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2007年08月27日

 消えたい願望


暑い!あつい!アツイ!
この尋常じゃない暑さはいったい何なんだ!

おかげで朝はスーツを着た瞬間からすでに滝のような汗が流れ出し、
一日を終えて家に帰るときには、
全身はもとより靴の中まで汗でぐっしょりという有様。
デブにはほんとうに辛い毎日なのです。

でもたとえどんなに辛くとも、ひとたび家に帰れば
一日の苦しさを忘れられるような家庭があればまだ救いがあります。


玄関を開ければ
高島礼子似の奥さん(もちろん和服)が

「あなた、ご苦労さまでした」

と迎えてくれるとか。

あるいは新垣結衣似のおさな妻(むろん新婚)が

「あなたがいないあいだ寂しかったの」

と半べそをかきながら抱きついてくるとか。(あ、あり得ん・・・・・・)


そういう家庭であれば一日の疲れなんて確実に吹き飛んでしまうでしょう。

けれども不幸なことに我が家は違います。
ただでさえ夫が辛い日々を送っているにもかかわらず、
ヨメは汗まみれで帰宅したぼくに向かって

「外で飼っている犬のニオイがする」

などと思いやりのかけらもない言葉を投げつける始末。


「このままどこかに消えてしまいたい・・・・・・」


ヨメの心ないひと言にいたく傷つけられたとき、
ふとそんな衝動に駆られてしまうのです。


将来を約束されたエリートであったにもかかわらず、すべてを捨てて隠棲し、
孤独な死を迎えたのが俳人・尾崎放哉(おざき・ほうさい)です。


尾崎放哉は1885年(明治18年)、鳥取県の旧士族の家に生まれ、
旧制一高から東京帝国大学という超エリートコースを歩み、
東洋生命保険会社に入社。10年後、朝鮮火災海上保険会社の創設にともない
支配人として京城に赴任するも酒の失敗がもとで辞職を余儀なくされます。

その後は借金を抱え、事業に失敗し、妻と別れ、
京都や神戸、福井の小浜などの寺を転々とし、大正14年(1925年)、
小豆島の寺にある小さな庵に落ち着き、翌年42歳で亡くなりました。


尾崎放哉は、5・7・5の定型にとらわれない「自由律俳句」で知られています。
(たぶんもっとも有名な句は「咳をしても一人」でしょう)

彼は学生自体から俳句を作っていますが、面白いことに、名作として知られる句は、
晩年のわずか3年間に集中しています。

『尾崎放哉句集』池内紀編(岩波文庫)を読むと、
死に近づくにつれて彼の句が鋭さを増していくのがわかります。


うそをついたやうな昼の月がある

めしたべにおりるわが足音

雀のあたたかさを握るはなしてやる

爪切るはさみさへ借りねばならぬ

肉がやせてくる太い骨である


すべてを捨てて句作に没頭した俳人といえば、
種田山頭火を思い浮かべる人もいるかもしれません。

10歳の頃に母の自殺を目撃したトラウマから一生立ち直れず、
酒に溺れ、妻子を捨てて放浪の旅を続けた山頭火ですが、
彼の句にはどこか明るさがあります。


分け入っても分け入っても青い山

すべってころんで山がひっそり

笠へぽつとり椿だつた

炎天のはてもなく蟻の行列

ころり寝ころべば青空    『山頭火句集』村上護編(ちくま文庫)より


二人の違いは似たようなシチュエーションの句を比べてみるとよりはっきりするかもしれません。


一つあれば事足る鍋の米をとぐ     山頭火

入れ物が無い両手で受ける        放哉


同じ独りでも、山頭火には行雲流水というか、自然と共に流れ流れて生きていくような
自由さがありますが、放哉の場合は一つ所にとどまって、ゆっくりと死に近づいていくような
感じがあります。最期にはなにもかも失ってしまう(鍋すらも)イメージです。


ところで「世を捨てた」という切り口で日本文学史上いちばんの大物を探すとすれば、
やはりこの人、鴨長明の名を挙げないわけにはいきません。

歌人や音楽家として知られた鴨長明は世を捨てて仏門に入り
やがて随筆『方丈記』を著しますが、ぼくがオススメしたいのは意外と知られていない
『発心集』という説話集です。

『発心集』は世を捨てて仏の道に入った人のエピソードばかりを集めた本。
いわば尾崎放哉や種田山頭火の大先輩たちのお話です。
というか、日本には中世から隠棲文化みたいなものが伝統としてあるんですね。

身分の高い人がすべてを捨てて物乞いになったり、
暴れん坊として知られた男が仏を探して西へ向かううちに往生をとげたり、
『発心集』にはさまざまなエピソードがのっています。

