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2007年06月24日

時代小説ブームを支える作家


ある日、神保町の三省堂書店を訪れたときのこと。
これまで紀行文や旅行ガイドのコーナーだった1階レジ横の一角が
いつの間にか時代小説の売り場に模様替えしているではありませんか。

しかも売り場の中心には「あの人」の作品が並べられています。
「あの人」とは、近年の時代小説ブームを牽引する中心人物にして、
文庫書き下ろしの新作を驚異的なペースで発表し続ける佐伯泰英さんのこと。

佐伯泰英さんのことは一昨年10月24日付けの当ブログでも紹介していますが、
物書きとして長いこと売れず、最後のチャンスで初めて挑んだ時代小説の分野で
超売れっ子作家になったというエピソードは、いまや伝説と化しています。

その佐伯さんが先日ついに文庫書き下ろし100冊という偉業を達成しました。


時代小説の歴史を振り返ると、その折々で象徴的な書き手が登場しています。

戦後まもなくの時代小説ブームのきっかけをつくったのは柴田錬三郎です。
円月殺法でお馴染みの眠狂四郎は、それまでの時代小説にはなかった
負の側面を持つヒーローでした。( 『眠狂四郎無頼控』など)

1984年には隆慶一郎が彗星のごとく現れ、ふたたび時代小説ブームをもたらします。
彼は網野善彦氏の中世史の成果を大胆に援用して、正史の裏に隠されたものを奔放な想像力で
描き出し、熱狂的な支持を得ました。( 『吉原御免状』など)

けれども89年に隆氏が亡くなり、翌90年には池波正太郎氏、96年に司馬遼太郎氏、
翌97年に藤沢周平氏といった大物たちが立て続けに物故するに及んで、
時代小説の勢いは一挙にしぼみました。

「時代小説は売れない」――そんな言葉を大手出版社に勤める友人から聞かされた覚えがあります。


けれどもその一方で新しい動きも生まれていました。
中小の出版社が「文庫書き下ろしの時代小説」という試みを始めたのです。

それまではまず小説誌に作品を発表し、次に単行本にまとめ、やがて文庫化するという流れが
一般的でした。このような一連の流れをカバーできる所となると、どうしても大手出版社に限られます。
ところが文庫書き下ろしとなると出版社の規模は関係ありません。
大手だろうが中小だろうが、いかに作家に売れる作品を書かせるかが勝負となります。

このような時代背景のもと、佐伯泰英さんは1999年に文庫書き下ろし作品『密命 見参!寒月霞斬り』(祥伝社文庫)でデビューします。以来、破竹の勢いで新作を発表し、今日の時代小説ブームの立役者となりました。


まだ読んだことがない方のためにいくつかおすすめの佐伯作品を。
以前、佐伯さんを取り上げた時は『八州狩り』を初めとする密偵・夏目影二郎が主人公のシリーズを
推薦したので、今回は別の作品をご紹介しましょう。

時代小説の利点について柴田錬三郎は、現代小説と違って「シンプル・ハート」の持ち主が描きやすいという点をあげています。( 『柴錬ひとりごと』中公文庫
何があっても主君に忠誠を誓い続けるとか、ひとりの女性を想い続けるとか、時代小説にはそんな魅力的なシンプル・ハートの持ち主が数多く登場します。

佐伯作品も例外ではありません。
なかでも屈指の好青年が『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズの主人公、坂崎磐音ではないでしょうか。

藩内騒動がもとで竹馬の友を斬り、その悲しみを背負い浪々の身となった坂崎磐音。
直心影流の使い手でありながら、その剣は攻めの剣ではなく受けの剣で、
修羅場にあってもまるで居眠りをしているかのような泰然とした雰囲気を漂わせる。
そんな強さと弱さをあわせ持った等身大の主人公が江戸の悪と対決する痛快な作品です。


