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2007年12月30日
「わたしは犬になりたい」
い、いかん、今年が終わってしまう!
年内にご紹介したい本がまだたくさん残っているにもかかわらず、せわしなく毎日を
過ごすうちに、気がつくともうカウントダウンが始まっているではありませんか。
限られた時間で優先的に取り上げたい本となると、
やっぱり今年を代表するような小説を、ということになります。
今年はほんとうに小説が豊作の年でしたから。
まだまだあります。ご紹介しきれていない小説は。
ところで、ひとくちに小説家といっても中には不思議な人もいて、
(いや、そもそも小説家というのはみな不思議な人たちかもしれませんが)
いったいどうやって食べているのかわからない、という人がいます。
「小説家なんだから、そりゃ小説書いて食べてるに決まってるだろ!」
そんなツッコミが聞こえてきそうですね。
もちろん小説家は原稿を書くことで生計をたてているでしょう。
でもその小説家が滅多に小説を書かない人物だとしたら?
ね?どうやって生活してるんだろうって疑問に思うでしょう?
そんな謎めいた小説家の最たる人物が松浦理英子さん。
作品はいずれも高い水準にあるにもかかわらず、
ほんとうにたまにしか新作を発表しない、極端な寡作で知られる作家です。
『犬身(けんしん)』(朝日新聞社)は、そんな松浦さんのひさしぶりの新作です。
調べてみて驚いたのですが、発表当時大きな話題となった『親指Pの修業時代』から数えると
実に14年ぶりの新作です。なんというスローペースぶりでしょう。
(短編集の体裁をとる『裏ヴァージョン』からでも7年ぶり)
というか、この間、松浦さんはいったいどうやって生活していたんでしょうか???
せせこましい日本でこのような執筆ペースを保っていること自体が奇跡ではないか。
松浦理英子という作家に、まるでヨーロッパ(それもフランスあたり)の作家のような
優雅さを感じてしまうのはぼくだけでしょうか。
さて、ひさしぶりの新作『犬身』はとても変わった小説です。
どこか変わっているか。
これは、犬が好きで好きでたまらず、
そのうちほんとうに犬になってしまう女性のお話なのです。
しかも念入りなことに、この小説にはそこら中に犬に関係した名前が
散りばめられていて、全編が犬のイメージに覆い尽くされています。
たとえば主人公の名前が「八束房恵(やつづか・ふさえ)」。(八犬伝を連想させます)
職場は「狗児(くじ)市」の『犬の眼』というタウン誌の編集部。
編集部からは「犬啼山」が見え、自転車で家に帰るときは「犬洗川」の土手を走り、
「犬渡橋」や「犬戻橋」を渡る。よく行くバーの名前は「天狼」で、そこの棚には
ジャコメッティの「犬」という彫刻が飾られていて――というように徹底しています。
そんな犬イメージ満載の中、寝ても覚めても犬のことを考えているのが主人公の房恵です。
彼女にとってこの世で犬ほど好きなものはありません。
けれどもその「好き」の度合いは尋常ではなく、
「いっそ犬になりたい」という願望にまで達しているのです。
「自転車で土手を走る時、房恵の頭には自分が中型の犬になって元気よく駆ける
イメージが思い浮かぶ。(略)毛は茶色で、背筋に沿って黒い毛が少し混じって、
尻尾はくるりと巻いていて、と犬のイメージは細かい所まではっきりしていた。
走っているうちにほんとうに犬になれればいいのに、といつも思う。そうでなければ、
自分はほんとうは犬なのにたまたま人間に生まれてしまったのではないかと思う。
どちらの思いも房恵を軽く昂奮させる」 (17ページ)
ここで作者はひとつ、秀逸なアイデアを打ち出します。
それは「種同一性傷害」というコンセプトです。
持って生まれた生物学的なセクシャリティ(性別)と
自分自身が抱くセクシャリティのイメージが一致しないのが「性同一性障害」ですが、
松浦さんはこれを拡張させて、「種同一性障害」というコンセプトを作り出しました。
つまり房恵のように、種としては人間であるにもかかわらず、「犬になりたい」
「自分は犬ではないか」というセルフイメージを持っている者のことです。
このアイデアを思いついた時に、この小説の成功はほぼ約束されたと思います。
「種同一性障害」というアイデアだけでも十分に面白いのですから。
でもこの小説が凄いのはここからです。
なんと作者は房恵をほんとうに犬に変えてしまうのです。
房恵はある人物と魂の取引をして、人間界の生活を捨てて犬になります。
そして密かに想いを寄せていた知り合いの陶芸家・玉石梓の飼い犬となります。
さあここからが面白い。
犬になったといっても房恵の意識は人間のまま。
そうすると犬には当たり前のことが房恵にとっては恥ずかしいことだったりします。
(たとえば排泄物を見られるのが恥ずかしいとか)
まずこの犬になることで世界の見え方がどう変わるかというディテールが面白い。
それだけではありません。
人間の意識を持ったまま犬でいるからには、
他人様の生活をこっそりのぞき見ることもできたりするわけで、
房恵は、玉石梓が抱えていた大きな秘密をやがて知ることになります。
いわば「家政婦は見た!」的なのぞき見願望も、この小説は満たしてくれるのです。
500ページもあるので、手に取ったときボリュームにたじろぐかもしれませんが、
面白すぎて一挙に読めますからご安心ください。
読者の俗な興味を満足させてくれるエンターテイメントの要素と、
セクシャリティとは何かという哲学的なテーマが奇跡的に結びついた稀有な小説。
この作品もまた、今年を代表する小説のひとつです。
投稿者 yomehon : 23:37
2007年12月23日
今年最後の傑作は前代未聞の恋愛小説!