しかもちゃんと世を捨て切れた人だけではなく、
失敗した人の話ものっているのが面白い。
短く要約してひとつ紹介すると――


西と東になにかにつけ比較されるふたりの高僧がいました。
西の僧が厳しい行を成し遂げたと聞けば、
東の僧も負けじと厳しい修行に身を投じるなどして競い合っていたのですが、
とうとうある時、西の僧が焼身のパフォーマンスをすると言い出します。
そして大勢の人が見守る前で西の僧の小屋に火が放たれました。
この僧は念仏を唱えながら身を焼かれ最期に叫びました。
「いまや東の僧に完全に勝ったのだ!」


鴨長明は、ベースにあるのが名誉欲や優越感、嫉妬心に過ぎないのに、
入水や焼身自殺をすれば往生できると思い込むのはたいへんな思い違いだと言っています。


ところで、この本のなかで鴨長明は「正しい世の捨て方」についても述べているのですが、
それによれば「真の隠者は町の中にいる」のだそうです。

わが身は町中にありながら、その徳をよく隠して、人に知られないということ。
これこそが賢い人の世の捨て方で、山林に分け入って行方を隠すのは、
人の中にあると徳を隠せない未熟な人の行為なのだとか。

ということはつまり、ぼくのケースに当てはめるならば、
ヨメと暮らしながら世を捨てるのが正しいやり方ということに・・・・・・。

鴨長明さん、いくらなんでもそれはあり得ないって。

投稿者 yomehon : 10:00

2007年08月12日

どこよりも早く!?今年の江戸川乱歩賞受賞作をイッキ読み!


モグラ、海坊主、ホトトギス、肉まん、シベリウス、マクベス・・・・・・。

寝不足の頭の中をこれらの言葉がぐるぐる回っています。
いえ、別におかしくなったわけではありません。
これらはある特殊な世界で使われる言葉たち。
ついさっきまでこの特殊な世界の物語にどっぷり浸っていたせいか
すっかり頭の中を占領されてしまったようです。

『沈底魚』曽根圭介(講談社)は、第53回江戸川乱歩賞受賞作。
夢中で読み耽るうちに、気がつくとカーテンの向こうが薄明るくなっていました。


なぜこんなにも夢中になって読んだかといえば、
この『沈底魚』が近年の受賞作の中では珍しい直球勝負の意欲作であったからです。


あくまでぼく個人の見立てにすぎませんが、
江戸川乱歩賞の受賞作には「ある傾向」があると思います。

あまり世間に内実を知られていないような職業やテーマを選び、
徹底的に取材し、その成果を作品に盛り込む。
結果としてその作品を読めば、ある職業やテーマについてそこそこのことがわかる。
そういう作品が乱歩賞の選考会ではウケるような気がします。
(ぼくは個人的にその手の小説を「情報小説」と呼んでいます)

過去、「情報小説」系の作品が受賞したケースはいくらでも挙げられます。
たとえば第42回受賞作の『左手に告げるなかれ』は、万引きを補導する保安士を
主人公の職業にすえその世界をしっかりと描いていましたし、
第47回受賞作の『13階段』は死刑制度や刑務官という職業を、
第50回受賞作の『カタコンベ』はケイビング(洞窟探検)の世界を、
それぞれマニアックなまでに描き出していました。

なにか目新しい分野について「へ~」と思えるような情報が盛り込まれていること。
もちろん授賞理由はそれだけではないのでしょうが、
こと江戸川乱歩賞に限ってはその手の作品が評価される傾向が強いと思うのです。


では本年度の乱歩賞受賞作『沈底魚』
「近年の受賞作の中では珍しい直球勝負の意欲作」であるとはどういうことか。

それはこの作品が、
これまでたくさんの先行作品が存在する警察小説のジャンルで
果敢に勝負を挑んでいることを指しています。

新人が手っ取り早く目立とうと思えば、
何か目新しいジャンルで勝負するのが利口なやり方だと思うのですが、
この作者はすでに数多くの作品が書かれている警察小説の分野で
自分の力を試そうというのです。

しかも警察の中でも作者が取り上げたのは「公安」でした。
いわゆるエスピオナージ(諜報機関)ものです。
これも乱歩賞では珍しい。
いったいどんな作品なのか、俄然、期待は高まります。


『沈底魚』の舞台となるのは警視庁公安部外事二課です。
警視庁では外事一課がヨーロッパとロシアを担当し、二課は中国と北朝鮮の事案を扱っています。
物語の主人公はこの外事二課の刑事・不破。

