたりするところ。
実は主人公が団地から出られなくなったのには深刻な原因があったり
ひきこもり生活を続けるうえでのさまざまな苦労があったりもするのですが、
それらを除けば主人公の日常は普通の若者と変わりません。
彼は団地の中のケーキ屋に就職し、可愛らしい同級生の女の子とつきあいます。
もうひとつ、この小説がユニークな点は、その年ごとに団地を去っていく
同級生の名前が、各章の冒頭に掲げられていること。
芙六小学校の卒業生は107人でした。そのすべてが芙六団地の住人です。
彼らの中から毎年何名かが団地を去っていきます。
卒業1年目(ひきこもり1年目)には4名、2年目には2名、というふうに。
読者はいつしか、主人公がひきこもりを続け、同級生が少しずつ去っていく
年月がそのまま、団地の盛衰史と重なっていることに気がつくはずです。
「団地」はニッポンの高度経済成長期のシンボルでした。
朝日新聞に長期連載されたルポをまとめた『分裂にっぽん』(朝日新聞社)は、
都内のあるマンモス団地の現在に「中流層崩壊」の情景を描き出します。
経済成長の担い手となったのは、地方から出てきた中卒・高卒の労働者たちでした。
団地は彼らのような中流層にとっての「夢の砦」でしたが、子どもたちも巣立ったいま、
団地には高齢者世帯が目立つようになりました。
かつては「中流層の街」だったマンモス団地に往時の賑わいはありません。
でも過去を振り返れば、たしかに団地が元気だった時代がありました。
昨年話題になった『滝山コミューン1974』(講談社)は、
政治思想史が専門の原武史さん(明治学院大学教授)が、
小学校時代を過ごした滝山団地での日々を振り返るノンフィクション。
原さんは、全共闘運動が挫折して「政治の季節」が終わった後も
団地住民の間には革新政党を支持する気風が残っていて
この傾向は70年代を通じて続いた、といいます。
この『滝山コミューン』では、全共闘世代の熱血教員と滝山団地に住む児童、
そして小学校の改革に燃える母親たちが手を携えてつくりあげた民主的な地域共同体を、
いささかの感傷と批判を込めて検証しているのですが、その正否はさておき、
団地を舞台にこのような地域共同体が成り立つこと自体、現代ではまず考えられません。
このように「団地」は日本社会の変化を映し出す鏡です。
でも、かつては夢を育む場所だった団地もいまでは元気がありません。
『みなさん、さようなら』の主人公がひきこもりから17年目を迎えたとき、
107人いた同級生の中で団地に残っているのはついに自分ひとりとなってしまいます。
そして、ひとりぼっちになった主人公は最後にある決断を下します。
ぼくにはその決断が団地のこれからを暗示しているように思えてなりません。
投稿者 yomehon : 00:20
2008年01月05日
ウルトラマンのいない世界
いまさらながらではありますが、ヨメとはまったく趣味があいません。
信じがたいことに世の中には「共通の趣味を持った友だち夫婦」みたいな人々も
いるようですけど、我が家ではとことんまで夫婦の趣味は正反対。
たとえばDVDです。
TSUTAYAとかで意見が一致したためしがない。
ヨメのお好みはいかにもお芸術な感じのミニシアター系の映画。(退屈なんだこれが)
ぼくはといえばアクションやらサスペンスやらSFやら特撮やら、
要するに血湧き肉躍ってハラハラして夢があってスカッとする映画が大好き。
つい先日も『ウルトラセブン』を夢中になって鑑賞していたら、ヨメが蔑んだ目で
「ねえそんな子どもだましなもの観てて楽しい?」などと暴言を吐くではありませんか。
楽しいから観とるんじゃ、このボケ!!