せっかくですからもうひとり魅力的な主人公をご紹介しましょう。
身の丈5尺一寸(153センチ)の短躯、禿げ上がった大額にぎょろりとした目玉の異貌、
しかも齢49歳で独身、身分は豊後森藩の厩番。
『酔いどれ小藤次留書』シリーズの主人公赤目小藤次は、主人公キャラにはしては珍しく容貌に
恵まれず、しかも貧しい下級武士です。けれども実は亡き父から、不安定な船の上で戦う水軍由来の
一子相伝の秘剣を教え込まれた剣豪なのです。

藩主の屈辱をそそぐため、たったひとりで四つの藩の大名行列を襲い鑓先を切り取っていく
『御鑓拝借(おやりはいしゃく)』(幻冬舎文庫)は、下級武士でありながら誰よりも藩主のことを思う
小藤次のシンプル・ハートが存分に感じ取れる作品です。

投稿者 yomehon : 10:00

2007年06月11日

情熱的科学者の爆笑冒険記


もしあなたがスペイン料理店を訪れた際に
メニューに「アンギュラス」という文字をみつけたら、ぜひ頼んでみることをオススメします。

あなたのテーブルに運ばれてきた耐熱皿からはニンニクの香りが立ち上り、
グツグツと煮立ったオリーブオイルの中には白魚のような姿をしたアンギュラスが踊っているはず。
このアンギュラス、実はウナギの稚魚なのです。

ところがこんなふうに稚魚にはお目にかかれても、それ以前の状態、
つまり産まれたばかりのウナギの仔魚や卵などがぼくらの目に触れることはありません。
それもそのはず。ウナギの産卵生態はこれまでまったくの謎に包まれていたのです。


そんな中、世界で初めてニホンウナギの産卵場所を特定したのが
東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授率いる「行動生態研究室」、
別名「ウナギグループ」でした。

ウナギといえば一般に川の魚と考えられていますが、
実は日本列島から遙か2千キロも離れたグアム島付近の海で産卵していることが
「ウナギグループ」によって突き止められたのです。


『アフリカにょろり旅』青山潤(講談社)は、
この塚本研究室で助手をつとめる若きウナギ研究者が
アフリカの奥地で珍種のウナギを捕獲するまでを綴った爆笑旅行記。
この本は近年読んだ科学読み物の中でも出色の面白さでした。


ウナギの世界というのはたいへんに奥が深い。
現在地球上には18種類のウナギが生息しているのですが、
中にはほとんど研究がなされていない種類もあって、
産卵生態や類縁関係などもよくわかっていなかったのだそうです。

そんなわけで塚本研究室ではウナギの生態を解明するために
世界中でウナギを採集し遺伝子の解析などを行ってきましたが、
1種類だけどうしても手に入らないウナギがありました。
それがアフリカに生息する「ラビアータ」という種類だったのです。

世界のウナギの類縁系統関係を解明するためには全18種類はどうしても揃えたい。
しかも全18種類をずらりと揃える研究所は世界中どこにもないという。

ならば世界のトップをきってラビアータを捕獲してやろうじゃないかと考えるのは、
学問に情熱を燃やす若き学徒であれば当然のこと。
かくて青山青年は、後輩の渡邊俊君、塚本教授とともにアフリカのマラウイに飛びます。


マラウイ共和国は地図で見るとアフリカ大陸の右下に位置します。
国土の5分の1を湖や川などの水地が占めており、いかにもウナギがいそうな感じ。
ところが現地の人々にとってウナギは馴染みのない魚で、捜索は困難を極めます。

加えて50度を超える猛暑、宿のトイレは水がなくウ○コてんこ盛り、
しかも水の中には住血吸虫という寄生虫がうようよいるような悪環境。

途中からは教授が帰国してしまい、取り残された青山青年らは、
時には熱中症寸前の朦朧とした意識でアフリカの大地をさまよい、
また時には窓のないバスに必死につかまりジャングルの中を疾走するなどして
ウナギを追い求めるはめになります。