ある時、中国公安当局の高官が貿易会社副社長の肩書きで来日するという情報が入り、
主人公の不破はこの男をマークするという任務に従事します。
時を同じくして新聞に、現職の国会議員が中国に機密情報を漏洩していたという疑惑が
スクープされます。情報のもととなっているのは、米国に亡命した中国人外交官の証言でした。

沈底魚というのは、スパイの世界でいうスリーパー(眠れるスパイ)のこと。
何年もの間、ごく普通の市民として生活し一般社会の中に溶け込んでいますが、
いったん組織からの指示が下れば工作員として活動を始めます。

その沈底魚が一市民ではなく現職国会議員だというのです。

この驚愕の情報を前に公安刑事たちの極秘捜査が始まります。


公安を扱った名作といえば、真っ先に思い浮かぶのが
逢坂剛さんの『百舌の叫ぶ夜』をはじめとする一連の「百舌シリーズ」ですが、
あの作品が記憶をなくした百舌という殺し屋を主人公にした
どちらかといえば小説でしかありえないような設定の娯楽作品だったのに比べ、
この『沈底魚』はどこまでも現実に即した公安警察の姿を描こうとしています。

そのせいか物語は娯楽小説的な派手な展開をみせることなく、
地味で抑制された印象を読む者に与えます。
もしかするとこの点は読者の好みが分かれるかもしれません。


公安警察という組織が、
さまざまなルートから情報を集め、
その情報をこねくりまわすことで事件の絵を描いていくものだとするならば、
『沈底魚』での作者の試みは成功しているといっていいでしょう。

はたして現職国会議員の●●は中国の大物沈底魚なのか。
それともこの情報はガセネタなのか。
いや、そもそもこういう情報が流れること自体、中国側の罠ではないか。

オセロが黒から白、白から黒へと変わるように、次々と事件の見え方が変わります。
事件の見え方が変わるのは、何かどんでん返しのようなものが仕掛けられているからというわけではなくて、
ひとつの情報に別の角度から光を当てると突如見え方が変わるのです。

そして事件の見え方が変われば、これまでノーマークだった人物に
突然疑惑の火の粉が降りかかることもあり得ます。

これまで真実だと信じられていたものが、見方を変えた途端、偽りへと転じる。
公安の世界では、これは当然の常識のようです。

けれども一方でこれは、情報に振り回されているとも言えないでしょうか。
主人公の不破もそのことにたびたび空しさを感じます。


情報ひとつで事件の相貌ががらりと変わる特殊な公安警察の世界。
そしてその組織に属する者たちの人間ドラマ。
『沈底魚』はこのふたつを巧みに描いて読ませます。

ストーリーが地味なことをもって文句を言う向きもあるやもしれませんが、
ぼくはあえて大人のミステリーとして肯定的に評価したい。

夏休みの息抜きにオススメできる作品です。

投稿者 yomehon : 15:05

2007年08月11日

ハリウッドにも負けない!迫力の海洋エンターテインメント


「平成ガメラシリーズ」といえば、
監督:金子修介、特撮監督:樋口真嗣のコンビでお馴染み、
日本特撮映画史に残る傑作シリーズです。

『ガメラ 大怪獣空中決戦』
『ガメラ2 レギオン襲来』
『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』の3作からなる平成ガメラシリーズには、
特撮ファンならずとも心躍るシーンが満載で、個人的には『ガメラ2 レギオン襲来』
仙台から東京へと迫るレギオンとガメラが群馬県は赤城付近で遭遇する場面、
上空から飛来したガメラが着地と同時にレギオンの周りを回転しながら
火弾を連発するシーンがカッコ良くイチオシです・・・・・・って、い、いかん!何をコーフンしてるんだ(恥)


ともかく平成ガメラシリーズには印象的なシーンがいろいろあるのですが、
『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』には、深海探査艇「かいこう」が日本海溝の底で
ガメラの墓場を発見するシーンが出てきます。

真っ暗な海底をライトで照らすと累々たるガメラの屍が浮かび上がる。
その映像にはぞくぞくするようなリアリティがありました。
特撮の映像を指して「リアリティ」なんて言葉は変かもしれませんが、
ここで言う「リアリティ」というのはつまり、深海にはこういうものがあってもおかしくない、という意味です。

そう、人間はまだ深い深い海の底のことを何も知らないのです。


海洋エンターテイメント小説の秀作『鯨の王』藤崎慎吾(文藝春秋)も、
小笠原諸島聟島の北約300㎞に位置する鳴海海山で
潜水調査船「しんかい6500」に乗船した鯨類学者・須藤秀弘が、
約4000メートルの海底で巨大な鯨の骨を発見する印象的なシーンから始まります。