ったく、貴様のような不心得者には次のような言葉を進呈してやろう。
「ぼくは特撮ものを“子どもだまし”といって軽蔑したり、
さして発見もない、俳優の地によりかかった文芸風ドラマや
観念だけのドラマのほうを良しとする連中とは相容れない。
中身が空っぽの視覚効果もの、などと形容されるのはたえがたい。
はっきりいえば、どんな悪条件の下でも、特撮のスタッフたちほど
荒唐無稽の夢、一カットの効果に命をかけている人たちはいないのである」
『ウルトラマン誕生』実相寺昭雄(ちくま文庫)32ページ
そうだ!その通り!
声を大にして言おう。特撮ドラマは素晴らしい!
おそらく日本男子の相当数が特撮に夢中になった経験を持っているはずです。
いや、男子だけじゃありません。
たとえばウルトラマンなんてほとんどの日本人が知っています。
日本人のほとんどが知っている――これは大変なことだと思います。
ちなみにあのウルトラマンをデザインしたのは美術監督の成田亨さん。
成田さんがウルトラマンのデザインのもとにしたのは、
ジョルジョ・デ・キリコの絵画でお馴染みのつるんとした卵形ののっぺらぼうの顔と、
古代ギリシア彫刻のアルカイック・スマイルと呼ばれる口元の微笑みだそうです。
どうですウルトラマンのデザインひとつとっても深いでしょう?
これのどこが子どもだましだというのでしょう。
ともあれ、怪獣が出現し街を破壊する。そこにウルトラマンが登場して怪獣を倒す。
この一連の流れはぼくらにはお馴染みのパターンとなっています。
でも、もし怪獣が暴れているのにウルトラマンが現れなかったとしたら?
人間はいったいどうやって怪獣に対処するのでしょうか。
『MM9(エムエムナイン)』山本弘(東京創元社)は、
怪獣災害に立ち向かう人間たちの活躍を描いた
きわめて面白いSFエンターテイメント小説です。
ウルトラマンのような救世主はいない。
けれどもなぜか怪獣たちは現実に存在していて、
時々出現しては、人間社会に大きな被害を与える。
作者が設定するのはそんな世界です。
タイトルになっているMMというのは「モンスター・マグニチュード」の略で、
怪獣災害の規模を表す単位。日本では1923年に14万人の死者を出した
MM8の大怪獣災害が最悪のケースとされています。
怪獣天国と呼ばれるほど怪獣出現率の高い日本で、怪獣に立ち向かうのは、
気象庁の特異生物対策部――通称・気特対の人々。
『MM9』は日夜怪獣たちと戦う気特対の活躍を描いた連作短編集なのです。
この小説を面白くしている要素は3つあります。
ひとつめ。
まず、地震や台風災害のアナロジーで怪獣を持ってきたアイデアが素晴らしい。
常に地震や台風の脅威にさらされている我々からすれば、
この「怪獣災害」というコンセプトは読んでいてとてもイメージしやすい世界です。
ふたつめ。
気象庁特異生物対策部(通称・気特対)という組織のアイデアも秀逸です。
ウルトラマンの代わりに怪獣と戦う気特対の役割は、
天気予報のように怪獣の出現を予測し、場合によっては注意報や警報を発令すること。
このほか怪獣に名前をつけたり、怪獣出現のプロセスを研究解明することも大切な仕事です。
避難命令まで出したのに予測が外れたりすれば国民から大きな批判を浴びます。
なかなか大変な仕事なのです。
みっつめ。
なぜ怪獣が世界各地に出現するのか。この理由付けが見事です。
怪獣出現現象にいかにもっともらしく科学的な裏付けを与えるかが
腕の見せ所だと思うのですが、作者の山本弘さんが作り出したのは
「多重人間原理」という理論。この理論は、気特対の女性物理学者が
テレビのインタビューに答える形で作中詳しく説明されます。
実にもっともらしい理屈で思わず納得させられます。
この連作短編集はぜんぶで5つの短編からなりますが、
特に最終話にいたっては、日本の記紀神話や旧約聖書の黙示録や
ギリシア神話などがすべて大風呂敷の上にぶちまけられるド派手な展開となります。
神戸のポートアイランドで繰り広げられる死闘を、ぼくはど迫力の脳内特撮映像で堪能しました。
『MM9』はかつて特撮ドラマに夢中になったことのある人にこそ読んでいただきたい小説です。
ぜひこの小説を読みながら、あなた独自の脳内特撮映像を楽しんでください。
投稿者 yomehon : 16:44
2008年01月03日
心優しき犯罪者の物語
あけましておめでとうございます。
今年も家庭を顧みず仕事はほどほどに(?)