この本を読んでもっとも感動させられるのは、
このようにサンプルを入手するために
アフリカの奥へ奥へと分け入っていく青山さんたちの姿です。

彼らの情熱と執念に圧倒されながら、
誠実に学問と向き合うとはかくも大変なことなのかと思わされました。


「学問と誠実さ」という問題を考えるときにぼくが思い出すのは、
数年前、世界の科学界に衝撃が走ったある大スキャンダルのことです。

そのスキャンダルの全容は、
『論文捏造』村松秀(中公新書ラクレ)という
これまた読み出すと止まらない
極めて面白いノンフィクションで知ることができます。


2000年7月、オーストリアのアルプス山中にある小さな町で開催された
国際科学会議で世界の科学者たちを驚愕させる発表がなされました。

その発表はごくごく簡単に言うと、
世界のエネルギー問題を解決する可能性を秘めた
「超伝導」に関わるものでした。

世界の超一流の科学者たちを驚かせ、会場を興奮のるつぼと化したのは、
これまで多数のノーベル賞学者を輩出したことで知られるアメリカの名門、
ベル研究所に所属していたひとりの若者の研究発表でした。

そのドイツ出身の若き物理学者、ヤン・ヘンドリック・シェーンは、
一夜にして科学界のスパー・スターとなり、
その後も『ネイチャー』や『サイエンス』といった一流の科学ジャーナル誌に
驚異的なスピードで斬新な論文を発表していきます。
いつしかシェーンはノーベル賞の有力候補と目されるまでになりました。

ところがその2年後、シェーンは実際には実験を行っておらず
論文も捏造だったことが発覚し、科学界に大きな衝撃が走ったのです。


この本からみえてくるのは、現代の科学が置かれている環境です。
科学はいまや企業にとって「金のなる木」、
科学と資本との連携は欠かせないものとなっています。

極端な言い方をすれば、かつては純粋な知的好奇心に支えられていた科学は、
いまでは秘密裏に研究をすすめ、特許で金を稼ぐ手段となりました。

科学者には企業の利益に直結するような結果を出すことが求められ、
プレッシャーに常にさらされるようになったのです。


シェーンが捏造に走った背景にもそのような大きなプレッシャーがあったとはいえ、
サンプルを手に入れるための努力を怠り、モニター上でデータをつぎはぎするだけで
華々しく発表を繰り返していた彼が、科学者と呼ぶに値しないことは明らかです。

むしろ埃まみれになって喉の渇きに耐えながらも
アフリカでウナギを追い求める青山潤さんのような人こそが
真の科学者と言えるのではないでしょうか。


『アフリカにょろり旅』を大笑いしながら読み終えてもうひとつ感じたのは、
科学の世界には優れた書き手がどれくらいいるのだろう、ということでした。

子供たちの理系離れが問題視されていますが、
そういう流れを食い止めるのに必要なのは、
科学を面白く楽しく感動的に語れる人材ではないでしょうか。

たとえばぼくは青山さんの次のような文章をみると
壮大なロマンを感じ、胸がふるえます。


「ウナギ属魚類は、一生に一度しか産卵しない。
そしてニホンウナギの場合、そのたった一度の営みを、
太平洋の真ん中、深い海の中で海面近くまでそびえ立つ
富士山よりも大きな海山で、真っ暗な新月の夜に行うのである」(276ページ)


美しい描写です。
そして自然というものが、
ぼくらが想像もできないような仕組みで動いていることを
感じさせてくれる文章です。

ぼくはこの『アフリカにょろり旅』のような
面白い科学読み物がもっともっと書かれることが
子供たちの理科離れを食い止めることにつながるのではないかと思います。


2005年の6月、グアム島の西北西およそ200キロの地点で、
東大海洋研ウナギグループは、ニホンウナギの産卵場所を特定しました。

また世界のウナギ全18種類の解析によって、
わずか10年ほど前まで謎に包まれていた
熱帯域のウナギの生態が一挙に明らかになるとともに、
ウナギ属魚類の進化の道筋さえもぼんやりと見えるようになったといいます。