今年は小説の当たり年でした。
できる限り当ブログでもご紹介したつもりですが、
それでもすべて取り上げきれなかったほど傑作が多かった。
今年ほど小説を読むのに忙しかった年はありません。
・・・・・・と思っていたのです。あたかも今年が終わってしまったかのように。
でもそうではありませんでした。さすがにもう出尽くしただろうと思っていたのですが、
あにはからんや最後の最後にもの凄い小説に出会ってしまいました。
突然ですが、すぐれた小説の条件を思いつくままにあげると、それは――
簡単には映像化できないこと。
世の中の常識やモラルをやすやすと乗り越えていること。
人間の心の奥底にあるものをかいま見せてくれること、ではないかと思います。
これらの条件をすべて兼ね備えた
『私の男』桜庭一樹(文藝春秋)は、恋愛小説の傑作です。
おそらく次の直木賞を受賞するのは間違いないでしょう。
まず書き出しからして素晴らしい。
私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。
日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、並木通り。
彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、
ためらいなく濡れながら近づいてくる。店先のウィンドウにくっついて
雨宿りしていたわたしに、ぬすんだ傘を差しだした。その流れるような動きは、
傘盗人なのに、落ちぶれ貴族のように優雅だった。これは、いっそううつくしい、と
言い切ってもよい姿のようにわたしは思った。
「けっこん、おめでとう。花」
男が傘にわたしを入れて、肩を引きよせながら言った。
自分の男が近づいてくる。それも盗んだ傘をゆっくりと広げながら――。
意表をついた見事な書き出しです。
この書き出しに続くくだりを読んだ読者は、
花にぬすんだ傘を差しだしてきた男が
父親の淳悟であると知り、きっとこう思うはずです。
父親なのにどうして「私の男」なのだろう?
このように物語はのっけから不穏な気配を漂わせながら幕をあけます。
まずはこのきわめて印象的な冒頭のシーンからして
映像化は不可能ではないでしょうか。
雨に濡れる女のためにためらいもなく傘を盗み、ゆっくりと近づいてくる男。
その姿はみすぼらしいスーツを着ているけれど貴族のように優雅で、
しかもどことなく常人とは違う、危険な空気を身にまとっている。
いったいどこにこんな男を演じられるような俳優がいるのでしょう。
安易な映像化を寄せつけない描写力。
これこそがすぐれた小説の持つ力です。
『私の男』はその冒頭から、すぐれた小説が持つ力を
存分に駆使しながら、物語を加速させていきます。
構成の素晴らしさも特筆ものです。
『私の男』は現在から過去へと、語り手の視点を替えながら
さかのぼっていく構成をとっているのですが、この手法が功を奏しています。
花は小学四年生のときに震災で家族をなくし、
遠縁にあたる淳悟にひきとられ、やがて養子縁組をしました。
どうして淳悟は「私の男」になったのか。
どうしてふたりは北の町から東京へ逃げてきたのか。
そして、どうしてふたりは罪を犯したのか――。
そうしたことが過去へさかのぼる過程で徐々に明らかになっていきます。
娘が父を「私の男」と呼んでいる時点で、
おそらくほとんどの人が「近親相姦」を連想するでしょう。
そのことに抵抗感みたいなものをおぼえてしまうひともいるかもしれません。
けれども物語が過去へ過去へと遡っていく過程で、作者は、
ふたりがそのような関係に陥らざるをえなかった背景を
圧倒的に説得力のある筆力で描き出していきます。
過去へいけばいくほど僕らはふたりの関係を受け入れいていくのです。
インセスト・タブー(近親相姦の禁忌)は、世界中のどの民族にもみられるといいます。
おそらくカニバリズム(食人)と並ぶ人類最大のタブーでしょう。
でも、それほどまでのタブーを犯しているにもかかわらず、
淳悟と花の行為はとても美しく感じられるのです。
いや、たんに美しい、というだけではうまく言い表せていません。
なんというのでしょう、ふたりの関係には、僕らを強烈に惹きつけるものがあります。
それは、じゅうぶんに熟成された肉が腐る寸前に放つ芳香や、
いまにも枝から落ちそうなほどに熟れた果物から立ちのぼる甘い香りに似ています。
あと一歩で崩れ去ってしまう、そのギリギリの境界線にあるものだけが持つ魅力、
と言い換えてもいいかもしれません。
おそらく少しでも描き方を間違えれば、この父と娘は、
人道にもとる所業に耽溺するただの鬼畜となってしまったことでしょう。
けれども著者の描く父と娘が、こんなにも甘美な匂いを放っているのは、著者が、
腐り果て朽ちてゆきながらも、まだギリギリ人間にとどまっているふたりを
確かな筆致で描き出したからに違いありません。
この小説は紛うことなき恋愛小説です。
それもたとえ世界を敵に回そうとも恋に落ちざるをえなかった父と娘を描いた、
前代未聞の恋愛小説です。
夜のあいだだけ、こっそりと大人になったような気持ちだった。大人だけど、
人間じゃなかった。わたしは淳悟の、娘で、母で、血のつまった袋だった。
娘は、人形だ。父のからだの前でむきだしに開いて、なにもかも飲み込む、
真っ赤な命の穴だ――。 (369ページ)
すぐれた小説家はその想像力によって
普通の人間には見ることのできない光景を見せてくれますが、
『私の男』が僕らに見せてくれるのは、
人を人たらしめている境界線、
向こう側に踏み出せば人ではなくなってしまうような境目、
その崖っぷちにまで行ってしまった者の目に映る光景です。
この小説を読んだ人は、
そのへんの生ぬるい恋愛小説は二度と読めなくなってしまうでしょう。
それでもかまわない、という人だけにおすすめしたい正真正銘の傑作恋愛小説です。
投稿者 yomehon : 22:14