何をおいても読書第一の生活を心がけたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
さて、新聞の書評欄であったり雑誌のランキングであったり、
年末になると決まってあちこちで「今年のベスト本」が特集されます。
それらをいちいちチェックするのが密かな楽しみでもあるのですが、
この年末はいささか意外に思ったことがありました。
ベスト候補に名を連ねる小説の中で、
あまり取り上げられていないものがあったからです。
2007年は小説が大豊作だったので、もしかしたら選ぶ人によって
多少ベストがバラけるかもしれないなとは思っていましたが、
そうはいっても、その年を代表する傑作なんてそうそうありませんから、
おそらく次のいずれかの作品の名前があがるだろうと予想していました。
その①
ありふれたベタな殺人事件を題材に、現代の地方都市に生きる人々の今を
深く描き出すことに成功した吉田修一さんの最高傑作『悪人』(朝日新聞社)。
その②
革命後のロシアで獣のように生きることを余儀なくされた若者を描き、9・11以降の
混乱期を生きる現代人を鋭く暗示させた佐藤亜紀さんの『ミノタウロス』(講談社)。
その③
犬に恋い焦がれ、ついにはほんとうに犬になってしまった女性の目を通して、
他者との新しい結びつき方を描き出した松浦理英子さんの『犬身』(朝日新聞社)。
その④
出口のない男女の愛憎劇を美しい花が腐り果てていくように描き出した
恋愛小説の大傑作、桜庭一樹さんの『私の男』(文藝春秋)。
・・・・・・と、ここまではいいのです。
これらはどれが2007年のベストとされてもおかしくないものばかり。
(あまりに傑作揃いなので、この中でどれを推すかはもはや個人の趣味の問題です)
でもちょっと待っていただきたい!
みなさん、もう一冊、お忘れではないか。
なぜか年末の各種特集であまり名前を見かけることのなかった傑作、
それは、角田光代さんの『八日目の蝉』(中央公論新社)です。
ぼくの知る限りこの小説を2007年のベストとして推していたのは、
尊敬する本読み、筑摩書房の松田哲夫さんのみ。(ブランチBOOK大賞)
松田さんほどの本読みに評価されるのも嬉しいことには違いないけれど、
でもこの本のことは、もっともっと世間で話題になっていいはずです。
松田殿、不肖私め微力ながら助太刀いたす!
そんなわけで、今年最初にみなさんにオススメするのは
この『八日目の蝉』といたしましょう。
はじめに申し上げておきますが、
この小説がほんとうに面白いかどうか信用できないという人は、
まずは本屋さんで冒頭の4ページを立ち読みしてみてください。
『八日目の蝉』はいきなり緊迫したシーンから始まります。
民家に女が侵入するという場面です。
平日の朝のわずかな時間、妻が夫を駅まで送る間だけ
この家が赤ん坊を残して誰もいなくることを、女は知っています。
女は当初、「あの人の赤ん坊を見るだけ」というつもりで部屋に侵入します。
けれど赤ん坊と目があった瞬間、女の心に予期せぬ変化が生じるのです――。
この冒頭4ページを読めば続きを読みたくてたまらなくなるはずです。
他人の家に不法侵入しているという息が詰まるような緊張感の中、
赤ん坊と目があった瞬間の女の心境の変化を、角田さんはわずか数行で
見事に表現してみせます。この文章力によって、読者はぐいと物語の世界に
引きずり込まれ、あとは一気呵成に読み終えてしまうことでしょう。
一気呵成に読んでしまうのは、この物語がサスペンス仕立てでもあるからです。
物語は2部構成になっていて、前半は、ヒロインの赤ん坊を連れた逃走劇です。
ヒロイン・野々宮希和子は、さらってきた不倫相手の女児に、