須藤によって発見された鯨の頭骨は、40メートル近いクジラのものでした。
地球最大の生物とされるシロナガスクジラだって30メートルしかないのですから
これはとんでもなく巨大なクジラだということになります。

『鯨の王』は、このような普通だったら「ありえない」クジラを
圧倒的な筆力で、「もしかしたらこの広い海のどこかにいるかもしれない」と
思わせてくれるほどのリアリティをもって描き出した作品です。

ストーリーはいたってシンプル。
深海で発見された巨大クジラを巡って、米軍やアメリカの製薬会社、イスラム原理主義テロ組織など
さまざまな集団の思惑が入り乱れて物語が進行していきます。


『鯨の王』のリアリティを支えているのは、なによりもまず作者の科学的な視点でしょう。

たとえばこの物語の主役である巨大クジラは、
米軍の攻撃型原子力潜水艦を襲撃したりします。
クジラが原潜を攻撃するなんて普通考えられませんが、
どんなふうに攻撃するか、なぜ原潜を攻撃するにいたったか、などについて
作者はちゃんと合理的な説明を与えています。

それだけではありません。

クジラはなぜ巨大化したのか。
それほどまでに巨大なクジラがなぜこれまで発見されずにいたのか。
巨大クジラはどうして深海で生きていられるのか。
呼吸はどうしているのか。体の構造はどうなっているのか・・・・・・。

こういった疑問のすべてに作者は答えを用意しています。

このようにしっかりとした科学的背景をもっていること。
それがこの一見すると荒唐無稽な物語を地に足がついたものにしているのです。


登場人物が魅力的であることも見逃せません。
主人公の鯨類学者・須藤秀弘はその筆頭です。

小説の中で須藤秀弘は、学者としては超一流であるにもかかわらず、
アル中で家族に愛想をつかされているという設定になっていますが、
読みながらこのキャラクター設定には、エンターテインメント小説のジャンルで
前例があることを思い出しました。

たとえば中島らもの傑作『ガダラの豚』(集英社文庫)の主人公・大生部教授がそう。
大生部教授の場合は鯨ではなくアフリカの呪術研究が専門でしたが、
普段は酒浸りの生活を送っているのに、いざという時には際だった学問的ヒラメキを
みせる点では、大生部教授も須藤教授も共通しています。

ところがこの主人公の須藤秀弘には現実のモデルが存在するそうです。
東京海洋大学の加藤秀弘教授がその人。
もちろん加藤教授はアル中ではありませんが、
外見や雰囲気はまさに物語中の須藤秀弘を彷彿とさせます。
(ちなみに『鯨の王』の巻末には、この加藤教授と作者の対談も載っています)


しかしなんといっても『鯨の王』のいちばんの魅力は、
巨大クジラと原潜ポーハタンの戦いの描写の素晴らしさに尽きます。

たとえば次のような場面を読んでいるとき、
ぼくの脳内映像は、ハリウッドの大作も凌ぐほどの迫力を帯びるのです。


「親玉クジラは不敵にも、また〈ポーハタン〉の正面に立ちふさがっていた。
体長約六○メートルの怪物が、呼び戻されたROV二号機の音響カメラにとらえられている。
地上最大の動物とされていたシロナガスクジラの倍もあり、体重は三二○トンを超えているはずだ。
それが約二七○メートル離れた場所から、原子力潜水艦をにらみつけていた」(376ページ)


このくだりの後、延々13ページにわたって原潜と巨大クジラとの死闘が描かれます。
原潜は新型魚雷を駆使して。
一方のクジラは「ある武器」を使って。
誰も見たことのないクジラと潜水艦との深海での戦いを
作者は想像力を武器に描き出していくのです。


それにしてもこの小説を読んでいると本当に
「深海には何があってもおかしくない」という気にさせられます。

たとえば映画『アビス』は深海の知性体との遭遇を描いていますが、
このように深海に人類とは別の知的生物がいたとしても
少しも不思議ではありません。

いえ、深海でなくても広い海にはまだたくさんの謎が残されています。

2006年10月、古くからクジラ漁が盛んなことで知られる
和歌山県の太地町沖で、腹びれのあるイルカが捕獲されました。

太古の昔、鯨類にはかつて陸上で四足歩行していた時の名残の腹びれがありましたが、
その後退化してしまったそうです。
その腹びれが完全な形で残るイルカが生きたまま捕獲されたのです。
当然のことながら世界初の発見として話題となりました。


こんなことだってあるのですから、もしかすると本当に
深い海の底には想像を絶するほどに巨大な生物がいるかもしれません。

地球上で最後に残された人類未到の地。
『鯨の王』は、そんな深海に対するロマンを掻き立ててくれる作品です。

投稿者 yomehon : 09:00