青山潤さんらの命がけの「にょろり旅」は
ウナギ研究において日本を世界のトップへと押し上げる
まさに科学的な貢献をしたのでした。

投稿者 yomehon : 10:00

2007年06月04日

ミノタウロスの時代


牛頭人身の怪物ミノタウロスは
ギリシア神話のなかでももっとも有名なキャラクターのひとつです。

クレタ島のミノス王が海の神ポセイドンを欺いたために、
怒ったポセイドンがミノス王の妃に呪いをかけます。

その呪いとは妃が牛に性的欲望をおぼえるようになるというおぞましいもので、
やがて妃は牛と交わり、牛の頭を持つ怪物ミノタウロスを産みます。

ミノタウロスは成長するにつれてどんどん凶暴になり手に負えなくなります。
そのためミノス王はダイダロスに命じて(後にイカロスの翼をつくる天才発明家です)
迷宮(ラビリュントス)をつくらせ、ミノタウロスを閉じこめます。

そしてミノタウロスに与える生け贄として、アテナイから定期的に少年少女たちを
送らせるようになります。

ある時そのなかにアテナイの王の息子、テセウスが紛れ込んでいました。
テセウスはミノタウロスと戦い、その首を切り落とし、脱出不可能とされる迷宮から
ミノス王の娘アリアドネにもらった糸玉をつかって脱出するのです。
(このあたりの物語は、たとえば阿刀田高さんの『ギリシア神話を知っていますか』
なかにおさめられた「アリアドネの糸」などで読むことができます)

こんなふうには考えられないでしょうか。

牛の頭を持ち、子どもを喰らうミノタウロスはたしかに恐ろしい怪物です。
けれどもその反面、とても哀しい存在でもあります。
なぜならミノタウロスは自ら望んでそのような姿になったわけではなく、
権力の座に目の眩んだ父親が神を欺いたために
怪物として生きることを余儀なくされたのですから。


佐藤亜紀さんの新作『ミノタウロス』(講談社)は、
ミノタウロスのように生きることを余儀なくされた人間を描いた傑作長編です。
この小説は間違いなく今年のベスト候補だと思います。


ぼくが佐藤亜紀さんを初めて知ったのは1991年のことでした。
この年、佐藤さんは『バルタザールの遍歴』(文春文庫)という作品で
第3回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビューしたのです。

もし「完璧なデビュー作」というものがあるとしたら、
ぼくは真っ先にこの『バルタザールの遍歴』をあげたい。

ハプスブルク帝国が崩壊し、ナチスが台頭する時代を背景にして、
ひとつの肉体を共有する双子、バルタザールとメルヒオールの
めくるめく逃避行を描いたこの作品は、選考委員たちを驚愕させました。

選考委員の荒俣宏さんは当時、
「私はてっきり、ドイツ統一記念にミュンヘンあたりの幻想作家が書き上げた
海外作品の翻案であろう、と思いこんだほどである」と選評で書いています。

つまり佐藤亜紀さんは、デビュー作ですでに世界レベルの作品を書いていたのです。


以来、佐藤さんは数々の小説を発表してきましたが、
そのことごとくが素晴らしい水準にありました。
イチローだったらヒットを打って当たり前、とファンが考えるのと同じように、
ぼくは「佐藤亜紀だったら傑作で当たり前」と考えます。

ですから彼女の作品を読むときにぼくがいつも気にかけるのは、
作品の出来不出来などではもちろんありません。
大切なのは「佐藤亜紀という作家が何を語ろうとしているか」ということだけなのです。

では新作『ミノタウロス』で語られているのはどんなことなのでしょうか。


20世紀初頭のロシア。
革命によって社会の枠組みが壊れ、
力ある者が暴虐の限りを尽くす
そんな時代が物語の舞台です。

主人公は農場主の息子として裕福に暮らしていた少年です。
彼はフランス語でセルバンテスを読むような教養の持ち主ですが、
革命の混乱のなかで家を失い、家族も失い、
たったひとりで生きなければならなくなります。