生まれてくるはずだった自分の子供を重ね合わせて「薫」と名付け、育て始めます。
けれども、母子手帳もなく戸籍もない、そんな状態で幼子を抱いて逃亡を続けるのは
とてつもなく困難です。このサスペンスとしての逃亡劇を作者は実に丁寧に描いています。
相手のささいな言動にも「何か知っているのではないか」と脅え、
ちょっとでも危険を感じたら親切にしてくれた人に別れも告げずに逃げる。
このように、日々不安に押し潰されそうになりながら必死に逃げ続けるヒロインが
丹念に描かれているために、ページを捲る手が止まらなくなるのです。
それだけではありません。
普通に考えれば、ヒロインは、生まれたばかりの赤ん坊を両親から奪うという、
卑劣極まりない罪を犯した犯罪者です。けれどもなぜか彼女を憎む気になれない。
それは作者が、逃亡生活の中で血のつながらない希和子と薫が親子の情愛を
育んでいく様子も温かく描いているからでしょう。
一面的ではない描写が物語に深みを与えています。
前半のクライマックスは希和子の逮捕です。
もしここで終わっていれば、この小説はここまで傑出した作品にはならなかったでしょう。
この小説が凄みを増していくのはむしろ後半に入ってからです。
物語の後半は、かつて「薫」と呼ばれていた娘の視点で語られます。
希和子の逮捕からはすでに20年近くがたっていて、娘は大学2年生になっています。
事件後、実の親のもとに戻った彼女は、「秋山恵理菜」として生活を始めました。
けれど彼女を待っていたのは、平穏な生活ではなく周囲の好奇の視線でした。
「犯罪者に誘拐されて育てられた子供」というレッテルだけではありません。
希和子の裁判で、父親の不倫はもとより母親の秘密までも明らかにされたために、
一家は住む場所も転々としなければならなくなります。
自分は普通の子供のように育つことが出来なかった。
自分から「ふつう」を取り上げたのはあの女だ――。
恵理菜は野々宮希和子を憎んでいます。
そして事件からずいぶん時間がたったにもかかわらず、
いまだに自分の身の上に起きたことをうまく受け入れられずにいるのです。
この小説の後半部はつまるところ彼女が運命を受け入れるまでの物語なのですが、
恵理菜がかつて希和子と暮らしたある島へと渡るラストシーンは圧巻です。
希和子と過ごした日々。
希和子という女。
両親。
そして恵理菜自身の過去。
それらすべてが彼女の中で了解される感動的な場面です。
なかでも、17年前、希和子が港で逮捕されたときに叫んだ言葉を
恵理菜が思い出す場面があるのですが、このくだりが素晴らしい。
刑事たちに取り押さえられながら希和子が必死に叫んだ言葉。
それは切迫した状況にはなんとも不釣り合いではあるものの、
希和子の悲しいまでの母性を痛切に感じさせる言葉です。
この言葉を思い出したときに恵理菜は、
自分をさらった野々宮希和子も、実の母の秋山恵津子も、
どちらも愚かな女であり、どちらも等しく母であることを知るのです。
何年間も土の中で過ごした蝉は、
やっと地上に出てきたと思ったら
わずか七日間で死んでしまいます。
でも八日目を生きた蝉がいたとしたら?
それは孤独な生かもしれないけれど、
その代わりに普通の蝉がみることのできなかった景色をみることができるはずです。
作者は、異常な人生を生きた(生きざるを得なかった)人を
八日目を生きている蝉になぞらえます。
そこから読み取れるのは、なにかのはずみで人生を狂わされたとしても
そこからの歩みは決して無駄にはならない、という作者の力強いメッセージです。
読めばきっと「人間が持つ本質的な強さ」みたいなものを感じ取ることができるはず。
光に満ちあふれたこの小説のラストシーンは、ぜひ多くの人に味わっていただきたいと思います。
投稿者 yomehon : 22:24