少年は奪い、犯し、殺します。
そして、生き延びるために略奪と殺戮を繰り返す日々のなかで
少年はやがて喜びを感じるようになります。


「ぼくは美しいものを目にしていたのだ――人間と人間がお互いを獣のように追い回し、
躊躇いもなく撃ち殺し、蹴り付けても動かない死体に変えるのは、
川から霧が漂い上るキエフの夕暮れと同じくらい、
日が昇っても虫の声が聞こえるだけで全てが死に絶えたように静かな
ミハイロフカの夜明けと同じくらい美しい。(略)殺戮が?それも少しはある。
それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、
それが何の制約もなしに行われることだ。
こんなに単純な、こんなに簡単な、こんなに自然なことが、
何だって今まで起こらずに来たのだろう。誰だって銃さえあれば誰かの頭をぶち抜けるのに、
徒党を組めば別な徒党をぶちのめし、血祭りに上げることが出来るのに、
これほど自然で単純なことが、何故起こらずに来たのだろう」 (182ページ)


「力ある者が生き残る」というシンプルな原則に貫かれた世界。
ただ生き延びるためだけに力が行使される世界。
少年はそこに美しさを見出しているかのようにみえます。

もしも作者の目指した到達点が
暴力や破壊に美を見出すといった点であったなら、
この作品は、暴力や破壊に価値を見出してみせることで
通俗的なモラルや道徳観に異を唱えたつもりになっている
よくある小説のひとつに数えられていたことでしょう。

けれども佐藤亜紀さんほどの作家が
そのような底の浅いところにとどまるわけがありません。
彼女はさらに深く物語を掘り下げていきます。

そしてラストシーン近くで
ぼくたちは主人公のこんな問いに遭遇するのです。


「人間を人間の格好にさせておくものが何か、ぼくは時々考えることがあった。
それがなくなれば定かな形もなくなり、器に流し込まれるままに流し込まれた形になり、
更にそこから流れ出して別の形になるのを――ごろつきどもからさえ唾を吐き掛けられ、
最低の奴だと罵られてもへらへら笑って後を付いて行き、殺せと言われれば老人でも子供でも殺し、
やれと言われれば衆人環視の前でも平気でやり、重宝がられせせら笑われ忌み嫌われる存在に
なるのを辛うじて食い止めているのは何か」(269ページ)


人間を人間たらしめているものが何かと考えてしまうのは、
少年がもはや人間ではないからです。

では少年は獣になったのかといえばそうではありません。
動物はそもそもそのような問いを発することがないからです。

少年は数え切れないほどの略奪と人殺しを繰り返すうちに、
人でもなく獣でもない「ミノタウロス」のような存在となってしまったのではないか。
ぼくはそう思うのです。


この小説を読んでいる間、ぼくが疑問に思っていたことがあります。
20世紀初頭のロシアが舞台となっているにもかかわらず、
現代に生きるぼくたちのことが書かれているような気がしてしまうのは何故なのか。

でもある一冊の本がそんな疑問について考えるヒントを与えてくれました。

『生きさせろ! 難民化する若者たち』雨宮処凜(太田出版)は、
ワーキングプアと呼ばれる若者たちの実態に迫ったルポルタージュです。

請負労働者として低賃金で働かされ最低限の生活さえままならない、
働いても働いても貧しさから抜け出せないような人々のことを
「ワーキングプア」と呼びます。


「闘いのテーマは、ただたんに『生存』である。生きさせろ、ということである。
生きていけるだけの金をよこせ。メシを食わせろ。人を馬鹿にした働かせ方をするな。
俺は人間だ。スローガンはたったこれだけだ。」(10ページ)

雨宮さんが描く若者たちの労働の現場は、まさに戦場です。
その光景がぼくのなかで、生きるために富を奪い合う
『ミノタウロス』で描かれたような革命後の荒涼とした世界と重なりあいます。

現代とは人がミノタウロス化していく時代ではないのか。

佐藤亜紀さんのこのすぐれて現代的な小説を読んでからというもの
そのような問いが頭から離れません。

投稿者 yomehon : 10:00